序.人は変わり得るか

人が成長するというのは、普通は、その人が持っている素質に、知識とか経験とか習練が加わって、より能力が増すとか人格が向上するということであります。しかし、信仰が成長するという場合には、元々持っているものに何かが加わるとか、元の能力とか資質が改善されるということではなくて、人が神様と出会うことによって新しく造り変えられる・生まれ変わるということであります。
 
ユダヤ議会の議員でありましたニコデモという人が、イエス様から素晴しい教えを聞くことによって成長できるのではないかと期待して、ある夜イエス様を訪ねて来ました。ところが、イエス様はいきなり、「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」とおっしゃったことが、ヨハネ福音書の3章に書かれています。驚いたニコデモが、「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」と言いますと、イエス様は、「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」とおっしゃいました。信仰が成長するということは、生れ変わることなのであります。
 
教会というところは、そのような生れ変わりが起こるところであります。礼拝において御言葉を聴くときに、私たちは新しく造り変えられて、生れ変わるのであります。それは、気分が新しくなるとか、これまでより少し生き方が上達するというようなことではなくて、生き方の方向転換が起こるということであります。それは、信仰に入った時に起こることでありますが、一度生れ変わったら、あとは少しずつ成長するだけというのではなくて、信仰の生活の中では、何度も生れ変わらされ、方向転換をさせられるのであります。
 今日与えられております使徒言行録10章にはコルネリウスというローマ兵の百人隊長がイエス・キリストの福音に接して、洗礼を受けた出来事が書かれていて、これは、先週聴いたエチオピアの宦官が洗礼を受けた事に続いて、異邦人がキリスト教の信仰に入った出来事であります。そこには、コルネリウスがどのように生れ変わったのかということは、あまり書かれていないのでありますが、むしろ、コルネリウスを信仰に導いたペトロが、この一件を通して大きく変えられたことが書かれているのであります。ペトロという人は、5月の黙想ワークショップでも学びましたように、主イエスに出会って、魚を獲る漁師から人間を獲る漁師へと大きく人生の方向転換をした人ですが、その後、主イエスの十字架を前にして裏切ってしまうのですが、復活の主イエスに出会って、赦されて、再び人間を獲る漁師へと生れ変わらされた弟子であります。そのペトロが、ここでもまた、大きな方向転換をするのであります。
 
今日は、ここに書かれている出来事を通して、特に、ペトロがどのように変えられたのかということに着目しながら、私たちも生れ変わり得るのか、どのようにして、私たちが生れ変わって信仰の成長を遂げることが出来るのか、ということを見て行きたいと思うのであります。
 

1.天使と“霊”の介入

さて、コルネリウスという人は、ローマ軍隊の「イタリア隊」と呼ばれる部隊の百人隊長で、カイサリアに住んでいましたが、信仰あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた、と書かれています。つまり、異邦人でありながら、ユダヤ教の信仰を持っていて、それも、興味本位でユダヤ教に接近していたというのではなくて、真剣に、自分の生活をかけて信仰していたようであります。ある日のこと、神の天使がコルネリウスのところに幻で現れて、「コルネリウス」と呼びかけました。彼は怖くなって、「主よ、何でしょうか」と言うと、天使は、「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた。今、ヤッファへ人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。その人は、革なめし職人シモンという人の客になっている。シモンの家は海岸にある」と告げました。するとコルネリウスは、すぐさま二人の召し使いと、側近の部下で信仰心のあつい一人の兵士をヤッファに送ったのであります。――ここで、カイサリアとヤッファの位置関係を地図で確認しておきましょう(「6.新約時代のパレスチナ」参照)。いずれも地中海に面する町で、約50キロ離れていましたが、一日の旅で行ける距離にありました。しかし、二つの町には大きな違いがありました。ヤッファは古い港町で、イスラエルの歴史の中にもしばしば登場いたします。一方、カイサリアは新しい町で、ヘロデ大王がローマ帝国の後ろ盾で築いた新しい港湾都市で、ローマによるユダヤ支配の要となる町で、総督と軍隊が駐屯していました。つまり、ユダヤ人と異邦人の隔たりを象徴するような二つの町であったのであります。その隔たりを埋めるために、まず神様がなさったことは、カイサリアにいる異邦人のコルネリウスに天使を送って、幻を通して、ヤッファにいるユダヤ人のペトロを招くように命じられたことでありました。
 
