序.私たちの出エジプトのために

今月から10月にかけて、旧約聖書の出エジプト記と民数記によって、イスラエルの民の出エジプトの物語を辿って行くことになっています。昨年秋に、創世記によってヨセフ物語を取り上げました。そこでは、ヤコブ(別名イスラエル)に12人の息子があって、そのうちのヨセフが兄たちの妬みと憎しみを受けてエジプトに奴隷として売られたのですが、そこでヨセフの能力が用いられて、飢饉が見舞った時にエジプトを救ったことから総理大臣にまでなって、ヨセフはカナンの地で飢饉のために苦しんでいた兄弟たちと父ヤコブをエジプトに招いたのでした。それから数百年の後に、エジプトに「ヨセフのことを知らない新しい王」(8)が出て、その頃にはヤコブ一族、すなわちイスラエルの民が増えて、大きな勢力になっていましたので、新しいエジプトの王はイスラエルの民を警戒するようになって、出エジプト記111節以下にあるように、イスラエルの民に重労働が課せられるようになったのであります。つまり、奴隷として過酷な強制労働を強いられるようになったのであります。そのような奴隷状態から脱出して、カナンの地へ旅立ったのが出エジプトの物語でありますが、そこに登場するのが今日の主人公であります、モーセであります。
 
この出エジプトの出来事は、イスラエルの信仰の歴史の原点でありまして、苦しい荒れ野の旅の中で不信仰に陥りながらも、モーセを通して神様と向き合いながら、十戒という律法を与えられたり、様々の恵みを受けて、やがて、約束の地カナン(パレスチナ)に定着することになるのであります。
 そのイスラエルの出エジプトの出来事を、私たちが改めて約3ヶ月をかけて学ぶことには、どのような意味があるのでしょうか。それは、単にイスラエルの民がエジプトでの奴隷状態から脱出したドラマを学ぶということではなくて、私たち自身が罪の奴隷状態の中から解放され救われるため、つまり私たち自身の出エジプトのためであります。

1.寄留者・奴隷としての神の民

神様はかつてアブラハムに、「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように」(創世記122)と約束されました。この神様の約束は、寄留地であるエジプトにおいても、成就されまして、最初は七十人であったヤコブの一族が、400年余の滞在中に、エジプトの人々にとって脅威となるほどに増え広がったのであります。人数が増えたことは祝福でありましたが、そのことによって危険視され、奴隷とされて重労働を課せられましたし、また、異教の神々に囲まれた中で、信仰が揺るがされるということもあったのではないかと思われます。
 
イエス・キリストを信じることによって新しい神の民とされた私たちキリスト者も、この世にあっては寄留者であります。キリスト者の故郷は神の御許にあります。しかし、現実の生活の中では、この世の異教的な習慣や時代の潮流に押し流されそうになったり、いわれのない中傷を受けなければならないことがあります。そうした中で私たち自身の信仰生活が揺るぎかねないのであります。現に、わが国のキリスト者の数は増えないというよりも、減少傾向にありますし、この米子伝道所も設立以来、来年は20年目を迎えようとしておりますが、その教勢は足踏み状態が続いています。戦後、日本キリスト教会が発足した当初は、伝道所は20年で独立するのが目標とされました。その目標を達成して独立教会となった教会も多くありますが、最近は20年経っても独立できない伝道所が多くありますし、独立教会の教勢が低下して、伝道所並みになっている教会もあちこちに出始めています。こうした状態を、日本の風土の所為や、時代の潮流の所為にすることは出来ません。私たち自身が罪の奴隷になっていないか、私たち自身が時代の潮流に流されていないのか、神様への信仰が揺らいではいないか、ということが問われています。問題は、私たち自身が不信仰に陥りそうになる状態から脱出出来るかどうかであります。

2.モーセの生い立ちに見る神の御手

そこで私たちは、3ヶ月かけてイスラエルの出エジプトの出来事を見て行くわけですが、結論から申しますと、彼らが出エジプトをして、奴隷状態から抜け出して、約束の地に入ることが出来たのは、彼らの決意によるのでもなく、彼らの努力によるのでもなく、彼らの信仰が確かであったからでもなく、指導者のモーセが立派だったからでもなくて、主なる神様がアブラハムに約束されたことを成就されたから、主が救いの御計画をもってイスラエルを導かれたから、であります。私たちはそのことを辿ることによって、今の私たちに対しても、神様の確かな御手が働くのだということを知らされたいし、そのことを信じる信仰へと導かれたいのであります。
 
