序.自由への旅立ちのために

8月に入ってから、旧約聖書の出エジプト記によって礼拝を守っています。エジプトで奴隷状態にあったイスラエルの民が、神様によってそこから脱出して自由な地へ向かって旅を始めるのでありますが、それはまた、罪の奴隷になっている私たちが、神様によって真の自由へと解放されたことと重ね合わせられる出来事であるということを、ここまでのところでも学んで来ました。
 
今日の箇所は、出エジプトの物語の中でも、最も有名な場面でありまして、海が割れて、その中をイスラエルの民が渡って行く光景は、クリスチャンでなくても、また聖書を読んだことがない人でも、「十戒」という映画などで知られています。1990年に大阪で開催された「花の万博」(国際花と緑の博覧会)では、クボタのグループが、この光景を演出しました。会場の中にある池が真っ二つに割れて、その中を来場者が渡って行けるという仕掛けを作ったのですが、それはクボタのポンプの威力をアッピールするものでありました。この発案をクボタにいた小学校以来の友人が私の所に持って来ましたので、私がいた会社で技術的な部分を応援して実現したのですが、花博の話題の一つとなました。しかし、来場者たちが聖書の伝えようとする出エジプトの意味を果たしてどこまで理解したかは、極めて疑問であります。
 
海が割れたという奇跡的な出来事については、伝説に過ぎないという見方がある一方で、あの地域は潮の干満が激しくて、渇いた砂浜に潮が満ちると、突如として水で覆われてしまうことがあるのだという説明がなされたり、いや、津波によるのだという説を唱える学者がいたり、激しい季節風によって起こり得ると説明する人もいます。しかし、何らかの超自然的な現象が起こらなければ、イスラエルの人々の記憶に残ることはなかったでしょうし、自然現象として説明出来るとしても、絶妙なタイミングで起こった背後には、神様の御意思と御力が働いたと理解した方がよいのではないかと思います。大切なことは、この出来事を通して神様はイスラエルのために何をしようとされたのか、そして、私たちはこの出来事と自分の生き方を重ね合わせながら、神様の御心をどのように聴き取るのかということであります。
 
13節に、モーセが民に語った次のような言葉があります。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。」これは、「今月の聖句」として選んだ言葉でもありますが、このモーセの言葉に従って、私たちも今日、イスラエルのエジプト脱出の出来事によって、私たちのために行われる主の救いを見たいと思うのであります。

1.ファラオの心をかたくなに

さて、今日の聖書の朗読では、14章の5節以下を読んだのでありますが、最初に、13章の17節から14章の4節の間に書かれていることに触れておきたいと思います。先週学びましたように、エジプト中の初子が死ぬという災いを神様が起こされた中で、やっとファラオがイスラエルの民が出て行くことを許しましたので、彼らは意気揚々と、ラメセスという所からスコトに向けて出発したのであります。エジプトからカナン地方に向かうには、地図で御覧いただくと分かるように、海沿いのコースをとるのが最短であります。そのコースはペリシテ街道と呼ばれています。ところが1317節にあるように、神様はイスラエルの民をそのペリシテ街道に導かれなかったのであります。なぜなら、それは近道であったが、民がペリシテ人と戦わねばならぬことを知って後悔し、エジプトに帰ろうとするかもしれないと、神様が考えられたからでありました。そして、スコトから南西の位置にあるエタム(地図にはない)に宿営するように命じられました。しかし、14章に入ると、今度は引き返してミグドルと海との間のピ・ハヒロト(地図にはない)の手前で宿営するように命じられ、更にバアル・ツェフォンの手前で、海辺で宿営するように命じられるのであります。なぜこのようなジグザグのコースをとらされたのか。その理由が3,4節に書かれています。「するとファラオは、イスラエルの人々が慌ててあの地方で道に迷い、荒れ野が彼らの行く手をふさいだと思うであろう。わたしはファラオの心をかたくなにし、彼らの後を追わせる。しかし、わたしはファラオとその全軍を破って栄光を現すので、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」――イスラエルの進んだコースを見ると、荒れ野を前にして、行く手を阻まれ、引き換えしてやって来たバアル・ツェフォンは袋小路のような場所であります。この様子をファラオの偵察隊が報告すると、ファラオは心を翻して、イスラエルの民を引き戻そうとして追撃してくるだろう。そこで、神様はファラオの軍を破って、栄光を現す、と言われるのであります。つまり、これは、神様がエジプトの軍隊をおびき出して滅ぼすための計画であったということなのであります。
 
