序.嵐の中で

使徒言行録の中から大切な個所を飛び飛びに聴いて参りましたが、27章は、パウロがローマへ護送されることになって、カイサリアからイタリア半島に向けて船旅をした場面であります。エルサレムでユダヤ人たちから訴えられたパウロは、ローマ総督が駐在していたカイサリアで裁判を受けましたが、パウロはローマの市民権を持っていましたので、ローマ皇帝に上訴いたしました。そこで、皇帝直属部隊の百人隊長ユリウスに連れられて、ローマに向かったのであります。
 
今日の箇所は、その船旅の中で暴風に襲われた最中の様子が書かれている部分でありますが、その前後の箇所も参照しながら、嵐の中でパウロがどのような働きをしたのかということを見たいと思います。
 
パウロは既に第三次宣教旅行でエフェソに滞在中に、「ローマも見なくてはならない」(1921)と申しておりました。またローマの信徒への手紙の中でも、「何とかしていつか神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています」(ローマ110)と述べています。このように、パウロはかねてからローマ行きを願っていたのであります。それだけではありません。使徒言行録2311節によれば、パウロがエルサレムでユダヤ人に訴えられて、ローマ兵の兵営に保護されていた時に、夜、主がパウロのそばに立って、「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」と言われたのであります。つまり、パウロのローマ行きは、単にパウロの個人的な願いではなくて、主の御計画であり、ローマで福音を宣べ伝えるために、神様がパウロをお遣わしになるのであります。ですから、今日の箇所から私たちがまず聴かなければならないことは、初代教会が宣教活動を行う中で様々の困難に出会うわけですが、今回は暴風に見舞われて、パウロのローマ行きが危うくなる状況の中で、神様がパウロを通してどのように働かれたのか、ということであります。
 
しかし、ここに記されている出来事から私たちが聴かなければならないことは、初代教会の働きの中で、神様がパウロをどのように用いられたかということだけではありません。あらゆる時代の全ての教会は、宣教活動を進める中で、様々な嵐に巻き込まれるのであります。現代の教会も時代の激しい潮流の中で翻弄されているように見えます。そして私たちの米子伝道所も、例外ではありません。特に今、米子伝道所は、長く礼拝生活を共にして来た一人の兄弟が礼拝を休んでおられるという事態の中にあります。これは単に個人の問題ではなくて、この伝道所が試みの嵐の中にあるということであります。パウロたちが遭遇したのは、自然現象として起こった嵐でありました。しかし、そこにも人間の誤った判断があって、出航してしまったことに問題がありました。教会が出会う嵐には、今回の東日本大震災で仙台黒松教会が遭遇したような、自然災害によって惹き起こされる嵐もありますが、時代の流れとか社会環境といった教会を取り巻く世の中の状況が伝道を困難にする事態もありますし、更には、そうした教会の外部の状況から来る困難だけではなくて、教会の内部から起こる困難や嵐もあるのであります。そこには、教会に連なる人たちの過ちや信仰の問題性がからんでいます。――教会がそのような嵐に巻き込まれた時に、信仰的にどう対処したらよいのか、ということを、今日の箇所から聴き取ることが出来れば幸いであります。
 
また、この箇所からは、そうした教会の問題だけでなく、私たち信仰者個人が困難な問題に遭遇して、行き悩まなければならないような事態に陥った場合に、信仰者として何を拠り所とし、どのように決断すべきかということについても、有益な示唆を含んでいるのではないでしょうか。今日は、そうした、私たちが実際に遭遇する困難な状況を念頭に置きながら、その中で主が語って下さる恵みの御言葉を聴き取りたいと思うのであります。

1.嵐の中におけるパウロの働き

そこでまず、パウロたちの乗った船がどのようにして暴風に見舞われることになったのか、そして、激しい暴風の中でパウロはどうしたのか、ということを見て参ります。
 
ここでパウロたちの航程を聖書の巻末の地図(9 パウロのローマへの旅)で確認しておきましょう。27章の1節から辿って行きますと、カイサリアを出た船は、シドンに寄港した後、向かい風を避けてキプロス島の陰を航行して、ミラに着きます。この船はイタリアまで直行する船ではなかったので、ミラでイタリア行きの船に乗り換えて西へ向かいます。しかし、船足がはかどらず、ようやくのことでクニドス港に着くのですが、そこから先は風に行く手を阻まれたので、サルモネ岬を回って、クレタ島の陰を航行して、「良い港」呼ばれる所に着きました。もう季節風が吹く冬が近づいていました。
 
