その夜、主は、彼らをエジプトの国から導き出すために寝ずの番をされた。                 (出エジプト記1242 

 神はモーセに、イスラエルの民を導き出すために、ファラオ(エジプト王)と交渉するよう命じられたが、ファラオは大切な労働力を失うことを恐れて許さず、反って労働強化を図ったりした。そこで神はモーセに杖を与えて、その杖でナイル川の水を打つと血に変わったり、あぶの大群が発生したり、疫病がはやるなど、災いを起こさせられると、その度にファラオは軟化するが、災いが去ると、また心を頑なにして、民を去らせなかった。そんな繰り返しが9回続いた後、最後の災いとして、エジプト中の初子が死ぬという災いを起こされた。さすがのファラオも遂にイスラエルの民が出て行くことを許すのだが、その際に、神はイスラエルの民に対しては、あらかじめ家の柱と鴨居に羊の血を塗っておうよう命じられ、災いが過ぎ越すようにされた。こうして、イスラエルの民は、エジプトの人たちから金銀の装飾品や衣類まで提供を受けて、まるで勝利者のように、エジプトを出発したのである。
 
この出エジプトの出来事は、私たちが罪の奴隷から解放される出来事と重ね合わせて受け取ることが出来るが、その際に注目すべきことは、一つには、ファラオの心を頑なにされたのは、他でもなく主なる神であったという点である。それは、奇跡的な災いによって神がエジプト人にその力を示すためであり、また神がイスラエルの民の主であることを知らしめるためであったのであるが、私たちの救いに際しても、神はわざとこの世の人やサタンの働きを用いて、悔い改めの邪魔をさせることによって、罪からの救いが自分たちの力で出来ることではなく、主の働きによることを知らしめられるのである。今一つの注目点は、出エジプトの際に、羊の犠牲によって災いが過ぎ越した点で、私たちの救いにも犠牲が必要であって、神はイエス・キリストの十字架の犠牲によって、私たちが罪の罰から逃れるようにされたということである。更に、注目すべき第三の点は、真夜中の不安な出発に当って、主が寝ずの番をされた点であるが、私たちの救いへの出発に際しても、この世に闇が覆い、主の勝利がよく見えない中で不安が伴うのであるが、そのような私たちを主は、ただ「頑張れ」と言って放り出すのではなく、寝ずの番をして、私たちを救いへと導き出して下さるということである。

米子伝道所主日礼拝説教<要 旨> 2011年8月28日  山本 清牧師 

 聖  書:出エジプト記12:21−42
 説教題:「恵みのうちの出発」
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