序.何を頼みとするか

今日与えられております使徒言行録15章は、小見出しに「エルサレムの使徒会議」とありますが、生まれてまもなくのキリスト教会が最初の教会会議を開いたことが記されている個所であります。この会議の決定は、その後のキリスト教会にとって大変意義のあるものでありまして、キリスト教が世界宗教への道を歩み出す元になる信仰上の重大な決断をしたのであります。
 この会議を行うことになったきっかけは、パウロやバルナバが積極的な伝道活動を行っていたアンティオキアの教会へ、エルサレムの教会の信徒がやって来たことからでした。1節、2節に、こう書かれています。ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えていた。それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった。
 
アンティオキアの教会というのは、エルサレムで起こり始めたキリスト教に対する迫害のために追われた人たちが、福音を伝えたことによって出来た教会で、元々は外地育ちのユダヤ人が中心でしたが、やがて多くの異邦人もイエス・キリストの福音を受け入れるるようになって、異邦人が多い教会へと発展していました。そこへ、エルサレムからユダヤ人のキリスト者がやって来て、1節に書いてあるようなことを教え始めたのであります。
 
割礼というのは、男性の生殖器の先を切り取る儀式ですが、ユダヤ人の男子は生まれて八日目に必ず受けました。それは、ユダヤ人であることの目印であるとともに、神様の救いの民に加えられることの印でありました。ですから、エルサレムから来たユダヤ人たちは、異邦人であっても、割礼を受けなければ、たとえ洗礼を受けても、神様の救いを受けられないと主張したのであります。
 
これは今になれば、つまらない議論のように思えますが、信仰にとって大変重要な事柄を含んでいます。つまり、救いの確信の根拠をどこに置くか、という問題であります。割礼を受けているかいないかが救いの根拠になるのか、イエス・キリストを信じて洗礼を受けることが救いの根拠になるのか、ということです。伝統的なユダヤの律法に従って、割礼という形の上の儀式を受けることを救いの頼みとするのか、イエス・キリストを信じる信仰を頼みとするのかということです。端的に言えば、律法を頼みとするのか、福音を頼みとするのかということであります。
 
4年前に使徒言行録の連続講解説教でこの個所を説教した際には、この問題に対して教会がどのように対応したのか、ということを中心に、教会内で起こる問題をどのようにして解決するのがよいかということをお話ししたのであります。異邦人問題というのは、今では教会の大きな問題ではありませんが、教会には色んな問題で意見の相違が出て来ますので、そういう時に、どういう対処の仕方をすればよいのかということは、現代の教会にとっても大変大事なことであります。ですから、今回も、改めてそのことをもう一度復習しながら、学び直したいと思いますが、それだけではなくて、より本質的な信仰上の問題として、私たちが救いの根拠として何を頼りにするのか、という基本的な問題について、考え直したいと思うのであります。もちろん、今は割礼ということが私たちの現実的な問題となるわけではなりません。しかし、私たちはイエス・キリストの福音だけを頼みとして生きているのかどうか、信仰という何かあやふやに思えるものだけを当てにしていてよいのだろうか、という不安を持っていているのではないでしょうか。聖書の中には同意できることもあるが、聖書の教えることだけに全面的に頼っていてよいのだろうかという疑問もあります。事は、私たち自身の生き方に関わります。今日は、この問題を改めて聖書に問うて見たいと思うのであります。

1.割礼を受けなければ?

ところで、ユダヤ人はなぜ割礼にこだわったのでしょうか。割礼の起源については創世記17章に書かれています。アブラハムが99歳の高齢になったとき、神様は「わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。」(177)と言われて、子孫を増やすこと、カナンの土地を与えることを約束されて、その契約のしるしとして、割礼を受けるベきことを定められたのであります。ですから、割礼というのは、神様の約束の客観的な印であります。
 
