「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。」(使徒言行録103435

 使徒言行録10章には、異邦人であるローマ兵の百人隊長コルネリウスがイエス・キリストの名による洗礼を受けるに至った経緯が記されているが、そこには、コルネリウスに対してだけでなく、彼に福音を伝えたペトロに対しても神の働きかけがあったことが記されている。
 
コルネリウスは、異邦人でありながら、信仰あつく、神を畏れ、絶えず神に祈っていた人であるが、神は彼に幻で天使を送り、ヤッファに滞在中のペトロに部下を送って、カイサリアに招くように命じられた。
 
一方、ペトロは、ヤッファの革なめし職人シモンの家の屋上で、あらゆる動物が入った大きな布がつるされて下りて来る幻を見せられ、それを「屠って食べなさい」という声がして、ペトロが「とんでもないことです。汚れた物は何一つ食べたことがありません」と断ると、「神が清めた物を清くないなどと、言ってはならない」との声が聞こえた。
 
しばらくすると、コルネリウスから遣わされた人たちが到着した。ペトロがなおも幻について考え込んでいると、聖霊が、迎えに来た人と一緒に出発するように促す。客を迎え入れると、コルネリウスに天使が告げた次第を説明する。こうして、ペトロは幻で見たことの意味が、異邦人にも福音を伝えよということだと理解し始める。ここにペトロの回心があった。
 伝道は福音を伝えて回心に導くことであるが、その前に、伝道をする側での回心(課題の克服)が必要とされる。私たちは、伝道の相手が福音に相応しいかどうか勝手に判断して、躊躇していないだろうか。また、自分自身に対して、クリスチャンになる資格がないとか、神との関係に一定の距離を保とうとしたりする。そこには全てを献げきれない自分がある。だが、神はコルネリウスとペトロの双方に働きかけられたように、私たちの間にある壁、私たちの中にある壁を乗り越えさせて下さる。それは、博愛主義や人権思想によるのではなく、主イエス御自身が人を分け隔てせず、「方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされた」(1038)ように、神は人を分け隔てなさらないからである。コルネリウスは言う。「今わたしたちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです」(33)。つまり、御言葉(福音)が語られるところには神がおられ、そこでは分け隔てなさらない神の救いの御業が行われるのである。

米子伝道所主日礼拝説教<要 旨> 2011年7月17日  山本 清牧師 

 聖  書:使徒言行録10:1−35
 説教題:「神は人を分け隔てなさらない」
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