序.私たちの「出発」を導くもの

8月に入ってからの主日礼拝の説教では、出エジプト記を取り上げています。出エジプト記というのは、エジプトで奴隷状態にあったイスラエルの民が、指導者モーセに率いられて、エジプトを脱出し、40年間、荒野を旅し、神の約束の地であるカナンへと導かれる物語が書かれていて、これはイスラエルの民の信仰と生活の原点となる物語であります。
 では、この物語を今の私たちが読むということには、どのような意味があるのでしょうか。これまでにも述べて来ましたが、イスラエルの民がエジプトで奴隷状態にあったことは、私たちがこの世で罪の奴隷状態にあることと重ね合わせることが出来ます。神様はイスラエルの民をエジプトでの奴隷状態から救い出されたように、私たちをも罪の奴隷状態から救い出して下さって、私たちの「出エジプト」を実現して下さいます。ですから、イスラエルの民の出エジプトがどのように行われたか、その経緯の中で起こった様々な出来事がどのような意味を持つのか、そこに神様の導きがどのように働いたのかということは、また私たちの「出エジプト」がどのように行われるのか、そこで神様がどのように働いて下さるのか、ということを聴き取ることが出来るのであります。
 
今日与えられております12章は、いよいよイスラエルの民が奴隷状態から解放されて、約束の地に向けてエジプトを出発する場面であります。出エジプト記の一つのクライマックスと言える場面であります。ここで私たちが聴き取らなければならないのは、イスラエルの民を出エジプトへ導いたものは何であったのか、誰であったのか、そこにどのような働きかけがあったのかということであり、私たちの「出エジプト」を導くものは何か、誰なのか、どのようにしてか、ということであります。
 
私たちの「出エジプト」とは、具体的には、まずは洗礼を受けて救いの民の一員に加えられるということでありますが、キリスト者になってからでも、私たちはしばしば、「エジプト」に引き戻されたり、引き戻されそうになる訳で、その度に「出エジプト」が必要となります。教会という集団も、この世にあって、時代の潮流や様々な力の奴隷になってしまい勝ちで、絶えず「出エジプト」が必要であります。そういう私たちや教会が、どのようにして「出エジプト」が出来るのか、何が私たちを新しい出発へと導くのか、ということを、イスラエルの民のエジプト出発の物語から聴き取りたいと思うのであります。

1.モーセとファラオの交渉

さて、先週は、モーセが神様から召命を受けた場面でありました。神様はモーセをファラオのもとに遣わして、イスラエルの民をエジプトから連れ出すという役割を与えようとなさったのであります。しかし、ミディアンで平穏な生活を送っていたモーセは、「わたしは何者でしょう」と言って抵抗したり、神様の名前を問われたら何と答えるのですか、と尋ねたり、ファラオが自分のことを信用しないでしょう、と言ったり、わたしは弁が立つ方ではない、などと言って、神様の召しに素直に応えようとしませんでした。しかし、神様は雄弁な兄弟のアロンと一緒に仕えるようにされて、やっとエジプトへ行くことになりました。
 
モーセとアロンはファラオのもとに出かけて、イスラエルの民を荒れ野で礼拝させてほしいと交渉を始めますが、ファラオは大事な労働力を失うことを恐れて許さず、反って労働強化を図ります。それに対して神様は、「わたしの強い手によって、ファラオはついに彼らを去らせる」(61)とおっしゃるのですが、ファラオとの交渉は難航します。それで神様はモーセに杖を与えて、その杖でナイル川の水を打つと水が血に変わったり、大量の蛙を発生させたり、土の塵がぶよに変わったり、あぶの大群を発生したりさせられます。その度にファラオは軟化するのですが、災いが去ると、また心を頑迷にして、民を去らせようとしません。それで、今度はエジプトに疫病をはやらせたり、膿の出る腫れ物の災いを起こしたり、激しい雹を降らせたり、いなごの大群を発生させてエジプト中に緑がなくなるようなこともされたりして、神様が主であることをお知らせになると、ファラオはその度に、「民を去らせよう」と言うのですが、災いが去るとファラオはまた、心を頑なにするという繰り返しでありました。以上のことが、7章から10章にかけて書かれています。
 