信仰の客観性ということは非常に大切なことであります。人間の信仰はあやふやで、絶えずぐらつきます。イスラエルの長い歴史の中でも絶えず神様に対する不信に陥りました。そんな中で、割礼を受けているという客観的な事実が、信仰の拠り所となったのであります。しかし、割礼自体に魔術的な力があるわけではありません。割礼の背後に神様の約束があるわけです。アブラハムは割礼を受ける前に、神様の約束を信じて、行く先も知らずに旅立ったのでありました。その信仰が認められて、割礼を受けたのであります。パウロはローマの信徒への手紙の中でこう言っております。「主から罪があると見なされない人は、幸いである。では、この幸いは、割礼を受けた者だけに与えられるのですか。それとも、割礼のない者にも及びますか。・・・アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです。」(ロ−マ4811)大切なのは、神様の約束とそれを信じたアブラハムの信仰であります。その約束と信仰の客観的な印が割礼でありました。ユダヤ人は割礼を受けていることによって神様の約束の確かさを信じることが出来たのであります。しかし、割礼自体に救いの効力があるわけではありませんから、異邦人でも、神様の約束を信じることが出来れば、割礼を受けなくても救いに入れられるのであります。そこを間違わないようにしなければなりません。
 
しかし、割礼を受けるかどうかということは、先ほども触れましたように、律法を守るかどうかということでもあります。ユダヤ人は律法を行なうことによって、救われると考えていました。それは間違いではありません。しかし、割礼は受けても、律法を完全に守ることは出来ないという現実があります。律法を守り易いように解釈して、形式的には守ることが出来たとしても、律法が求めている、「主なる神を愛せよ」ということと、「隣人を自分のように愛せよ」ということを真実に行うことは、誰も出来ないのであります。誰も、神様の御心に背いて、罪を犯してしまうのであります。そうだからこそ、主イエスが十字架に架かって、私たちの罪を負って下さいました。そのことを信じることによって、神様との関係を回復し、救いに入れられることが出来るようにされました。こうして救いは割礼を受けることによって保証されるのではなく、イエス・キリストを信じて救われるという新たな段階に入りました。ですから、割礼を受けていない異邦人であっても救われることになりました。そこに福音があります。
 
けれども、ユダヤ人はその新しい事態をなかなか受け止めることが出来なかったようであります。キリストを信じた人でも、割礼も必要だ、律法を守ることも必要だ、と考える人がいて、異邦人も割礼を受けるべきだと主張したのであります。
 しかし、このことはユダヤ人だけの問題ではありません。私たちも信仰以外の他のものに、確かさを求めようとします。「信仰のみ」「キリストのみ」ということでは、何か物足りないような気がして、他のものにも保険をかけるような生き方をしてしまうのであります。信仰以外に、自分で築く信用とか、地位とか、財産とかを頼りにしようとします。信仰も大切だが、人生においては、他にも確保しなければならないものがある。仕事とか家庭とか趣味とか人間関係とか、大切なものがたくさんあるから、信仰だけに人生を賭けるわけにはいかない、と考えてしまうのであります。そして、いつの間にか、信仰が人生のお添え物になってしまうのであります。もちろん、信仰以外に何も要らないというのではありません。しかし、主イエスは、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と言われました。まず第一に求めるべきことは、神の前に義とされること、すなわちイエス・キリストの十字架によって罪の赦しを受けることであります。それは体の割礼を受けるのではなく、心の割礼を受けることであります。そこにこそ、救いの確かさがあるのであります。

2.福音に対する不信からの解放

さて、初代の教会の中に起こった割礼を巡る意見の対立と論争はどのようにして解決されたのでしょうか。そこで行われたことは、私たちの教会の中に起こりがちな意見の対立を解決に導くための指針にもなると思われます。
 
初代教会で行われたことは、アンティオキアの教会からパウロやバルナバたちがエルサレムに出向いて、エルサレムにいる使徒たちや教会で中心的な働きをしていた長老たちと共に、会議を開くということでありました。会議が万能であるとか、会議がもめごとを解決する唯一の手段である、ということではありませんが、この時は会議が行われました。教会の会議というのは、互いに意見を戦わせて、理詰めで勝った意見に従うとか、会議で意見を調整して妥協点を見出すとか、多数決によって結論を出すということではなくて、主の御心がどこにあるかを一緒に尋ね求めるということであります。
 
この個所から、会議に臨む人たちの姿勢とか教会会議のあり方といったことで、学ぶことも多くあると思いますが、今回はそうしたことよりも、このとき起こっていた異邦人の割礼問題を通して、律法と福音という問題、言い換えれば、私たちは何を頼みとするのかということについて、神様の御心をどのように聴き取ったか、ということを中心に見て行きたいと思います。

2−1.恵みの体験から(ペトロの発言)