ここでパウロは10節にあるように、これから先に進むのは危険だと忠告しました。パウロは地中海を何度か航海したことがあって、それまでにも嵐に出会って遭難しそうになったことがあったので、その経験をもとに忠告したのです。しかし、船長や船主は、その港は冬を越すのに適していないので、少し先のフェニクスまで行って、そこで冬を過ごすことを主張しました。多分、積荷の商売の関係もあって、そこまで行った方が得策だと考えたのでしょう。百人隊長も、パウロの言ったことよりも航海の専門家の方を信用しました。パウロはここでは、神様のお示しを受けたとは書かれていません。けれども、パウロは当然、神様に祈ったに違いありません。しかし、この時は神様からの答えは聞けなかったのかもしれません。ですから、パウロは自分の意見をそれ以上主張することが出来なかったのでしょう。このように、私たちも、祈ってもすぐに御心を聞くことが出来ない場合もあります。それも神様の一つの答えかもしれません。神様は、私たちを嵐の中に放り出して試みられる場合があります。そこで大切なことは、<神様は祈りも聞いて下さらないし、何もお示し下さらない>と思って、神様の御心を伺うことを止めてしまわないことです。
 
さて、13節にあるように、この時はたまたま南風が吹いて来たので、人々は望みどおりに事が運ぶと考えて錨を上げて、フェニクス港へ向かって進みました。ところが間もなく、「エウラキロン」と呼ばれる暴風が襲ってきて、前に進むことが出来なくなって、風に流されてしまいました。クレタ島の西にはシルティスの浅瀬があるので、それに乗り上げるのを恐れて、船を軽くするために、積荷や船具までも捨てなければなりませんでした。激しい暴風が幾日も続いて、もう助かる望みが消えうせようとしておりました。
 
そんな中で、21節以下にあるように、パウロは立ち上がって、同船の人々に言いました。「皆さん、わたしの言ったとおりに、クレタ島から船出していなければ、こんな危険や損失を避けられたにちがいありません。」(21)これは、パウロの意見を聞かなかったことに対して文句を言っているようにも読めますが、この危機に及んでそんな過去のことを言っても仕方がないことは分かっています。パウロがこう言ったのは、これから言おうとしていることを今度こそは聞いてほしいという思いからでしょう。そして22節でこう断言します。「しかし今、あなたがたに勧めます。元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです。」(22)こう言って、一同を力づけ、励ましました。どうしてパウロはそのようなことを確信をもって語ることが出来たのでしょうか。そのことが23節以下に述べられています。「わたしが仕え、礼拝している神からの天使が昨夜わたしのそばに立って、こう言われました。『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』ですから、皆さん、元気を出しなさい。わたしは神を信じています。わたしに告げられたことは、そのとおりになります。わたしたちは、必ずどこかの島に打ち上げられるはずです。」(2326)パウロが確信をもって言うことの出来た根拠は、神からの天使が言ったから、つまり神の御言葉が根拠です。御言葉が第一に告げていることは、「あなたは皇帝の前に出頭しなければならない」ということです。さっき触れたように、神様は以前にもパウロに「ローマでも証ししなければならない」とおっしゃっていました。パウロがローマに行くことは神様の御計画であります。人間の望みが消えかかった時でも、神様の御計画は消えることがないのであります。「あなたは皇帝の前に出頭しなければならない」と訳されておりますが、口語訳聖書では「あなたは必ずカイザル(皇帝)の前に立たなければならない」と訳されていました。原文には「必ず」という言葉が入っています。神様がパウロに使命を与え、約束しておられるのです。御言葉が告げているもう一つのことは、「神は一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださった」ということです。パウロ一人が助かるというのではなくて、パウロと一緒に航海している全ての者が助かるということです。「あなたに任せてくださった」ということは、パウロの指示に従えば、皆が助かる」ということです。
 
このあと、27節以下には、船員たちが小舟を降ろして逃げだそうとした出来事が記されています。それを見たパウロは、31節で「あの人たちが船にとどまっていなければ、あなたがたは助からない」と言ったので、兵士たちは綱を断ち切って、小舟を流れるにまかせたとあります。パウロが全員助かると言っているのに、船員たちは逃げ出そうとしたのですが、船を操る船員がいなければ、残された者たちが助からなくなります。この時は百人隊長も、先ほどのパウロが聞いた御言葉を受け入れて、パウロの指示に従いました。
 