5節以下に入りますと、神様のお考えになったように、報告を受けたファラオはイスラエルの民に対する考え方を一変して言います。「ああ、我々は何ということをしたのだろう。イスラエル人を労役から解放して去らせてしまったとは。」ファラオは初子の災いによって、神様の御心と力を知った筈なのに、またしても心をかたくなにするのであります。ここに、私たちを取り巻くこの世の勢力のしぶとさが描かれているように思います。この世の勢力は、私たちが信仰の世界へ行くことを、色々な形で阻もうとするのであります。しかし、ここで教えられることは、それも神様の戦略だということであります。神様は、そのようなしぶとく強いこの世の勢力を完全に滅ぼすために、わざと私たちを窮地に追い込まれて、助けの御手を伸ばされて、その御栄光を示そうとされるのであります。神様の術中に嵌ったファラオは、エジプト軍の全軍を動員して、イスラエルの人々の後を追わせます。そして、バアル・ツェフォンで宿営しているイスラエルの民に追いつくのであります。

2.意気揚々から恐れへ

イスラエルの人々が目を上げて見ると、エジプト軍は既に背後に襲いかかろうとしていました。気がつくと、前は海、後はエジプト軍の戦車部隊が迫っています。正に袋の鼠の状態で、進むも地獄、退くも地獄であります。ラメセスを出発する時には、まるで凱旋したかのように、意気揚々と出て行ったイスラエルの民でしたが、今は、エジプト軍を見て、心臓が凍るほどの恐怖に陥ってしまいました。その中で人々はモーセに11,12節でこう言っております。「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。我々はエジプトで『ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませんか。」――これは恐怖から出た言葉とは言え、ずいぶんひどい言葉です。彼らは事がうまく運んでいる時は、意気揚々としていましたが、一旦状況が悪くなると、すべてをモーセの責任にしています。そして、かつてのエジプトでの奴隷生活の方がましだったと言い出す始末です。ここには、困難をも共に担っていこうという心意気は全く見られません。ある説教者はこれを「奴隷根性」と言っておられます。400年間、奴隷であったために、奴隷の意識がしみついてしまっていると言うのです。奴隷というのは、ただ命じられたことをするだけで、自分で責任をとるということをしません。自由がない代わりに、責任も問われることはありません。精神的に成熟していないのであります。しかし、これを「奴隷根性」と言って片付けてよいのでしょうか。このイスラエルの人々の姿というのは、罪の奴隷になっている私たちの姿でもあります。イスラエルの人々は、自立した自由な人間として、自覚的に神様の前に立っていなかったために、都合が悪くなると神様を信頼せず、指導者のモーセに当り散らしました。私たちも、この世の習慣やこれまでの生活の仕方に流されて、自覚的に神様と向き合っていないと、問題が起こったり、困難や苦しみが襲ってくると、自分のことは棚に上げて、人のせいにしたり、神様の恵みを忘れて神様から離れたり、挙句は神様を呪ったりしてしまうのであります。そこには、神様を信じることによって与えられる平安はありませんし、本当の意味での自由がありません。罪の奴隷になるというのは、単に悪いことをしてしまうということではありません。神様以外のものに支配されるということであります。この世的な考え方や習慣、自分の利益や人の評価に支配されてしまうということであります。そこには本当の自由がありません。神様はその奴隷状態から私たちを解放しようとしておられるのであります。神様がイスラエルの民を、困難が予想される荒れ野の旅へ導き出されたのも、エジプト軍の追手と海の間の袋小路に追い込まれたのも、彼らを奴隷状態から本当の意味で解放するためであります。神様は私たちにも本当の自由を与えるために、困難を伴うかもしれない荒れ野の旅に導き出されるのであります。それはある意味では恐ろしいことであるかもしれません。慣れ親しんだ以前の生き方の方がよかったと思うようなことかもしれません。しかし、その困難な中でこそ、私たちは神様の恵みを知ることが出来、本当の自由を与えられるのであります。

