序.信仰へと導くのは誰?

今、朗読していただいた使徒言行録826節以下には、初代の教会が実際に一人の人に対して行なった福音伝道の働きの事例が記されています。2000年のキリスト教会の歴史の中では、大きな出来事、例えば、ニカイア信条を決めた教会会議とか、マルチン・ルターがヴィッテンベルクの城教会の扉に95か条の提言を掲げたことから始まった宗教改革といった、歴史に残る大きな出来事もありますが、一方では、ここに記されているような、一人一人に対して福音が語られるという地道な伝道の活動の積み重ねがあったからこそ、各地に信仰者が起こされ、教会が建てられ、救いの御業が世界に広がって来たのであります。ここに記されているようなことは、私たちの身の回りでも起こり得ることであり、私たち自身が信仰に入る場合に起こることも、根本的には、ここに書かれていることと違ったことが行なわれるのではありませんし、この伝道所が行なう伝道活動の基本も、ここに描かれている出来事によって示されていることと同じなのではないかと思います。

この箇所に書かれている事から、私たちにとっても有益な教訓なりメッセージをたくさん聴き取ることが出来るかと思いますが、特に、この出来事の背後にあって、事柄を動かしているものに目を止めて行きたいと思います。――そこまで申し上げると、賢明な皆様は、今日の説教題を見ながら、その結論が「聖霊の手引き」にあるということを語ろうとしているのだなと、お察しであろうと思います。その通りであります。今日は、ここに書かれている出来事の背後にある、「聖霊の手引き」を確認しつつ、私たちが求道者として信仰へと導かれる時も、また、信仰者として人を信仰に導く伝道の働きをする時も、そこには聖霊の導きが欠かせないし、聖霊の働きによってこそ、私たちの思いを超えたことが起こるのだということを確認したいと思うのであります。

1.寂しい道をすぐに――天使の指示に従って

さて、今日登場する人物のフィリポというのは、先週聴きました6章で、日々の分配の奉仕に当るために選ばれた七人のうちの一人であります。その後、教会に対する迫害が起こって、七人の一人のステファノが殉教の死を遂げたのですが、そのことが契機となって、使徒以外の多くの信者はエルサレムにおれなくなって、地方へ散って行くのであります。8章の5節を読みますと、フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えたようであります。サマリア地方の人々とユダヤ人との間には歴史的に確執がありましたが、フィリポは敢えてそのような所に出かけて行って、福音を宣べ伝えたのです。
 サマリアでのフィリポの活動は8章6節から13節に書いてありますが、汚れた霊に取りつかれた人を癒したりしたことで、福音が受け入れられるようになって、男も女も続々と洗礼を受けて、伝道は大いに進展したようであります。
 ところが、今日の26節を見ていただきますと、主の天使がフィリポに、「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け」と言ったのであります。フィリポはエルサレムの北方の地域に当るサマリアで活動して、そこで成功していたのに、今度はエルサレムの南西の方のガザへ行くように命じられたのです。全く予想していなかった方向だったでしょう。26節の最後には、そこは寂しい道である、と書かれています。古いガザという町は紀元前57年にローマの手によって滅ぼされて、荒れ果てていました。そんな所へなぜ行かなければならないのか、という疑問が湧いてくるような天使の命令です。このように、神様の御心は、しばしば私たちの「想定外」で、人間の思いを超えたところにあります。しかし、27節を見ますと、フィリポはすぐ出かけて行ったのであります。これは、かつて信仰の父と言われるアブラハムが、神様から「わたしが示す地に行きなさい」と言われて、行く先も知らずに、「主の言葉に従って旅立った」(124)ことを思い起こさせます。フィリポも自分の判断ではなく、主の御言葉に従って出かけました。私たちが伝道を考える時には、人口が多い所とか、これから伸びそうな地域を考えます。伝道集会のチラシを配るにしても、そういう地区を重点的に選びます。また、伝道集会にお誘いするような場合でも、その人の家庭環境や人柄などを考えて、来てもらえそうな人、キリスト教に抵抗がなさそうな人に声をかけます。けれども、神様のお考えとは違うかもしれません。フィリポも、「なぜそんな所に?」という思いがよぎったかもしれませんが、自分の判断で動くのではなく、天使の御指示に従って、直ちに行動を起こしました。そこには、聖霊が働いていたと言ってよいでしょう。