さて、もう一方のペトロと呼ばれるシモンの方は、ヤッファの町で、革なめし職人のシモンという人の家に滞在していました。革なめしという職業は、当時のユダヤ人の間ではいやしいものとされていました。けれどもペトロはそのような差別意識は乗り越えていたので、シモンの家に滞在していたのだと思われますが、異邦人の救いということについては、まだ迷いがあったのではないかと考えられます。
 コルネリウスが部下をヤッファへ送り出した日の翌日、ペトロは、昼の12時頃に祈るために屋上に上がりました。そこでペトロは夢うつつのうちに、不思議な幻を見ました。10節以下には、こう書かれています。彼は空腹を覚え、何か食べたいと思った。人々が食事の準備をしているうちに、ペトロは我を忘れたようになり、天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来るのを見た。その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。そして、「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」という声がした。1013)――旧約聖書の律法によると、清い動物と汚れた動物、清い鳥と汚れた鳥を区別しなければならない、とされていますし(レビ2022以下)、動物のうち、食べてよいのは、ひづめが分かれ、かつ反芻するものに限るとか、魚類ではひれやうろこのないものは汚らわしいといったことが細かく規定されています。なぜ、そのような規定が設けられたかというと、イスラエルの民が周りの異邦人たちのように偶像礼拝に陥らないために、食生活をはっきり区別することによって、生活習慣のレベルで混じらないようにという、神様の配慮でありました。ところが、ペトロが幻で見た大きな布の入れ物には、律法で清いとされている動物も、汚れているとして食べることが禁じられている動物も混じっているのであります。それを一緒に「屠って食べなさい」と言われたのであります。しかしそれは、ユダヤ人として抵抗のあることでした。ペトロは、「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません」(14)と断ります。すると、また声が聞こえて、「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」(15)とたしなめられました。そして、こういうことが三度もあったというのです。
 
17節を見ると、ペトロが、今見た幻はいったい何だろうかと、ひとりで思案に暮れていたと書かれています。ペトロは、律法による清い食べ物と汚れた食べ物を一緒に食べなさいと言われたことの意味を思い巡らせながら、おそらく、清くない異邦人も救いの対象になるのだろうか、というようなことを考えさせられていたのではないでしょうか。コルネリウスに幻をもって働きかけた神様は、ペトロにも、この幻によって、コルネリウスから差し向けられた使いを迎える備えをさせておられるのであります。

2.福音を伝える側の変化――変えられたペトロ

ペトロが思案に暮れていると、コルネリウスから差し向けられた人々が到着しました。ペトロがなおも幻について考え込んでいると、“霊”がこう言いました。「三人の者があなたを探しに来ている。立って下に行き、ためらわないで一緒に出発しなさい。わたしがあの者たちをよこしたのだ」。――聖霊にこう言われて、ペトロは何が起こっているのか良く分からないまま、階下に下りて、三人の客を出迎えました。彼らはコルネリウスのことを紹介した上で、天使からあった御告げのことを伝えます。「あなたを家に招いて話を聞くようにと、聖なる天使からお告げを受けたのです」(22)と言っております。ここで「話」とは、主イエス・キリストのこと、福音のことであります。ここまで聞いて、ペトロも幻で見たことの意味は、コルネリウスという異邦人にも福音を伝えよということだということが、次第に分かって来たのではないでしょうか。後は、そのことを受け入れて実行するかどうかです。パウロは大きな決断を迫られましたが、聖霊が「ためらわないで一緒に出発しなさい」と言った言葉に従って、翌日、ペトロは迎えに来た人たちと共に、コルネリウスのところへ出かけました。ここにペトロの回心がありました。異邦人のところへ飛び込んで、交わりをし、福音を宣べ伝える決心へと導かれたのであります。
 
