「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」
                
(出エジプト記310 
 モーセはエジプトで、ヘブライ人が重労働に服しているのを見て、同胞愛と正義感から、エジプト人を殺してしまい、また、ヘブライ人同士のけんかを仲裁しようとして受け入れられず、挫折を経験した。遠くミディアンの地に逃れたモーセは、そこで羊飼いとして、家庭も持って、40年間、平穏な暮らしをしていた。
 そのモーセがある日、羊を追ってやって来たホレブの山で、燃える柴が燃え尽きないという不思議な光景を見、神の声を聞いた。神は「わたしはあなたの父()の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」であると言われ、イスラエルの父祖たちに約束されたことを忘れていないことを示され、「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った」とも語られて、更に、「わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出す」と、ご自身が主体となって、イスラエルの民を救い出して、約束の地へ導くことを宣言され、そのためにモーセを用いようと、標記のように命じられたのである。
 しかし、かつて大失敗をし、自分の無力さを痛いほど思い知らされたモーセは、「わたしは何者でしょう」と言って、神の召しに抵抗する。それに対して、神は「わたしは必ずあなたと共にいる」と約束され、「このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである」と言われた。「このこと」とは、「燃える柴」のことであり、それは神との出会いの「しるし」であり、やがて、イスラエルの民が、神から十戒を与えられて、神と契約を結ぶことになることを示している。つまり、神との出会いである礼拝こそが、神が共にいてくださる「しるし」であり、神の召しの「しるし」なのだ。
 私たちは、既に新しいイスラエル(教会)として礼拝する者たちとされ、イエス・キリストの十字架と復活の御業によって、罪の奴隷状態から解放されて、「出エジプト」させていただいた。そして、イエス・キリストに仕え、救いの福音を伝える者として召し出されている。私たちはその使命に相応しくないように思えるが、神は「わたしが必ずあなたと共にいる」と言って、私たちを用いようとしていてくださるのである。主体は私たちではなくて、私たちを召して用いてくださる神なのだ。

米子伝道所主日礼拝説教<要 旨> 2011年8月21日  山本 清牧師 

 聖  書:出エジプト記3:1−12
 説教題:「痛みを知る神」
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