2.追いかけ、走り寄る――霊の指示に従って

フィリポが「ガザへ下る道」に出かけて行くと、折から、エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産を管理していたエチオピア人の宦官が、エルサレムに礼拝に来て、帰る途中でありました。この人のことについて、ここに書いてある以上の詳しいことは分かりませんが、このように異邦人であってもユダヤ教を信じる人はいたようで、そういう人は「神を敬う人」と呼ばれていました。この人は去勢した宦官ですから、申命記(232)の規程に従えば、主の会衆に加わることが禁じられていました。つまり、ユダヤ人と一緒に礼拝することが出来なかった筈であります。しかし、わざわざエルサレムまでやって来て、何らかの形で礼拝をして帰る途中でありました。彼は馬車に乗っていたとありますから、かなり高い地位にある人だったと考えられます。その人が預言者イザヤの書を朗読していました。当時は今のように印刷して製本した聖書はなくて、巻物に手書きしたものですから、相当高価なものであったと思われます。そんなものを購入して、熱心に読んでいたのですから、造り主なる神様に対して相当敬虔な思いをもっていたことが伺えるわけです。
 そのエチオピアの宦官の乗った馬車を見かけたフィリポに対して、29節によると、“霊”が語りかけて、「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」と言いました。この時点では、フィリポには、なぜこの馬車を追いかけるのか、理由は示されていません。この高官が聖書を読んでいることも知らなかったでしょう。しかし、フィリポは“霊”の語りかけに従って、馬車を追いかけます。ここにも聖霊の働きかけがあったと言わざるを得ません。おそらく後日フィリポが、「あの時は、よく分からなかったけれど、聖霊に押し出されるようにして、追いかけたのだよ」と人々に語ったので、このように記録されたのでしょう。