ここで一つ注目していただきたいことがあります。それは、ファラオが何度も心を頑なにしたのは、単に彼が頑迷、かつ利己的で、災いが収まると前言を翻すという性格があったということではなくて、聖書によると、何箇所かで、「主がファラオの心をかたくなにされた」と書いてあるのであります。何か、神様が自己矛盾するようなことをしておられるように思えるのでありますが、101節以下をご覧いただくと、このように書かれています。主はモーセに言われた。「ファラオのもとに行きなさい。彼とその家臣の心を頑迷にしたのは、わたし自身である。それは、彼らのただ中でわたしがこれらのしるしを行うためであり、わたしがエジプト人をどのようにあしらったか、どのようなしるしを行ったかをあなたがたが子孫に語り伝え、わたしが主であることをあなたたちが知るためである。」――つまり、神様がファラオを頑なにされたのは、一つには、エジプト人の中で奇跡的な業を行うことによって、彼らに神様のお力をはっきりとお示しになるため、ということであり、今一つは、イスラエルの民が子々孫々にわたって、この出来事を語り伝えることによって、神様がイスラエルの民の主であることを知らせるためであった、ということであります。つまり、エジプトでの奴隷状態から脱出することが如何に困難なことであり、神様の助けがなければ出来ないことであったということを忘れさせないためであったのであります。そして、そのことは私たちの救いについても言えるのではないか、ということであります。私たちの罪からの救いということが神様の御業であるなら、もっと簡単に、どんどんと行われて良いのではないかと、もどかしく思ったりするのですが、神様はわざと、この世の人々からの抵抗を大きくしたり、サタンの働きを用いて、悔い改めの邪魔をさせたりなさることによって、罪からの救いが自分たちの力では出来ることではなくて、救いの主体は主であることを私たちに知らしめられるということであります。

2.最後の災い

さて、9回にわたる災いが繰り返された後で、神様は遂に10回目の最後の災いをくだすことにされました。それは、真夜中にエジプト中の初子を、家畜の初子も含めて死なせるという災いです。そのことが12章の2930節に書かれています。真夜中になって、主はエジプトの国ですべての初子を撃たれた。王座に座しているファラオの初子から牢屋につながれている捕虜の初子まで、また家畜の初子もことごとく撃たれたので、ファラオと家臣、またすべてのエジプト人は夜中に起き上がった。死人が出なかった家は一軒もなかったので、大いなる叫びがエジプト中に起こった。122930)――「初子」というのは、最初に生まれた男の子のことですが、それは「力の最初の実り」という意味を持っているそうでありまして、親にとって自らの力を象徴する特別な意味を持った存在でありました。その初子がすべて撃ち殺されたのですから、エジプトでは大パニックが起こったのです。
 
かつてファラオは、ヘブライ人の男の子が生まれたら全員殺すように命じたことがありました。その中で生まれたモーセは、神様の特別な導きでファラオの王女に救われたのですが、多くのヘブライ人の初子の命が奪われたのでした。それから40年の間にファラオの代は代わってはおりますが、今度はファラオの初子もことごとく撃たれるという厳しい神様の裁きを受けなければならなかったのであります。

3.過越の犠牲

ところで、この神様の裁きが行われる中で、イスラエルの民はどうであったかというと、神様はモーセを通して、21節以下に書かれているようなことをあらかじめ命じておられたのであります。モーセは、イスラエルの長老をすべて呼び寄せ、彼らに命じた。「さあ、家族ごとに羊を取り、過越の犠牲を屠りなさい。そして、一束のヒソプを取り、鉢の中の血に浸し、鴨居と入り口の二本の柱に鉢の中の血を塗りなさい。翌朝までだれも家の入り口から出てはならない。主がエジプト人を撃つために巡るとき、鴨居と二本の柱に塗られた血を御覧になって、その入り口を過ぎ越される。滅ぼす者が家に入って、あなたたちを撃つことがないためである。」122123
 
これがよく知られる「過越し」の出来事でありますが、このことがあったために、ファラオはやっとイスラエルの民がエジプトから出て行くことを許すのであります。31節を見ますと、こう書かれています。ファラオは、モーセとアロンを夜のうちに呼び出して言った。「さあ、わたしの民の中から出て行くがよい、あなたたちもイスラエルの人々も。あなたたちが願っていたように、行って、主に仕えるがよい。」――これはイスラエルの民にとって忘れることの出来ない出来事となるのですが、12章の初め〜20節を見ますと、神様はあらかじめモーセとアロンに対して、今後過越しの出来事を記念するために行うべき祭りのことを詳細に命じておられるのであります。そこには、まず、過越しの出来事があった月を年の初めの月とするという、新しい暦を制定すること、次に、過越しの出来事の時と同じように羊を屠って、その血を家の入り口の二本の柱と鴨居に塗って、羊の犠牲によって自分たちが救われたことを忘れないようにすることが定められています。更に、17節以下を見ますと、除酵祭を守るべきことが命じられています。これは酵母を入れないパンを食べる儀式ですが、なぜそんなことをするかというと、39節以下にありますように、エジプトから脱出するとき、道中の食糧としてパンを焼くのに酵母を入れて焼く時間がなくて、酵母を入れないパン菓子を焼いて持って出たので、そのことを記念するために、除酵祭というものが定められたのであります。
 
