「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。・・・主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」   (出エジプト記1413,14 

 イスラエルの民のエジプトからの脱出を拒否し続けたエジプト王ファラオも、エジプト中の初子が打たれるという災いに遭って、遂に、脱出を認めたので、イスラエルの民は、まるで凱旋したかのように、意気揚々とラメセスを出立した。
 ところが、イスラエルの民が荒れ野を前にして、バアル・ツェフォンという海辺の袋小路のような所に宿営したとの報告を受けたファラオは、再び心をかたくなにして、エジプトの全軍を動員して、後を追わせた。これは、実は神がエジプト軍をおびき出して滅ぼすことによって、イスラエルの民に御栄光を現すためであったのだが、追手が背後に迫って来るのを見て、イスラエルの人々は非常に恐れて、モーセに向かって「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか」と、ひどいことを言い出した。彼らは、奴隷根性が抜けず、自立した自由な人間として、自覚的に神の前に立っていなかったために、都合が悪くなると、神を信頼出来なくなり、指導者モーセに当り散らしているのである。
 これに対して、主なる神は標記のように言われた。ここに、解放された自由人の生き方が示されている。神御自身が戦って守って下さるとの約束を信じて、全てを神に委ねるところに、本当の自由があり、落ち着いた静かな生活が待っている。主はモーセに、杖を高く上げて、手を海に向かって差し伸べるように命じられると、海の中に乾いた地が現れ、そこを進むことが出来た。そして、渡り終わった頃、再び手を差し伸べると、海の中に入って来ていたエジプトの全軍は水に呑み込まれてしまったのである。
 ところで、この出来事をパウロは洗礼と結びつけて受け留めている(Tコリント10:T,2)。私たちが洗礼を受けることは、神が海を分けてイスラエルの人々を奴隷状態から救い出されたように、私たちが罪の奴隷から救い出されることである。それが行われるのは、イスラエルの民が優れていたとか、信仰が深かったからではなく、むしろ奴隷状態から離れる意欲も乏しく、不信仰の中で、神の一方的な赦しと導きによって救い出されたように、私たちも、神の一方的な赦しと働きかけによるのだ。神がエジプト軍とイスラエルの民の間に雲の柱を割り込まされたように、主イエス・キリストをサタンやこの世の力との間に割り込ませて、主イエスを犠牲にして、私たちを救い出して下さったのである。

米子伝道所主日礼拝説教<要 旨> 2011年9月4日  山本 清牧師 

 聖  書:出エジプト記14:5−31
 説教題:「主の救いを見よ」
         説教リストに戻る