今日は、そのうちの2章の部分、すなわちモーセが誕生し、成人した時までの部分を学ぼうとしております。実は、日曜学校のカリキュラムでは、前半の10節までと11節以降と、2回に分けて取り上げることになっているのですが、来週は講壇交換になっていますので、今日まとめて、2回分のテキストを取り上げることにしました。
 
さて、1章の15節以下に書かれていることですが、エジプト王はヘブライ人の助産婦に、出産を助けた時に生まれた子供が男の子なら殺すように命じたのであります。しかし、17節にあるように、助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておきました。そして、後からそれをとがめられると、「ヘブライ人の女はエジプト人の女性と違って、丈夫なので、助産婦が行く前に産んでしまうのです」と答えるのです。エジプト王よりも神を畏れた助産婦たちの信仰は、後に、初代教会においてペトロとヨハネが議会で取調べを受けて、「決してイエスの名によって話したり、教えたりしないように」と命令された時に、「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください」と答えた信仰と勇気を思い起こさせるものであります。パウロはローマの信徒への手紙の中で「人は皆、上に立つ権威に従うべきです」(ローマ131)と教えています。しかし、上に立つ権威者が神の御心とは異なることを命じるならば、勇気をもって従わないことも赦されるのであります。このようなことがあって、エジプト王ファラオは22節にあるように、「生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め」という、恐ろしい命令を下します。
 
そこで、2章に入って、モーセの誕生の物語になります。レビ族に属する男女が結婚して、男の子が生まれたのですが、生まれた子があまりにも可愛いかったので三ヶ月の間隠しておきましたが、隠しきれなくなって、パピルスの籠にアスファルトとピッチで防水して、そこに男の子を入れて、ナイル川の葦の茂みに浮かべたのであります。この男の子がモーセであります。
 
ここは大変印象深い場面で、一度読んだら忘れられない話ですが、その様子をこの子の姉が見ていますと、ちょうどファラオの王女が水浴びをしようと川にやって来て、葦の茂みの間にある籠を見つけて、中を開けてみると赤ん坊がいます。ふびんに思った王女はその子がヘブライ人の子だと分かりましたが育てようとするのであります。その様子を見ていたその子の姉は、王女に「乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んで参りましょうか」と申し出ると、王女は「そうしてくれ」と頼んだので、その姉はその子の実の母親を乳母として連れて来たのです。こうして、その子は、実の母親の乳を飲んで、しかも王女の子として育つことになるのであります。そして王女はこの子の名前を、水から引き上げたので、「引き上げる」という意味の「モーセ」と名付けます。――王女は当然、ヘブライ人の男の子は殺さなければならないということを知っていた筈であります。しかし、ファラオの政策の問題性にも気付いていたのでしょう。王女だったからファラオの命令に従わなくても咎められることはなかったのでしょう。ここに、神様の計り知れない救いの御手を覚えさせられます。
 
王女は、ただ籠の中にいた子があまりに可愛くて不憫に思ったのと、ファラオのやり方に多少反発を覚えていたから助けただけであったかもしれませんが、モーセは王宮で最高の教育を受けて育つことになり、イスラエルの民の指導者に相応しく成長して行くことになるのであります。モーセの実の母親にしてみれば、この子はもう生き残ることを諦めざるを得ない子でありました。それなのに、命が助かっただけでなく、王家で育てられるという、思いもかけない育ち方をすることになりました。ですから、母親としては、自分の子でありながら、もはや自分のものではなく、神様から預けられた子だという思いで育てたのではないでしょうか。
 
こうしてモーセは、神様から命を助けられただけでなく、神様がイスラエルの民をエジプトの奴隷状態から救って、神の民として用いるという遠大な御計画の下で、育てられていくことになるのであります。この出来事に関与した、母親も、姉も、王女も、そのことはまだ全く知りません。ヘブライ人への厳しい弾圧はまだ続いていた筈です。しかし、神様の救いの御計画は密かに進められて行きます。
 
ここに私たちが目を止めるべきポイントがあります。私たち一人ひとりの罪の奴隷からの解放、またキリストの教会を通して行われる救いの御業は、私たちの目には先までよく見えている訳ではありません。むしろ、私たちを取り巻く状況は、極めて厳しいと言わざるを得ません。求道中の人々が次々と救われて洗礼に導かれるという状況はありません。既に洗礼を受けた人であっても、教会生活から離れていく人もいます。この伝道所の将来に対しても、希望に満ちた展望が開けているわけではありません。しかし、神様の救いの御計画は私たちの目にははっきりとは見えなくても、前に向かって進められていることを、このモーセの誕生の不思議な出来事からも信じることが許されるのではないでしょうか。よく見れば、私たちの周囲にも神様の力強い御手が働いていることを見つけることが出来ます。米子伝道所の短い歴史の中でも、苦難の時に必要な信徒を補って下さいました。若い人が教会から消えているこの時代の中で、この小さな伝道所に、少数ながら何人かの青年が与えられています。また、多くの求道者が与えられています。そうした中に神様の御計画が隠されているのではないでしょうか。そこに私たちの信仰の目を留めたいと思います。