3.聖書を説きおこす――十字架の主を証しする

フィリポが走り寄ると、預言者の書を朗読しているのが聞こえました。当時の読者は、ほとんど例外なく大きな声を出して読んだと言います。フィリポには、その声を聞いただけで、それがイザヤ書であることが分かったのでしょう。フィリポはそれで、神様の御意図は、<この人に福音を告げよ>ということなのだと、半分納得できたように思えたかもしれませんが、顔を見ると、多分黒い顔をしていて、見るからに異邦人であります。<このような人に福音が通じるだろうか>という疑問もよぎったかもしれません。
 しかし、ともかくすぐに、「読んでいることがお分かりになりますか」と声をかけました。聖書というのは、知識的に理解できれば、その意味が分かるというものではありません。イスラエルの長い伝統の上に根ざした読み方があります。まして、キリストを信じるフィリポにすれば、福音的な旧約聖書の理解の仕方は、従来のユダヤ人の読み方とは違っていると考えていた筈ですから、ここで是非とも福音的な読み方を伝えなければならない、と思ったことでしょう。宦官の方も、「手引きしてくれる人がんければ、どうして分かりましょう」と言い、馬車に乗ってそばに座るようにフィリポに頼んだのです。聖書は自分流に読んで正しく理解できるものではありません。エチオピアでは、聖書について教えてくれる人もいなかったでしょう。エルサレムに来て、ラビたちの指導も受けたかもしれません。それでも、分からないことがいっぱいあったとしても、当然です。
 宦官が読んでいたのは、ちょうどイザヤ書の中の「苦難の僕の歌」と言われている箇所でありました。先ほど朗読していただいた旧約聖書の箇所であります。ここは、キリスト教の立場、つまり福音的な理解では、十字架のイエス・キリストを指し示していると解釈する箇所であります。
 34節を見ると、宦官はフィリポに、「どうぞ教えてください。預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか」と質問しています。この箇所は旧約の時代から、イザヤ自身の苦難のことを言っているのだろうかとか、イスラエル民族の苦難の歴史のことを表わしているのだろうかとか、やがて来るべきメシアのことを語っているのだろうかという議論がありました。しかし、フィリポは、<待っていました>とばかりに、口を開き、聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた、のであります。この中の「羊のように屠り場に引かれて行った」と言われている方こそ、十字架に架けられたイエス・キリストのことだという所から説き起こして、罪の赦しの福音の真髄を語ったことでしょう。私たちは、イエス様が「聖書はわたしについて証しするものだ」(ヨハネ539)と言われたことを知っております。旧約聖書全体は、救い主メシアであるイエス・キリストを指し示しているというのが、キリスト教会の理解であります。ユダヤ教の人たちは、そうは考えませんでした。だから、イエス様を十字架に架けてしまいました。しかし、その十字架に架けられたお方こそ、あの「苦難の僕」として預言されていた救い主であるというのが、十字架と復活の経験をした初代教会の人々の理解であり、私たちの理解であります。フィリポは、その理解を真正面に宦官にぶっつけて、福音を語ったのであります。
 福音を語るということ、即ち、伝道するということは、このことを語るということに尽きます。私たちは聖書の中から様々なことを学ぶことが出来ます。生活の知恵や人生の歩み方についての教訓も沢山あります。慰めを与えてくれたり、力づけてもらえるところもいっぱいあります。座右の書としても素晴しいものです。しかし、そのような聖書も、もし、主イエスの十字架の意味という、最も肝心なところが抜けた読み方をしていたなら、福音の本質を掴んだことになりませんし、真の救いにも、本当の慰めにもなりませんし、永遠の命を得ることにもつながりません。フィリポは、イザヤ書の苦難の僕の預言から説き起こして、主イエスについての福音の真髄を語ることが出来ました。ヨハネによる福音書では、イエス様がこう語っておられます。「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(ヨハネ1426)。――フィリポがエチオピア人の宦官に出会って、最初にイザヤ書の苦難の僕の個所に示されて、そこからイエス・キリストを語るように導かれたのも、やはり、聖霊が思い出させて下さり、聖霊の手引があったからでありましょう。

4.洗礼に妨げなし――異邦人宦官の受洗

36節を見ると、道を進んで行くうちに、彼らは水のある所に来た、とあって、宦官は言います。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」この「何か妨げがあるでしょうか」という言い方は、何かぎこちない印象を受けますが、これは初代教会の洗礼式で、「この人が洗礼を受けることに、何か妨げがありますか」と質問した式文の断片であろうと言われています。もちろん、この宦官がそういう言葉を知っている筈はありませんが、多分、<十字架の救いを受け入れることが出来て、イエス・キリストを信じているなら、洗礼を授けていただくのに、何の妨げもありませんね>という意味のことを語ったのを、筆者は洗礼の儀式の言葉を用いてこのように表現したのでしょう。来週聞きます10章ではコルネリウスという異邦人が洗礼を受けることになった経緯が書かれていますが、その最後の部分の44節以下を見ていただきますと、こんなことが書いてあります。「ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた。異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを、聞いたからである。そこでペトロは、『わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか』と言った。そして、イエス・キリストの名によって洗礼を受けるようにと、その人たちに命じた」(使徒104448)。――ここには、異邦人にも聖霊が働いて、洗礼に導かれたということがはっきりと述べられています。これと同じように、異邦人であるエチオピアの宦官も聖霊の働きによって、洗礼に導かれたと言って、差し支えないでしょう。こうして、車を止めさせて、フィリポと宦官は二人とも水の中に入って行き、フィリポは宦官に洗礼を授けました。おそらく、この宦官が異邦人で最初の受洗者ということになります。