3.落ち着いて、静かに

恐怖に慄いて当り散らすイスラエルの民に対して、モーセは13,14節でこう言っております。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」――ここに、解放された自由人の生き方が示されています。「恐れてはならない」と言われています。恐れる必要がなくなるからです。なぜならば、落ち着いて、主が成して下さる救いの御業を見ることが出来るからです。そして、もう二度と、自分たちを苦しめ、恐怖に陥れたエジプトの力を見ることがなくなるというのです。なぜなら、主御自身が戦って下さるからであります。イスラエルの民は戦う必要がありません。静かにしておればよいのです。これが、奴隷から解放された自由な人間の姿であります。まだ恐ろしい現実が目の前に残っていたとしても、それを誰かの責任にする必要はなくなります。自分の行動は自分で責任を負って、自覚的に神様の前に立つことが出来るようになります。しかしこれは、自分の力で問題を解決出来るようになるということではありません。自分だけで戦って勝利を勝ち取るということではありません。率先して戦って下さる神様に、全てを委ねるということであります。そこに本当の自由があり、平安があります。落ち着いた静かな生活が待っています。
 イスラエルの人々には、この後も荒れ野における40年にわたる苦難の旅が続きます。そのたびに人々は神様の守りを疑って、不平をつぶやいて、エジプトにいた時の方がましだったと言うのであります。奴隷根性から抜け出すことが出来ないのであります。私たちもまた、罪の奴隷状態から抜け出すことが、なかなか出来ません。キリスト者になってからでも、キリスト者でなかった時の方が自由であったとか、キリスト者であるが故に苦しまなければならないようなことが起こると、以前の生き方の方が楽だったなどと思ってしまうのであります。しかし、奴隷生活には、本当の自由から来る喜びや平安がないように、罪の奴隷状態のままでの生活には本当の自由はありませんし、本当の喜びや平安がありません。見えない罪の力が私たちを元の生き方に戻そうとしますが、目の前の苦しみや労苦に恐れてはなりません。落ち着いて、主の救いを見なければなりません。主は、私たちを縛りつけようとするものを、永遠に見ることがないために、働いて下さいます。
 主イエスが十字架に架けられようとする時の弟子たちの様子は、近づくエジプトの軍隊を見て恐怖に陥ったイスラエルの民や、困難に遭遇した時の私たちの姿に似ていると言ってよいかもしれません。弟子たちは皆、目の前に迫って来るこの世の支配者の大きな力の前に、恐怖を感じ、主イエスを信頼出来なくなって、裏切ってしまいました。そして十字架の上で息を引き取られた主イエスを見て、それぞれ自分のもとの生活に帰ろうとしました。しかし、主イエスの十字架こそ、この世の力を覆して主の愛が勝利する道であり、すべての人の罪が赦される救いの御業でありました。この救いをこそ、弟子たちは見るべきであったし、見るようにさせられたのであります。私たちもまた、この十字架の救いの御業を見ることによって、様々な迷いや不安から解放されて、本当の自由の世界へと旅立つことが出来るのであります。

4.葦の海の奇跡――主が戦われる

さて、不満をぶちまけるイスラエルの民を懸命に宥めるモーセに対して、主は1516節で、こう言われます。「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。」――目の前に立ち塞がっている海が真っ二つに裂かれて、道が開ける、とおっしゃるのであります。神様が自由への道を開いて下さるのであります。
 
エジプトの軍隊はなおも、後に迫って来ます。追い付かれれば一たまりもありません。しかし、そのことを通してさえも、主は御栄光を現されます。19節以下にありますように、イスラエルの部隊に先立って進んでいた神の御使いと雲の柱が、イスラエルの部隊の後に回って、エジプトの陣との間に割って入るのであります。こうして、両軍は互いに近づくことはありません。そして、モーセが神に言われた通りに、手を海に向かって差し伸べると、激しい東風が起こって、海が押し返されて、そこに乾いた土地が現れます。こうして、人々は左右の水の壁の間を進むことが出来ました。そして、彼らが海を渡り終えた頃、モーセが再び海に向かって手を差し伸べると、水が流れ返って、エジプト軍の全軍は一人残らず水に溺れ死んでしまうのであります。イスラエルの人たちは戦わずして助かるのであります。主が戦われたのであります。こうして、主が御栄光を現されたのであります。イスラエルの人々はこの大いなる御業を見て、主を畏れ、主を信じるのであります。こうして、イスラエルの民は、エジプトの奴隷状態から解放されましたし、神様を信じることへと成長させられたのであります。