こうして、イスラエルの民は毎年、過越しの食事をし、続いて七日間、酵母を入れないパンを食べる除酵祭を守って、出エジプトの出来事を記念したのであります。この出来事が、風化して忘れられることがないために、24節以下には、きっちりと子孫に伝承することまで定められています。「あなたたちはこのことを、あなたと子孫のための定めとして、永遠に守らねばならない。また、主が約束されたとおりあなたたちに与えられる土地に入ったとき、この儀式を守らねばならない。また、あなたたちの子供が、『この儀式にはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、こう答えなさい。『これが主の過越しの犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである』と。」――以来、イスラエルの民は過越しの食事の時に、こういう問答を繰り返すことにとって、神様の恵みを思い起こして、信仰を子孫へと継承して来たのであります。
 
このようなイスラエルの伝統のことを学びますと、私たちは自分たちの信仰の継承ということのために、家庭生活の中で、きっちりと神様の恵みを伝えるようなことをしているか、ということを反省させられます。クリスチャンの家庭で、キリスト教的なことをすると言えば、クリスマスくらいで、それは一般家庭でも行われることです。家庭礼拝をしているとか、祈っている姿を子供や孫に示すという機会が余りないように思います。昔の日本の家では、神棚を拝むとか、仏教徒の家であれば仏壇の前に座るということが、子供に信仰を伝えることになっていたのでしょうが、キリスト者の場合は、何をおいても、日曜日には教会へ出かけて行くということが、家族への唯一の示しになるのではないでしょうか。

4.恵みのうちの出発

少し話しが逸れましたが、イスラエルの出エジプトのことに戻りますと、こうして、遂に、ファラオも「行って、主に仕えるがよい」と言わざるを得なくなって、イスラエルの民がエジプトを出て行くことを認めて、37節にあるように、イスラエルの人々はラメセスという所からスコトに向けて出発いたします。その道筋を聖書の巻末の「出エジプトへの道」という図で確認して下さい。
 
そこで、改めて、イスラエルの民のエジプト出発のために、神様のどのような計らい(恵み)があったのかということを、いくつかの点から確認しておきたいと思います。
 
第一の点は、言うまでもなく、神様がエジプトに初子を撃つという災いを下された、ということでありますが、これはファラオにとっても、自分の初子を奪われるという厳しい裁きでありました。彼は自分の初子が奪われて初めて、これまでの繁栄がイスラエルの人々をはじめとする多くの人の犠牲の上に成り立っていたことに気付いたのではないでしょうか。そして、その大きな災いの中にあって、災いがイスラエルの民を過ぎ越して救われたのは、羊の血が柱と鴨居に塗られたことによってであって、そこに罪のない小羊やエジプトの初子たちの犠牲があったのであります。このことは、私たちの救いには、代価が必要であるということを示しています。このことは後に、私たちを罪の奴隷から救い出すために、小羊としての主イエス・キリストの犠牲が必要であるということで明らかにされるのでありますが、神様は既に、この時から、犠牲によって選ばれた民を救い出すという恵みの業を始めておられたということに気付かされるのであります。
 
第二の点は、イスラエルの人々の出エジプトは、エジプト人の目につかないように、こっそりと逃げ出したということではなくて、まるで勝利者のように、堂々と出発できるように、神様が計らって下さった、ということであります。ファラオはこれまで、再三の災いを受けた時も、出て行きたいなら女と子供は置いていけとか、家畜は置いておけとか、条件をつけて来たのですが、今回は32節にあるように、「羊の群れも牛の群れも、あなたたちが願っていたように、連れて行くがよい。そして、わたしをも祝福してもらいたい」と言っておりますし、3536節には、こう書かれています。イスラエルの人々は、モーセの言葉どおりに行い、エジプト人から金銀の装飾品や衣類を求めた。主は、この民にエジプト人の好意を得させるようにされたので、エジプト人は彼らの求めに応じた。彼らはこうして、エジプト人の物を分捕り者とした。――イスラエルの人々は、エジプト人たちの混乱に乗じて略奪を働いたわけではありません。「この民にエジプト人の好意を得させるようにされた」とありますように、エジプト人たちは嫌がらずに差し出したということであります。喜んで差し出したのではないにしても、拒否しようとはしなかったのであります。それは、神の裁きを恐れたということもあったでしょうが、それ以上に、イスラエルの民を導かれる神様の救いの御手に圧倒されたということでしょう。これまで、イスラエルの人々を奴隷として無償でこき使って来たことへの、お返しという意味もあるかもしれませんが、何よりも神様の勝利を受け入れざるを得なかったということでありましょう。こうして神様は、これからの荒れ野の旅に必要なものを、全て備えさせられたのであります。
 
このことは、私たちの救いへの出発についても言えることであります。救いの道を歩むことは、イスラエルの民が荒れ野を行かなければならなかったように、決して平坦な歩みではありません。しかし、それは勝利の旅であり、神様はその荒れ野の旅に必要なものを、この世の神を知らぬ人々をも用いて備えて下さるということであります。
 