まず、7節から後にペトロの発言が記録されています。こう言っております。「兄弟たち、ご存知のとおり、ずっと以前に、神はあなたがたの間でわたしをお選びになりました。それは、異邦人が、わたしの口から福音の言葉を聞いて信じるようになるためです。人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさったのです。また、彼らの心を信仰によって清め、わたしたちと彼らとの間に何の差別をもなさいませんでした。それなのに、なぜ今あなたがたは、先祖もわたしたちも負いきれなかった軛を、あの弟子たちの首に懸けて、神を試みようとするのですか。わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです。」711節)この言葉を聞いて、先週の礼拝に来られた方はすぐにお気づきになるのではないかと思いますが、ペトロはあの異邦人の百人隊長であるコルネリウスたちが洗礼を受けるに至った出来事のことを念頭において語っているのであります。ペトロは異邦人伝道ということに必ずしも積極的ではありませんでしたし、旧来の律法を守るということも大切に考えていて、ヤッファの町で幻を見せられ、天から下りて来た大きな布に入っているあらゆる動物を「屠って食べなさい」と言われた時も、律法のことが気になって、「汚れた物は何一つ食べたことがありません」と答えてしまいました。しかし、天からの声は、「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」と語ったのでありました。一方、コルネリウスの方にも神様が幻でペトロを招くように言われて、結局、ペトロはカイサリアまで出掛けて、律法で交際が禁じられていた異邦人のコルネリウスたちに福音を語り、彼らに聖霊が降って、洗礼を授けることになったのでありました。ペトロは明らかにこの体験を念頭に置きながら、神様が全てのことを導かれたことを語っているのであります。自分がコルネリウスのところに遣わされるために選ばれたのも、異邦人が福音を聞いて受け入れるために、聖霊を与えて心の準備をなさったのも、神様がなさったことであったし、神様が異邦人を救われるために、何の条件も課せられなかった、という体験を基にして語っているのであります。ペトロは自分の主義主張を語っているのではありません。神様がすでに異邦人に対して進めておられる救いの事実を語っているのであります。神の御心がどこにあるかということを、神の恵みの事実を基にして語っているのであります。神様は律法を越えておられます。神様は、先週も聴きましたように、人を分け隔てなさいません。全ての人は主イエスの十字架の恵みによって救われるのであって、それは異邦人も同じことであります。
 
10節で、「それなのに、なぜ今あなたがたは、先祖もわたしたちも負いきれなかった軛を、あの弟子たちの首に懸けて、神を試みようとするのですか」と問いかけています。「神を試みる」というのは、<神の導きに従うのを拒む>という意味です。神様が進めておられる御業に逆らうことになるのではないか、と問うているのです。私たちがキリストの福音以外のものに安らぎを求めたり、人間の知恵や地上の富や人の行ないを拠り所とすることは、「神を試みる」ことになるということであります。神様はすでに私たちを目指して、救いの業を進めておられるのですから、それに身を委ねるべきなのであります。
 
このあと12節を見ると、アンティオキア教会から来た、パウロとバルナバも、自分たちを通して神が異邦人の間で行われた、あらゆるしるしと不思議について話したと書かれています。彼らも既に神様が進めておられる救いの業について語ったのであります。救いの福音は私たちが信じるとか信じないとかを議論するまえに、事実となって私たちの身の回りでも、起こりつつあるのであります。私たちはそのことに目を開かなければなりません。

2−2.聖書の言葉から(ヤコブの発言)

次に、ヤコブが話し始めました。ヤコブというのは主イエスの弟であります。主イエスの十二弟子ではありませんでしたが、この頃には教会の中の重要な立場にありました。でも、立場が重要だから、その発言が重要だということではありません。ヤコブの発言は、教会において大事な判断をする場合に忘れてならないことを示しています。そのことは私たち個人の信仰生活においても忘れてならないことであります。
 
ヤコブは14節で、「神が初めに心を配られ、異邦人の中から御自分の名を信じる民を選び出そうとなさった次第についてはシメオンが話してくれました」と切り出しています。シメオンとはシモン・ペトロのことであります。ここでも、異邦人の救いが神の御心によって行われていることが強調されています。そして、それに続いてヤコブが示した大事なことは、15節で「預言者たちの言ったことも、これと一致しています」と言って、16節から18節にある預言者アモスの言葉を引用したことであります。つまり、物事の重要な判断の根拠を、聖書の言葉に求めているという点が大切であります。
 