一行がカイサリアに到着すると、コルネリウスは親類や親しい友人を呼び集めて待っていました。どれほど大きな期待をもって待っていたかが伺えます。ペトロが着くと、コルネリウスが迎えに出て、足もとにひれ伏して拝んだ、と書かれています。コルネリウスはペトロの働きについて耳にしていたので、尊敬の念をもって、こうしたのでしょうが、これは明らかに行き過ぎです。福音を伝える者には敬意を払わねばなりませんが、神に近い者のように扱ったり、拝んだりするのは間違いです。ペトロは彼を起こして、「お立ちください。わたしもただの人間です」と言いました。ペトロも特別な人間ではありません。弱い、間違いやすい人間でありましたが、神様に用いられて、神様の御用をしているだけであります。普通の人間が、神様に用いられることによって、そこに救いの奇跡が起こり、伝道が進展するのです。
 
さて、28節から29節のペトロの言葉は、ペトロが招かれた経緯を語っているだけですが、ここに、幻で示されたことの意味がはっきりと語られています。「あなたがたもご存知のとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました。それで、お招きを受けたとき、すぐ来たのです。」――もはや、ペトロにも迷いはありません。異邦人伝道といえば、パウロの専売特許のように思われ勝ちですが、このようにしてペトロが先鞭を切ることになるのであります。しかしそれは、ペトロの功績というよりは、ここまで見て来たように、神様が天使を通し、またコルネリウスとペトロの双方に幻を与えて、導かれた結果でありました。
 
この物語から私たちが学ばねばならないことは、単に異邦人への伝道の問題ではありません。誰が救われるのかということについて、私たちの中にある差別意識の克服の問題であります。
 
伝道というのは、相手に福音を伝えて、信仰へ導くこと、相手に回心を起こさせることでありますが、その前に、伝道をする側での回心と言うか、乗り越えるべき課題を克服しなければならないことが往々にしてあります。福音を伝える側で可能性を判断したり、躊躇していては、伝道は進みません。しかし、私たちは勝手に伝道の相手を選んだり、こんな人は福音に相応しくないとか、福音を受け入れる筈がないなどと、勝手に決めてしまい勝ちであります。けれども、ペトロが辿り着いた結論のように、「どんな人をも清くない者とか、汚れている者と言ってはならない」のであります。この人は救われる資格がないなどと決め付けてはならないのです。
 
こういうことは、他人に対してだけではなくて、自分自身に対しても言えることであります。自分はクリスチャンになる資格がないとか、自分が置かれている環境や状況からして、信者にはなれない、と決め込んでしまう人があります。信仰告白して信者になっても、私たちは神様との関係に一定の距離を保とうとし勝ちであります。自分のこの世での立場を乱さないためには、教会との関係はここまでにしておこうとか、自分の今の生活のペースを考えると、教会生活はこの程度にしておこう、などと考えてしまうのではないでしょうか。私たちは自分の領域をまず確保して、余った部分を神様に献げているということはないでしょうか。私たちの中には、キリストに仕えたい、教会のために仕えなければならない、という思いと同時に、全てをキリストに献げ切れない自分があることを思わざるを得ないのであります。神様と私たちとの間に立てている壁があるのであります。これは、ユダヤ人と異邦人との間に立てられていた壁と同様に、なかなか越え難い壁であります。自分の方からは突き崩せない壁であります。しかし、神様は、この物語でペトロを導かれたように、様々な手段を用いて事態を進められます。そして、ためらいがちな私たちも、立ち上がらざるを得ないような状況に追い込んで下さるのであります。