第三の点は、42節に書かれていることであります。その夜、主は、彼らをエジプトの国から導き出すために寝ずの番をされた、とあります。イスラエルの民は夜中にこっそり逃げ出した訳ではありませんが、出発は真夜中でありました。夜の闇は人間に不安と恐れをもたらせます。出エジプトの旅は、決して明るい希望だけに満ちたものではありませんでした。どんな困難が待ち受けているか、不安の中での出発でありました。しかし、神様は彼らを導き出すために、寝ずの番をされたのであります。神様はイスラエルの民の出発まで導かれたら、あとは自分たちで頑張りなさいと言って放り出されるのではなくて、まだ希望の光が見えず、闇が覆っている中で、寝ずの番をして導いて下さるのであります。

結.私たちの出エジプト

最後に、イスラエルの民の出エジプトの出来事と、私たちの罪の奴隷からの出エジプトということを重ね合わせながら、もう一度神様の恵みの御手を覚えたいと思います。
 
私たちが普段過ごしている世界は、神なき罪の世界であります。そこはファラオが支配する世界であります。能力ある者、権力ある者、お金の力などというファラオが支配しています。私たちもまた、ファラオの座を求めて、神様に背いて罪を犯してしまいます。そして一方では、多くの人々が横暴なファラオのもとで苦しんでいます。それが、私たちの住んでいる「エジプト」の実状であります。
 
神様は、そのような罪に満ちたエジプトの中に浸かり切って罪の奴隷になっている私たちを救い出そうと、御言葉を取次ぐ教会というモーセを遣わして、出エジプトさせようとなさるのであります。しかし、ファラオの抵抗は大きいのであります。神様は自然災害や戦争や環境破壊などを通して人間の無力さを知らせ、教会というモーセを通して、悔い改めを呼びかけられ、私たちもエジプトから離れようと、心を動かされることもあるのでありますが、またまたファラオに呼び戻されて、自力ではなかなかエジプトから脱出することが出来ないのであります。
 
そのような私たちを神様は憐れんで、罪の奴隷から解放するために、決定的な救いの御業をなさいました。それは、御子イエス・キリストをこの世であるエジプトに遣わして、ファラオの力を骨抜きにして、人々を自由な世界へ導き出すことでありました。しかしそれは、ただ神様の力づくでファラオを滅ぼすということではなくて、罪の贖いのための犠牲が必要でありました。それが、「神の小羊」としてのイエス・キリストでありました。主イエスは十字架にお架かりになる前の過越しの食事の席で、イスラエルの民を救った小羊の血の代わりに、パンとぶどう酒によって、御自分の体を裂き、血を流すことによって、御自身が贖いの小羊になることを明らかにされました。こうして、イスラエルの民を災いが通り過ぎたように、神様の裁きが私たちを通り過ぎるようにして下さったのであります。私たちの出エジプトを可能にするのは、この主の恵みであります。この恵みの御業によってこそ、ファラオは骨抜きにされ、主は復活の勝利をなさったのであります。
 しかしなお、私たちには、主の勝利がよく見えていません。まだこの世は闇が覆っています。私たちはエジプトを出ることに不安を覚えます。しかし、イスラエルの出エジプトの夜に、主が寝ずの番をして彼らを導き出されたように、今も主は私たちの出発のために寝ずの番をして下さっているのであります。まだこれから荒れ野の旅を続けなければなりません。しかし、主はその間も、1317節以下にありますように、火の柱、雲の柱を立てて、私たちの先頭に立って、私たちのカナンの地、神の国へと導いて下さるのであります。私たちはこの神様に信頼して、教会というモーセによって御言葉を与えられながら、荒れ野の中を喜びと感謝と希望を持って進んで行きたいと思うのであります。
 
祈りましょう。

祈  り

イスラエルと私たちの出エジプトを導き給う、父なる神様!
 
今日も御言葉をもって、私たちをファラオのもとから導き出して下さいますことを覚えて、御名を賛美いたします。
 
私たちはなお、エジプトに心を引かれたり、ファラオの力に翻弄されたりしがちな者たちですが、どうか、カナンへの道を逸れることのないように、絶えず御言葉をもって導いて下さい。
 
どうか、この地域の、この国の多くの方々が、罪の世界から救い出されますように、求道中の方々が、主の御心を信じて、思い切って出エジプトの招きに応えることが出来るように導いて下さい。今日は午後に「こどもかい」を行うことですが、どうか、この地域の子供たちが、一人でも多く、あなたの救いに入れられますように、この催しをお用い下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>       2011年8月28日  山本 清牧師 

 聖  書:出エジプト記12:21−42
 説教題:「恵みのうちの出発」
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