結.主の救いを見よ

ところで、モーセはイスラエルの人々に向かって、「落ち着いて、主の救いを見なさい」と申しました。これはまた、私たちにも勧められている言葉であると思います。では、私たちはこの物語を通して、私たちの救いについて、どのように見ることが出来るのでしょうか。
 
パウロはコリントの信徒への手紙一の101,2節(p311)で、この出来事についてこう言っております。兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。私たちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、とあります。パウロはこの出来事を洗礼と結びつけて受け留めているのであります。私たちの教会では洗礼の儀式は、頭に水をつけるだけですが、洗礼者ヨハネが授けた洗礼はヨルダン川で水の中に体ごと浸かるようなものではなかったかと考えられています。それは、水の中で一旦死んで、新しく生き返ることを表しています。私たちの洗礼も、生れ変わりの儀式であるという意味は変わっていません。イスラエルの民は、水の中に浸かったわけではありませんが、海を渡る経験をして、新しく生れ変わったので、パウロはこれを洗礼と結びつけているのであります。
 
つまり、私たちが洗礼を受けるということは、神様が海を分けてイスラエルの人々を奴隷状態から救い出されたように、私たちが罪の奴隷から救い出されるということであって、それが行われるのは、イスラエルの民が優れていたとか、頑張ったとか、信仰が深かったからではなくて、むしろ神様の導きを疑い、奴隷状態から離れるという意欲も乏しいという不信仰の中で、神様の一方的な赦しと導きによって救われたように、私たちの救いも、私たちの罪深さと不信仰の中で、神様の一方的な赦しと働きかけによって、実現することだ、ということであります。先ほど、十字架のことについて触れました。神様がエジプト軍とイスラエルの民の間に割って入って、イスラエルの民を救い出されたように、主イエス・キリストが自ら、サタンやこの世の力と私たちの間に割って入って、自らを犠牲にして救い出して下さったのであります。
 
今日は、この後で聖餐式を行います。聖餐式はこの、主イエスの十字架の御業を表し、それを思い起こす儀式であります。イスラエルの民は過越しの食事をして、出エジプトの出来事を思い起こすと共に、それを子孫に継承して行きました。それと同じように、私たちは聖餐式において、主イエスの救いの御業を思い起こし、またこれを次の世代へと語り伝えて行くのであります。
 
このあと、15章に「海の歌」というのが書かれていて、これは葦の海を渡った時の救いの恵みを歌ったものですが、これを私たちは、主イエスキリストによる救いの恵みと重ね合わせながら聴いて、今日の説教を閉じたいと思います。15章の1節から18節を読みます。
 
(出エジプト記15章1〜18節=省略)
 
祈りましょう。

祈  り

私たちの救い主なるイエス・キリストの父なる神様!
 
イスラエルの民が海を渡って奴隷から解放された出来事を通して、私たちが罪の奴隷から救い出された十字架の御業を思い起こすことを許されて感謝いたします。
 
私たちはなお、この世の力に支配から抜け出すことをためらったり、あなたが与えて下さる荒れ野の旅路に不安を覚えたりする者でございますが、どうか、あなたが与えて下さる本当の自由を望み見つつ、日々の歩みをすることが出来ますように。また、あなたがイスラエルの民をカナンにまで導き通されたように、私たちをも神の国まで導いて下さることを信じて、従って行くことが出来ますように。
 
どうか、御言葉を通して、また聖餐の式を通して、あなたの救いに御業を絶えず思い起こす者とならせて下さい。
 
どうか、この国の多くの人々が、あなたの救いにあずかることが出来るように、更に御栄光を現して下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>       2011年9月4日  山本 清牧師 

 聖  書:出エジプト記14:5−31
 説教題:「主の救いを見よ」
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