3.モーセの挫折と逃亡に見る神の御手

続いて、11節以下の出来事を見て参ります。
 
モーセは王女の許で育てられて成人しました。このことについて、先ほど朗読した使徒言行録では、ステファノが説教の中で、こう言っております。「モーセはエジプト人のあらゆる教育を受け、すばらしい話や行いをする者になりました。」(使徒722)これは神様の特別な計らいでありました。しかし、彼は当然、自分がヘブライ人であることを知るようになります。同胞は奴隷として重労働に苦しめられているのに、自分は王宮で贅沢で平穏な暮らしをしていることに、葛藤を覚えざるを得なかったでありましょう。そうした中でモーセは、ある日、一人のエジプト人が、同胞であるヘブライ人の一人を打っているのを見て、辺りを見回し、だれもいないのを確かめると、そのエジプト人を打ち殺して死体を砂に埋めたのであります。先ほど読んだ使徒言行録の方を見ると、「四十歳になったとき、モーセは兄弟であるイスラエルの子らを助けようと思い立ちました。それで、彼らの一人が虐待されているのを見て助け、相手のエジプト人を打ち殺し、ひどい目に遭っていた人のあだを討ったのです」(使徒72324)とステファノは語っています。その虐待の場面に偶然遭遇して、思わずエジプト人をやっつけたのか、ステファノが言うように、イスラエルの人たちを助けようと思い立って、決断してやったのか、そこは明確ではありませんが、いずれにしろ、同胞愛と正義感に駆られてやってしまったのでしょう。しかし、同胞愛と正義感によってすることが神様の御心に適っているとは限りません。
 
13節以下には、翌日の出来事が記されています。今度はヘブライ人どうしが二人でけんかをしている場面に出くわしました。モーセが、「どうして自分の仲間を殴るのか」と悪い方をたしなめると、「誰がお前を我々の監督や裁判官にしたのか。お前はあのエジプト人を殺したように、このわたしを殺すつもりか」と言い返されてしまいます。ここでもモーセは正義感を振りかざして、悪い者を裁こうとしたのですが、相手はエジプト人の王家で育てられたモーセを信用していなかったのであります。前日にモーセがやったことが知られていたのも驚きでしたが、同胞愛に駆られてやったことが、同胞にさえ受け入れられていなかったのであります。このことに関して、『旧約新約聖書講解』はこう記しています。「ここには、自分が神によって用いられるヘブライ人の解放者だとの自負がある。しかし、このような自負によって事が成就できるものではない。自分の自負が徹底的に打ち砕かれ、自らは何の力もない土の器に過ぎないことを本当に知るとき、神の僕の働きが始まる」と。――モーセがしたことは私たちも陥りがちな過ちであります。私たちも正義感をもって、時には聖書の教えさえ振りかざして、弱い者を守ろうとしたり、間違いを正そうとします。しかし、自分自身が安穏な生活をしていて、自らの弱さや罪に気付かないで、上からの目線で正しいと自負することをしても、同情をかけた相手からさえ受け入れられないということであります。こうしたことは、教会の中でも十分に気をつけるべきことであります。
 
