序.モーセの召しから私たちの召しを聴く

今日は、出エジプト記3章にあります「モーセの召命」(召命=神様から使命を与えられること)の記事から御言葉を聴こうとしています。前回は2章から、モーセの誕生の物語とミディアンの地へ逃亡せざるを得なくなった次第を聴きました。イスラエルの民はエジプトの地で奴隷状態にありましたが、人数がどんどん増えたために、エジプト王が脅威を感じて、生まれてくる男の子をナイル川にほうり込むように命じました。そんな中で誕生したモーセでありましたが、パピルスで編んだ籠に入れられたモーセが、不思議な導きで、エジプト王(ファラオ)の王女の子として育てられることになりました。モーセは長じて、同胞が苦しめられているのを見て、思い余ってエジプト人を殺してしまって、エジプト王から追われる身となるのですが、そんなモーセは同胞からも仲間として受け入れてもらえず、挫折を体験します。こうして、失意のうちに、遠くミディアンの地へ逃れるのですが、そこで羊飼いとして働き、結婚もして家庭を持ち、40年ほどの静かな生活をすることになるのであります。
 
今日の箇所は、そんなモーセが、今度は自らの志によってではなく、神様によって召し出されることになる場面であります。モーセと言えば、イスラエルの救いの歴史の中で、「出エジプト」という大きな出来事を指導した偉大な指導者であります。そんな偉大な人物の召命と、私たちのような者の召しとは比較にならないように思えるのでありますが、モーセが召しを受けることになったのは、彼が大きな力を持っていたからではなく、また高い志を持っていたからではなく、また、篤い信仰を持っていたからでもなくて、神様の強い御心と御手があったからであることが分かるのであります。私たちの小さな召しも、その点では全く同じであります。今日は、モーセの召命の物語から、私たちをも召し出そうとしておられる神様の御心と御導きを聴き取りたいと思うのであります。
 
召命というと、牧師や伝道者になることと結びつけて考えてしまいがちでありますが、必ずしもそのように考える必要はありません。洗礼を受けてキリスト者になるということ自体が、神様の召しによることであります。洗礼とは、自分の人生・生き方を神様に預けることであります。自分のこれからの歩みを神様の御心に従って用いていただくように委ねることであります。そんなことは、自分の決心や努力で出来ることではありません。神様の召しの御心が働かなくては出来ません。ですから、受洗という事自体が召命であります。
 しかし、神様に召されてキリスト者になるということは、単に名目だけキリスト者の一員になるということではなくて、必ず何らかの使命を帯びることになります。モーセのように民族を率いるような使命ではなくても、それぞれが属する家族や地域や職場の中で、神様はその人に相応しい使命を与えて下さるのであります。それは一見、小さなことのようでありますが、神様の大きな救いの歴史に欠かすことの出来ない働きなのであります。私たちにはその働きの全貌や自らの位置づけが見えているわけではありませんが、神様は御計画をもって私たちを召し出し、働かせて下さるのです。今日は、そうした、私たちがまだ自覚していないものも含めた、また大小を問わない使命のために、私たち一人ひとりを召し出そうとして、このモーセの出来事を聴かせようとなさっておられるのではないでしょうか。

1.挫折と安逸の中から

前回学んだところで、モーセが、ヘブライ人を苦しめていたエジプト人を打ち殺したのは、彼の同胞への熱い思いと純粋な正義感から出た行動であったかもしれません。しかし、同胞から見れば、エジプト王家で何不自由なく暮らし、高度な教育も受けたモーセを、そのまま信用することは出来ません。ヘブライ人仲間のけんかを仲裁しようとした時には、「誰がお前を我々の監督や裁判官にしたのか」という言葉が返ってきました。モーセの中に、いつのまにかエリート意識のようなものが芽生えていたのかもしれません。自分こそ、イスラエルの民を救う働きが出来るという自惚れがあったのかもしれません。自分では気付いていなかったかもしれませんが、そうした自惚れが木っ端微塵に砕かれた事件でありました。このような挫折体験は受けるべくして受けざるを得なかったことであったかもしれませんが、そこには神様の試み(訓練)の御手が働いていたのではないでしょうか。私たちも、自意識過剰な使命感を持っているなら、神様によって砕かれるのであります。使命感は往々にして驕りや優越感を伴っております。そのままでは、神様の使命を果たすには障害になります。神様はまず、その邪魔者を砕かれるのであります。神様の使命を果たすには、まず、自分がそれに相応しくない者であることを知って、ただ神様の知恵と力に頼るしかない者とされなければならないのであります。
 