また、33節以下では、パウロが一同に食事をするように勧めています。ここでも一同はパウロの言葉に従って、食事を食べて、元気を取り戻すことが出来ました。こうして、乗船者276人の全員がマルタ島に泳ぎついて無事上陸できたのでした。

2.嵐の中の教会

さて、この出来事から、私たちは何を聴き取ることが出来るのでしょうか。以前に使徒言行録の連続講解説教をした時に、この箇所から聴き取ったことは、この世における教会(あるいはキリスト者)の役割ということでありました。「船」というのは、一種の運命共同体でありますが、私たちが普段生活している社会も、ある意味では運命共同体であって、その中に教会があり、信仰者がいるのであります。運命共同体の社会の中にあって、教会または信仰者の果たす役割が、この場合のパウロの姿によって示されているように思われます。パウロの同船者は真の神様を知りません。嵐に遭遇して、小舟を逃がさないように綱を巻きつけたり、積荷や船具を捨てるといったあらゆる手立てを採るのですが、人間の力では助かる見込みがなくなった中で、船員たちだけが逃げ出そうとする醜い行動も出て来ます。そうした中でパウロは神様に祈りつつ、御言葉を賜わることが出来ました。パウロが「ローマでも証ししなければならない」という神様の御計画が実現するために、同船者たちも助かるのであります。運命共同体の社会の中で、御言葉を聴くキリスト者がいることによって、社会全体が救われるのであります。一握りの信者がいても、社会全体は何も変わらないように見えますが、神様の御計画は一握りのキリスト者を用いて実現されて行くのであります。この米子の地域に教会が建てられているということも同じで、キリスト者は少数者で、教会に来る人は多くはありません。しかし、ここに教会が建てられ、そこで御言葉が語られ聴かれていること、そこに祈る群れがあることが、この地域を救うのであります。神様がパウロを用いられたように、この伝道所を用いて救いをこの地にもたらそうとしておられるからであります。
 「船」はまた、教会に譬えられます。ガリラヤ湖でイエス様と弟子たちを乗せた船が嵐に遭い、弟子たちが助けを求めると、イエス様が「黙れ、静まれ」と言われて風がやみ、凪になったことがありました。この時、イエス様は弟子たちに「なぜ怖がるのか」と言って叱られました。イエス様が一緒に乗っておられるのに、嵐を恐れたからであります。使徒言行録の出来事の場合、同船者たちは真の神様を知らず、ましてイエス様を知らなかったでしょう。そこには信仰がなく、嵐を恐れるしかありませんでした。その中で、御言葉を取次いだパウロがイエス様の代わりをしています。そのパウロがいたことで、全員が救われました。教会という船には、イエス様がおられます。イエス様の御言葉を聴くことが出来ます。教会はこの世の嵐や時代の潮流に流されて、難破しそうに思えることがあります。あるいは教会の内部に問題があって、船体に亀裂が生じたり、時には分解しそうになることがあります。しかし、イエス様がおられ、御言葉を聴いているならば、教会は難破することも自壊することもないのであります。教会に問題が生じているということは、どこかに原因があります。改めるべきこと、悔い改めるべき点があります。そのことを謙虚に反省しなければなりません。自分を正しいとして他人を批判していたのでは解決にはなりません。自分自身の問題点に気づかなければなりません。教会は人を裁くことによって正しい教会になるのではなくて、神様の大きな赦しの恵みを知ることによって、自らの罪に気付いて悔い改めると共に、人を赦すことが出来るようになってこそ、福音に生かされた、喜びと感謝に満ちた教会へと生れ変わることが出来ます。
 
しかし、教会に問題が生じた場合に、反省や赦し合いよりももっと大事なことがあります。それは、パウロがそうであったように、祈りつつ神様の約束の御言葉を聴くということであります。神様は御計画に従って、教会を通して救いの御業を進めておられるということであります。教会に問題が起こっているとしても、それは教会が御心に適った働きをするようになるための、神様の試みであり、神様の計らいなのであります。この神様の遠大な御計画と御配慮に教会の皆が気付くとき、教会は大きく成長することが出来るのであります。