アモス書の元々の意味は、<バビロンによって滅ぼされたダビデ王家が回復して、昔、ダビデ王国に属していた領土を所有するようになる>という預言でありました。しかし、ここではその預言を、<ダビデの子孫であるキリストが、破壊されたエルサレム神殿に代わって、キリストの教会を建て直されて、新しいイスラエルの民が再編成され、そこには、ユダヤ人だけではなく、主を求める異邦人も礼拝するようになる>という意味で引用しているのであります。そこには、ヤコブなりの解釈がありますが、勝手な拡大解釈ではなくて、事実として起こっていることに基ずく解釈であります。聖書から神様の御心を聴き取っているのであります。私たちは救いの御業についても、自分のわずかの経験や自分の乏しい知識を基にして判断をしがちであります。しかし、大切なことは、御言葉に耳を傾けるということであります。御言葉は私たちが考えるよりも前に、私たちのことを見通しながら、私たちに向けて語られています。それを聞き漏らしたり、耳を塞いだのでは、福音を聴き落とすことになってしまいます。
 
このあと20節以下では、ヤコブが、ユダヤ人が躓かないための配慮として、律法に基ずくいくつかの条件を提示しています。このことについては、今日は触れないでおきます。

2−3.壁を越えて――福音を頼みとする

さて、こうして教会会議は、異邦人には割礼という重荷を負わせないことを決めたのであります。これは、救いは律法によるのではなく、イエス・キリストの十字架の福音によるのだということを確認することであり、キリスト教がユダヤ教の歴史を受け継ぎながらも、それとは一線を画す教えを確立したことを意味することになります。そして、キリスト教が、ユダヤ人の民族宗教という壁を越えて、全ての人々に開かれた、世界宗教への道を歩み出すことになるのであります。
 
この出来事の意味は、大きく歴史的に見ればそういうことなのですが、私たち一人ひとりの信仰生活にとっても、大きな意味を持っています。私たちの生活の中には、様々な規範があり、私たちはそれらによって、ある意味では守られながら、しかし、ある意味では縛られながら歩んでいるのであります。それはユダヤ人にとって律法がそうであったのと同じであります。けれども、そこには本当の意味での自由がありません。なぜなら、私たちには罪があるからであります。造り主なる神様の御心に背いているところでは、真の自由はありません。そこから自分の力で解放されることは出来ません。私たちは、なおも古い規範や、習慣や、科学や道徳といった一見頼りになりそうなものに囚われています。そこから私たちを解放して、真の自由を得るためには、キリストによる罪からの救いの御業が必要でありました。神様はその救いの御業を、特別な民族とか、特別に能力のある人とか、特別に律法をよく守る人にだけ及ぼそうとされるのではなくて、全ての人に分け隔てなく与えようとされているのであります。私たちはもはや、人間が作り出した様々な規範に縛られることはありませんし、今自分を縛り付けている様々な困難な状況に囚われる必要はありません。神様がイエス・キリストを通して、また聖霊の働きによって、私たちに働きかけようとしておられることは、サタンと罪の縛りから私たちを解放されることであります。私たちはキリストの福音を信頼して身を委ねるならば、真の自由へと解放されて、希望に満ちた広い世界へと歩み出すことが出来るのであります。

結.恵みによって

今日の聖書の個所から聴き取って来ましたように、教会を一致へと導くもの、そして、私たち一人ひとりを救うのは、私たちが何らかの掟を守ったり、この世で大切と考えられているものに頼ることではなくて、11節にあるように、<主イエスの恵み>であります。私たちを罪から解放して自由にする、主イエスの恵みによって救われるのであります。それは、私たちが何のルールも規範もなしに自由に振舞ってよいということではありませんが、主イエスが福音書で言われているように、<主の軛は負いやすい>のであります。それは、主が私たちと共に担って下さるからであります。こうして、<主の恵によって>私たち異邦人も、価なしに救いの世界に導かれたことを、心から感謝して、これからも御言葉に耳を傾けつつ、主に従って行く人生を歩みたいと思います。
 
祈りましょう。

祈  り

恵み深い父なる神様!
 
あなたの選びと召しによって、救いに入れられたことを感謝いたします。どうか、私たちの人生が、また私たちの日常生活が、主の恵みから逸れることがありませんように。また、私たちの伝道所の歩みがあなたによって敷かれた福音の道筋から逸れることがありませんように、絶えず、御言葉によって、恵みの御業の下に立ち帰らせて下さい。どうか、躓いている者、あなたを見失っている者を憐れんで下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>       2011年7月24日  山本 清牧師 

 聖  書:使徒言行録15:1−21
 説教題:「異邦人にも聖霊を」
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