エジプトで挫折を体験させられたモーセは、遠くミディアンの地へ逃れて、そこで出会った祭司の家で羊飼いとしての生活を始め、祭司の娘と結婚して、家庭を持ち、子供も生まれました。こうして、ミディアンの地で平穏な暮らしが約40年間続くのであります。もう、かつての使命感や正義感は忘れてしまったかのような生活であります。このようなマイホーム主義のような生活が悪いとか、意味がないというわけではありません。神様はそのような生活の中にも、使命を隠されているかもしれません。平穏な日常生活の中で、神様を証しする場面を神様は備えておられるかもしれません。しかし、神様はそのような安穏な生活から私たちを引き出して、思いもよらない新しい使命に生きることを求められることがあります。これまでの人生の中で慣れ親しんだものから引離されたり、培って来たものを捨てて方向転換を求められることがあるかもしれません。いずれにしろ、私たちを平穏な眠りから目覚めさせて、新しい使命に生きるようにさせて下さるのは神様であります。

2.燃え尽きない柴――神との出会い

ミディアンの地で平穏な日々を送っていたモーセを導き出したのも神様でありました。223節以下にありますように、ミディアンでの長い年月(40年)が経ちました。その間も、エジプトではイスラエルの人々の苦しい労働が続いておりました。24節には、そのイスラエルの人々の嘆きを神様がお聞きになって、「アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた」、という書き方がされていますが、前回もお話しましたように、これは、神様がイスラエルのことを忘れておられたということではなくて、満を持して最も相応しい時が満ちるのを待っておられたということであります。
 
3章に入りますが、あるとき、モーセが羊の群れを追って、ホレブと呼ばれる山に来ると、柴が火に燃えているのに、その柴が燃え尽きないという不思議な光景を見るのであります。モーセはこの不思議な光景を見届けようと、道をそれて近づきますと、柴の間から神様の声が聞こえました。「モーセよ、モーセよ」と言われ、モーセが「はい」と答えると、神様は「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから」と言われました。モーセは神様と出会ったのであります。モーセが神様を尋ね求めて、神様に出会ったのではありません。モーセはいつものように羊を追って山に来ただけであります。「神の山」とありますが、初めから神様と出会える場所とされていたわけではなくて、神様がモーセに出会って下さったので、そのように呼ばれるようになったのであります。神様がモーセに新しい使命を与えようと、出会われたのであります。
 
柴が燃えているのに燃え尽きないというのはどういうことか、ということについては、赤い花か実が太陽に輝いて、燃えているように見えたのではないかとか、乾燥した砂漠の大気と強烈な太陽の光によって、そのように見えたのではないかといった説明がなされますが、聖書が言いたいのは、そこに神様が特別な出会いの場を備えられたということでありましょう。このことについて、ある説教者は面白い解釈をしています。それは、この燃える柴の炎は、神様の情熱を象徴しているのではないかというものです。モーセはかつて、同胞を何とかエジプトの奴隷状態から救い出そうと、燃え立った時期がありました。しかし、挫折を経験して40年が過ぎ、その情熱の火はすっかり消えてしまっていました。しかし、神様のイスラエルを救おうとの情熱の火は決して燃え尽きることはない。そのことを表しているのだ、というのです。この解釈の是非はともかく、ここで示されていることは、神様は決してイスラエルの救いを忘れたり、諦めたりしておられないということであることは確かであります。そして神様はその変わらぬ御心をもって、今、モーセに出会われるのであります。
 
これと同様に、神様は私たちに対しても、その御心を変えることなく貫かれます。私たちの方は、ある時は信仰心が高まり、使命感のようなものを覚える時があるかと思うと、熱が醒めるように、神様のことを忘れ、使命に生きるよりも、自分のことにだけ心を奪われてしまっていたりします。しかし、神様は変わらぬ愛と御計画をもって、私たちをどのように生かすかを考えていて下さり、最も相応しい時に備えていて下さるのであります。そして、神様の方から私たちに出会って下さるのであります。私が神学校へ行くように召された時も、そうでありました。学生時代に一時は神学校行きも考えてはみたものの、色々な事情を考えると行くことは出来ないと考えて、40年弱のサラリーマン生活を続けて来て、定年を迎えても、神学校行きのことはすっかり忘れていました。しかし、母親が亡くなった直後のある日のこと、神様が出会って下さいました。そして、神様が神学校に行けるように、すっかり手はずを整えて下さっていることを知らされたのであります。私は忘れていましたが、神様は忘れておられず、ずっと備えて下さっていたのです。皆さん一人ひとりに対しても、神様は相応しい道を備えて下さっているのではないでしょうか。