さて、これらの一件はファラオの耳にも届いて、モーセを殺そうと尋ね求められることになりました。もう、王宮に戻ることは出来ません。遠くミディアン地方に逃れて行かざるを得ませんでした。ミディアンというのは、聖書の後の地図の「2出エジプトの道」で確かめていただくと分かりますが、アラビヤ半島の北西部に位置し、エジプトからはシナイ半島を挟んだ遥か東の方になります。そこまで逃れて、とある井戸端で、羊の群れに水を飲ませようとしてやってきた娘たちを助けたことから、その娘たちの父親のもとにとどまることになって、娘の一人であるツィポラと結婚し、羊飼いとしてそこで定住することになるのであります。こうしてモーセは大きな挫折を経験した後、ミディアンの地で、自らを反省しつつ、自分の考えや自分の力によってではなく、神様によって用いられることになるまで、静かな日々を過ごすことになったのであります。この期間というのは、将来のために、神様が備えられた恵みの訓練の時でありました。『日曜学校』誌のこの箇所の教案には、このミディアンの地でモーセが身につけたことを4点挙げています。一つは、羊飼いとしての生活をする中で、主イエスが「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ1011)とおっしゃったようなあり方を身につけたこと、二つ目は、22節でモーセが自分の子にゲルショムと名付けたように、「自らは、異国にいる寄留者に過ぎない」との認識を与えられて、そのような「寄留者」さえ用いて下さる神の支配や秩序に目が開かれて行ったこと、三つ目は、自らはヘブライ人でありながらエジプトの王宮で育てられ、更にミディアンという遊牧民の地で過ごす経験をした中で、全ての民を支配される神様を発見するようになったこと、そして四つ目は、モーセがイスラエルの民に先んじて、荒れ野での不安定な遊牧民の生活を体験することを通して、その不安定さの中で、ただ神様の恵みの導きを信頼しつつ生きるための準備をさせられたことであります。 神様はこのような長い年月にわたる訓練の時を経て、モーセを出エジプトというイスラエルの救いの歴史の指導者として用いられるのであります。そこには、神様の、歴史を貫く愛の御手があります。人間の思いを遥かに超える遠大な御計画があります。そのような神様の御手と御計画は、今も私たち一人ひとりの人生の上に、そして教会の歴史の中に働いているということであります。私たちにも、ミディアンの悔い改めと訓練の時が必要なのであります。

結.神は民の嘆きを聞き――神による救出に向けて

最後に、23節以下の御言葉を聴きましょう。
 
それから長い年月がたち、エジプト王は死んだ。その間イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた。2325節)
 
ミディアンで長い年月を過ごすうちに、モーセの行く方を追うエジプト王は死にました。しかしその間、相変わらずイスラエルの人々は重労働の故に苦難の生活が続きました。彼らの悲痛な叫び声を神様は御存知なかったとか、彼らの苦しみに無頓着であられたということではありません。「アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた」とありますが、この間ずっと神様が忘れておられたということではありません。そうではなくて、この時に至って、神様の御計画を進められる時が満ちたということであります。この箇所には、「神は」という言葉が繰り返し語られています。つまり、神様がイスラエルの出エジプトの御業を起こされようとしているということであります。モーセが長い年月の間を費やして、イスラエルの民を救い出すための準備を整えたとか、自らをそのために鍛錬したということではなくて、モーセは平凡な生活をする中で、神様によって全てを備えられたのであります。神様がかつて、アブラハム、イサク、ヤコブに約束されたことを今、実行しようとされたのであります。そこには神の民に対する神様の変わらぬ愛があります。周到な御計画があります。その御計画は単にイスラエル民族を救おうということだけではありません。神様の救いの御業、人類を罪から解放されようとの御計画は、独り子イエス・キリストにおいて決定的に成就されます。その遠大な御計画の一環として、今、出エジプトの御業が始められるのであります。
 
その神様による救出の御業は今も世界中で、そしてここ米子においても、続けられております。今、私たち一人ひとりの生活で起こっていること、教会で起こっていることの長いスパンでの意味合いは私たちには知り尽くすことは許されていません。しかし、モーセがパピルスの籠に入れられてナイル川に浮かべられたことも、ファラオの王女がそれを発見してふびんに思ったことも、そして実の母が乳母となって彼を育てたことも、また、モーセが自らの同胞愛や正義感から起こした過ちと挫折の体験も、そしてミディアンでの羊飼いとしての生活も、すべて神様の計り知れない御手の中にあったように、私たちの身の周りで起こっていることも、教会が今直面している問題も、神様の大きな救いの御計画の一環であって、やがて私たち皆が、罪の奴隷から解放されて、神の国へと凱旋するための準備であって、ここに大きな神様の御手が働いていることを覚えたいと思うのであります。
 
祈りましょう。

祈  り

計り知ることの出来ない御計画をもって私たちを救いに入れようとして下さっている父なる神様!御名を讃美いたします。
 
この日、出エジプト記のモーセの誕生と逃亡の記事を通して、私たちの救いに向けて、私たちを御言葉によって調えて下さったことを感謝いたします。私たちの思い上がった思いや言動、あなたを信頼せずにいた不信仰を戒めて下さってありがとうございます。
 
どうか、変わることのない愛と慈しみによって、私たちの人生と教会の歩みを、御計画に沿って、導いて下さり、そして、それぞれの出エジプトを果たすことが出来ますように。どうか、誰一人として救いから漏れることがないようにして下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>       2011年8月7日  山本 清牧師 

 聖  書:出エジプト記2:1−25
 説教題:「神による救出」
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