3.神は人を分け隔てなさらない――罪人の友イエス

このあと、34,35節では、ペトロが口を開いてこう言っております。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。」――「神は人を分け隔てなさらない」というのが、ここまでの神様の導きを経験したペトロの結論であります。救われるかどうか、神の国に入れるかどうかは、人間の判断にはよりません。神様が受け入れて下さるかどうかに関わります。ペトロは更に、「神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです」と言っております。これはどういうことを言っているのでしょうか。102節には、コルネリウスのことが紹介されていましたが、彼は「信仰あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた」と紹介されています。コルネリウスはまだキリストを信じていたわけではありませんが、ユダヤ教の信仰を与えられて、神様を信じていました。そして、律法に従って、施しをしたり、絶えず神に祈っていたことを、ペトロはここで「正しいことを行う人」と言っているのでありましょう。しかしこれは、施しをしたり、絶えず祈っていた行いが評価されて、神様に受け入れられた、という意味ではないでしょう。コルネリウスが神を畏れる人であり、神に自分自身も家族をも委ねる信仰を持っていたことが、神様に受け入れられたのであります。施しや祈りは、神様に全てを献げる信仰から自然に出て来る事柄であります。素直に神様に委ねる信仰があれば、たとえ異邦人であれ、その人の人柄や環境がどうであれ、神様は受け入れて下さる、ということであります。
 
ところで、「神は人を分け隔てなさらない」とか「神を畏れる信仰を持っている人は誰でも神様に受け入れられる」ということは、このコルネリウスが救われた出来事によって初めて示されたことではありません。この後に続く36節以下で、ペトロがイエス・キリストのことをコルネリウスの家の人々に証しした言葉が記されています。38節には、「イエスは方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされた」と語られています。主は、悪魔の虜になっている人、人々から罪人とされている人の友となって、救われたのであります。この主イエスの御業こそ、神が人を分け隔てされないお方であることを示す根拠であります。神様が人を分け隔てなさらないのは、博愛主義や人権思想から来るのではありません。神様が主イエス・キリストの御業を通して、どんなに問題のある人も含めて、すべての人を罪から救い出されたからこそ、神様が人を分け隔てなさらないお方であることが分かるのであります。

結.神の御前における出会い

では、私たちはどのようにして、人を分け隔てせずに愛し、福音を共有できるようになれるのでしょうか。それは今日の物語で明らかであります。神様が主導して、コルネリウスに天使を送って、ヤッファにいるペトロをお招きになり、ペトロにも幻を見せて、律法の呪縛から解放されました。その結果、ペトロは異邦人のコルネリウスのところへも、躊躇なく行くことが出来ました。そして、33節後半でコルネリウスが語っている言葉を見て下さい。「今わたしたちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです。」――コルネリウスとペトロとの出会いは、単なるユダヤ人と異邦人の出会いではありません。「主があなたにお命じになったこと」とは、神の言葉(福音)を聞くために二人が出会うことであります。そのために二人は今、神の前にいるのであります。そこに神様が御臨在なさるのであります。御言葉が語られるところに神様がおられるのであります。ここで行われていることは、礼拝であると言ってよいでしょう。礼拝とは、神様の御言葉(福音)を聞くために御前に集められることです。そして、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ1820)と主イエスはおっしゃいました。御言葉を聞くための出会いには、主が真ん中に立っていて下さいます。その出会いから新しい救いの道が開けて来るのであります。私たちの礼拝も、そのような神様の御前における新しい出会いの場であります。ここでこそ、分け隔てをなさらない神様の救いの御業が行われるのであります。
 
祈りましょう。

祈  り

憐れみに富み給う父なる神様!
 
あなたのお招きによって、今日も御前に出て、御言葉に与ることが出来ましたことを感謝いたします。私たちがここに導かれるために、あなたの分け隔てのない導きが一人一人にあったことを思います。
 
どうかまた、新しい出会いを起こして下さい。そのために、私たちの中にある分け隔てが障害になっているのでありますならば、それを取り除いて下さい。私たち自身があなたとの間や他の人との間に壁を作っているようでしたら、その壁を打ち砕いて下さい。どうか、私たちを囚われから解放して下さり、真の自由の福音のもとで、私たちの間に真実な出会いを次々と起こして下さい。どうか、私たちを生れ変わらせて下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>       2011年7月17日  山本 清牧師 

 聖  書:使徒言行録10:1−35
 説教題:「神は人を分け隔てなさらない」
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