3.契約の神――痛みを知る神

さて、モーセに出会われた神様は、6節でこう言っておられます。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」――「父の神」というのは、先祖の神という意味ですが、モーセが異教の地で過ごすうちに、自分がイスラエルの民の一員であることを忘れたかのような生活をしていたのですが、ここで改めて自分がイスラエルの民であることに気付かせ、主なる神様こそが、モーセの神であることを宣言なさったのであります。続いて、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とおっしゃいました。この3人の名は224節でも挙げられていましたが、そこにも書かれていたように、この3人は3代にわたって神様と契約を結んだ人たちです。その契約(約束)とは、主なる神様が彼らとその子孫であるイスラエルの民の神となり、子孫を増やし、カナンの地を与えるというものです。ここで改めてその3人の神であることを宣言されたのは、この契約(約束)を実現するために、今モーセを召し出そうとしておられるということであります。
 
7節では更に、「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った」と言っておられます。神様は、ただ御自分の契約(約束)を形式的に実行されるというだけではありません。御自分の民を愛しておられるが故に、その民の苦しみを見、叫び声を聞き、その痛みを知って下さるのであります。ここには、「見る」「聞く」「知る」という言葉が重ねられています。9節にも、「見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た」と言っておられます。イスラエルの窮状を御自分のこととして受け止めて、心を痛めておられるということであります。神様は私たちを冷たい目で見て、厳しい言葉で叱り、力づくで物事を進められるのではなくて、私たちの苦しみや痛みや叫びを、御自分のこととして受け止めて、一緒に担って下さるお方だということが、これらの言葉から分かります。
 
そして、8節には、神様の御決意が語られています。「それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る」と言明されます。神様が主体となって、イスラエルの民を苦難から救い出し、約束の地へ導くことを、宣言されたのであります。これから始まる出エジプトの出来事の主体は神様であります。そこでモーセは大きな働きをすることになるのですが、そのモーセを召して用いられるのも神様であります。モーセの同胞愛や正義感が燃え上がり、モーセが決心したのであれば、やがてまた困難に遭遇して、再び挫折を経験することになるかもしれません。しかし、今度は主なる神様が「導き上る」と断言されたのであります。人間の思いは、一時的に燃え上がったとしても、困難の前に、やがて醒めてしまったり、消えてしまったりしますが、神様の愛と熱意は燃え尽きることはありません。

4.わたしは何者でしょう――召しへの抵抗

さて、このように自ら決意を固められた神様は、10節でモーセへの命令を語られます。「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」――神様が主体となってイスラエルの民の出エジプトの御業を始められるのでありますが、そこにはもはや人間の手が必要なくなったということではありません。むしろ、そこでこそ、神様は人間を召し出して、御業に仕えさせられるのであります。かつては自らの決意と力で立ち上がろうとして挫折したモーセを、満を持して訓練された後に、今度は神様が御自分の決意と指導の下で、大事業のために用いようとなさるのであります。
 
しかも、最初に命じられたことは、ファラオのもとに行って、イスラエルの人々を連れ出す交渉をすることであります。かつてモーセを殺そうと尋ね求めたエジプト王は既に死にました。しかし、40年たって別の王になったら、堂々と交渉できるというものでもないでしょう。
 
モーセはこの召しを聞いて尻込みをいたします。11節でこう言っております。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」かつてのモーセとは違い、自分の無力さを痛いほど知らされました。羊飼いとしての平穏な生活を捨ててまで立ち上がる気力も失っていたかもしれません。「かつて大失敗をした自分を、今更なぜ、用いようとされるのか、私には分かりません。そっとしておいてください」、というのがモーセの偽らざる気持ちでありましょう。
 