3.嵐の中の信仰者

パウロがこの船旅で経験した事は、困難に遭遇した教会にとって、大きな慰めと励ましを与えてくれますが、同時に、私たち一人ひとりが個人生活の中で危機に遭遇したときに、どう対応したらよいかということも、教えてくれているように思います。私たちの人生行路は、パウロの船旅に通じるところがります。順風満帆で船出しても、暴風が起こって、思わぬ方へ流されてしまって、自分がどこにいるのかも分からなくなって、もはや人生の落伍者になってしまうのではないか、と思われるような目に遭遇することがあり得ます。そういう時に私たちを支え、励まして、望みを与えてくれるのは、パウロがそうであったように、神様の御言葉であります。パウロたちが助かる望みが全く消えうせようとしていたときも、神様は、「パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない」とおっしゃったように、私たちの目には、「もう駄目か」と思われる状況であっても、神様は私たちの人生が目指すところ、生きる目標へ向けて、私たちを連れて行こうとしておられるということであります。その目標は、時には自分が考えていたものとは違うかもしれません。自分が考えていた目標が崩れ去ったとしても、その向うに神様が備えて下さったもっと素晴しい目標が見えてくることがあります。神様はそれを私たちに教えるために、嵐に遭遇させられる時があるかもしれません。ここでも大切なことは、祈りつつ神様の御言葉を聴くことであります。
 
そして、なお驚くべき恵みは、パウロが御言葉によって聴いたことは、パウロ独りが助かるということではなかったように、私たちが神様によって救われるということは、私たちの周りの人たちも一緒に救われるということであります。私たちの家族であったり、友人であったり、同僚であったり、私たちの周囲の人たちも一緒に神様の救いの御計画の中に組み込まれるということであります。そのことは私たちの目にすぐに見えて来たり、結果が現れて来るということではないかもしれません。神様の遠大な計画の全貌を私たちは見ることが許されていないかもしれません。しかし、神様がイエス・キリストの十字架と復活において成して下さった救いの恵みの深さ・大きさを知るとき、私たちは神様の救いの御計画の確かさを信じることが出来るのであります。

結.元気を出しなさい

25節以下でパウロはこう言っておりました。もう一度聴きましょう。「ですから、皆さん、元気を出しなさい。わたしは神を信じています。わたしに告げられたことは、そのとおりになります。わたしたちは、必ずどこかの島に打ち上げられます。」25,26)――この時点では、まだ一行が助かるのかどうかは何もわかりません。むしろ、状況は20節に書かれているように、「助かる望みは全く消えうせようとしていた」のであります。しかしパウロは、天使を通して語られた神様の言葉を信じているのであります。キリスト者がこの世の共同体の中に存在する意味はここにあります。多くの人は望みを失いかけているかもしれません。あるいは、そのような危機的状況すら感じていないかもしれません。しかし、そのような中で、キリスト者は、神様の御言葉を聴いています。そのようなキリスト者がいる限り、その共同体では、「だれ一人命を失う者はない」のであります。もちろん、この世に何の不幸もない、肉体の命を失う者が誰もいない、ということではありません。しかし、キリストを通して与えられる真の命は滅びることはありません。その命がある限り、生きる希望がなくなることはありません。「元気を出しなさい」というのは、ただの励ましの言葉ではありません。これは神様の言葉を信じるところから来る「元気を出しなさい」であります。私たちもまた、神様の言葉を信じているので、どんなに望みが消えたように見える中でも、「元気を出しなさい」と語ることが出来るのであります。  祈りましょう。

祈  り

命の源である父なる神様!
 
「元気を出しなさい。だれ一人として命を失う者はない」との御言葉をいただき、感謝いたします。どうか、この言葉をいつも信じさせて下さい。どうか、私たちの教会において、また私たちが属するそれぞれの共同体の中で、この御言葉を信じる者として、あなたを証し続けることが出来ますように。どうか、礼拝から遠ざかっている人たちが、御言葉を聴く恵みから漏れることがありませんように。
 
どうかまた、望みを見失って、不安の中にいる人たちが、キリストに出会うことによって、真の命を与えられ、希望に生きることが出来るようにならせて下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>       2011年7月31日  山本 清牧師 

 聖  書:使徒言行録27:13−26
 説教題:「嵐の中でも」
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