このように、神様の召しを受けて抵抗したのは、モーセだけではありません。預言者のイザヤも、「わたしは汚れた唇の者」(イザヤ65)と言って、自分の罪の故に相応しくない者であることを告白いたしましたし、エレミヤも、「わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」(エレミヤ16)と言って、召しを断りました。私たちも、洗礼を受けてイエス様の弟子となることや教会の働きのために何らかの奉仕をすることへと召された時に、自分がそれに相応しい者ではないとの思いや、自分のこれまでの生活を乱したくないとの思いなどから躊躇したり断ったりすることがあります。それを従順でないといって批難することは出来ません。神様もそうした私たちの態度をお怒りにはならないでしょう。神様は私たちがいやいや召しに従うのではなくて、喜んで召しに応えることを望んでおられます。そのために、神様は必要な助けを用意しながら、忍耐をもって待って下さるのではないでしょうか。しかし、私たちの躊躇の裏側に、自分の力で成し遂げなければならないとか、自分の側の条件が整ったら、という思いがあるとすれば、神様はその思いを取り除こうとされます。

結.わたしは必ずあなたと共にいる

モーセの抵抗に対しては、神様は12節でこう言われました。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」――「私は必ずあなたと共にいる」と言っておられます。神様の召しというのは、自分一人の力で神様の御委託を成し遂げることではありません。神様が必ず共にいて下さるのであります。自分の自惚れや自負心から出たものであれば、神様が共にいて下さらないことがあるかもしれません。しかし、神様が召して下さる時には、必ず神様が共にいて下さるということであります。そして、適切な時に必要な助けを与えて下さるということであります。
 
そのあとで、「このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである」と言われていますが、「このこと」とは何を指しているのでしょうか。色々な解釈がありますが、すぐ前の「私は必ずあなたと共にいる」ということは約束の言葉であって、「しるし」にはなりません。「しるし」とは、通常、奇跡などの特別の事件を表します。チャイルズという旧約学者は、3章の初めに出て来た「燃える柴」のことを指しているであろうと結論づけています。モーセはホレブの山へ来て、燃え尽きない柴を見て、神様と出会うことが出来ました。「燃える柴」は神様との出会いの「しるし」でありました。その出会いがあった同じホレブの山で、エジプトからイスラエルの民を導き出した時に、神様に仕える(即ち、礼拝する)ことになる、とおっしゃっているのであります。そのホレブの山でイスラエルの民は神様から十戒を与えられ、新しい契約を結ぶことになるのですが、そのことが「燃える柴」の「しるし」で約束されている、ということであります。つまり、神様との出会いである礼拝こそが、神様が共にいて下さる「しるし」であり、神様の召しの「しるし」であるということであります。
 
モーセは再びホレブの山で神様に出会って礼拝することを約束されました。私たちは今既に、新しいイスラエル(即ち、教会)として礼拝する者たちとされています。モーセが将来のこととして約束されたことを、私たちは既に体験しています。それは、主イエス・キリストの十字架と復活の御業によって、私たちが罪の奴隷状態から解放されて、「出エジプト」をさせていただいたからであります。神様は、アブラハム、イサク、ヤコブに約束されたことを、モーセにおいてイスラエルの民に実現し、更に、イエス・キリストにおいて私たちに実現して下さったのであります。そして、このように礼拝において、私たちを救いへと召し出して下さり、イエス・キリストに仕え、更に救いの福音を伝えるために仕える者として、一人ひとりに相応しく用いようとしておられるのであります。私たちはその使命に相応しくないように思えるかもしれませんが、神様は、「わたしは必ずあなたと共にいる」と言って下さっています。この召しに喜んで応える者とされたいと思います。
 祈りましょう。

祈  り

アブラハム、イサク、ヤコブの神であり、イエス・キリストの父なる父なる神様!計り知ることの出来ない恵みと愛の御手をもって、私たちを罪の奴隷から救い出して下さるだけでなく、あなたの救いの御業に仕える者へと召し出して下さることを覚えて、畏れつつ御名を賛美いたします。なお罪深く、あなたの御手を信じなかったり、己の力を誇って、自分で何事かを成し遂げようとする愚かを繰り返しておりますが、どうか、イエス・キリストの故に、赦され、清められて、御心に従って、召しに応えることの出来る者とならせて下さい。
 
どうか、米子伝道所に関わる群れの一人一人が、あなたの召しと救いから漏れることにないように、お導き下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>       2011年8月21日  山本 清牧師 

 聖  書:出エジプト記3:1−12
 説教題:「痛みを知る神」
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