結.聖霊の手引き

39節を見ますと、彼らが水の中から上がると、主の霊がフィリポを連れ去った。宦官はもはやフィリポの姿を見なかったが、喜びあふれて旅を続けた、と書かれています。ここにも、「主の霊がフィリポを連れ去った」とあって、聖霊が働いたことが述べられています。
 振り返りますと、今回の出来事は、天使がフィリポに「ガザへ下る道へ行け」と命じたことから始まって、主の霊がフィリポを連れ去ったことで終わっています。そして、その間にも、“霊”がフィリポに馬車を追いかけるように言いましたし、イザヤの預言についてフィリポが説き明かししたのも、イエス様が仰った言葉から、聖霊の手引きがあったに違いないということを申しましたし、異邦人の宦官に洗礼を授けたのも、聖霊の働きであることが十分に伺えるわけで、終始、聖霊の手引きによる出来事であったと言って間違いないと思われます。
 宦官は姿が見えなくなったフィリポを探すようなことはしなかったようであります。宦官は喜びにあふれて旅を続けたとあります。この喜びは、単にイザヤ書に書いてあることが理解できたというだけのことではなくて、キリストに救われた喜びであります。この後の宦官の人生がどうなったか、聖書には何も記されていません。きっとエチオピアに帰って、福音を独り占めにすることはなかったでしょう。こうして、エルサレムから遠く離れたエチオピアに福音が伝えられたに違いありません。この宦官の働きだけではないでしょうが、その後、キリスト教がエチオピアの地に広まったのは歴史的な事実のようであります。
 ひるがえって、この異教の国であります日本にも、神様の命令を受けて旅立った宣教師たちによって、福音が伝えられ、この山陰の地にも、聖公会の宣教師バックストン等によって伝道が行われたのであります。バックストンが海外伝道協会から派遣されるに当って与えられた任命書には、こう書かれていました。「貴殿の働きは、神の仕事であることを覚えていてもらいたい。聖霊の力による以外は何事も成し得ないのである。読むこと、勧めること、教えることに心を用いてもらいたい。ということは、神聖な命令であって、いかなる理由をもってしても怠ってはならない。しかし、貴殿は人の知恵の教えることばではなく、御霊の教えるところに従って語るべきである」といったことが書かれていました。
 私たち一人ひとりがキリストの福音に出会ったのも、聖霊の働きによりますし、この伝道所の営みを通して、更に福音が宣べ伝えられて行くにも聖霊の働きを欠かすことはできません。聖霊はフィリポに働いたように、私たちにも、思いがけない所、思いがけない人の所へ行くことを命じるかもしれません。聖霊はまた、エチオピアの宦官に働いたように、思いがけない時、思いがけない所で、キリストの福音に出会わせて下さいます。私たちは聖霊の手引きに喜んで従う者であるとき、思いに勝る福音の恵みを受けることが出来るし、また福音の喜びを人に与えることが出来る者となることも出来るのであります。今日は、そのことを改めて確認して、聖霊の手引きを乞い求めたいと思います。
 祈りましょう。

祈  り

父・子・聖霊なる神様!
 この地に福音が伝えられ、教会が建てられ、この小さな伝道所もあなたの宣教の働き・救いの御業の一環に加えられていることを覚え、御名を賛美いたします。
 どうか、聖霊の手引きを受けて、聖書の御言葉に示されたあなたの大いなる救いの御業に与ることが出来ますように。そして、どうか、私たちのような者をも、聖霊の手引きによって、宣教の御業の一端を担い得る者とならせて下さい。
 どうか、求道中の方々が、信仰を告白して洗礼を受けるために、聖霊の豊かな手引きがありますように。礼拝から遠ざかっている方々が御許に立ち返るために、聖霊が働いて下さいますように、お願いいたします。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>       2011年7月10日  山本 清牧師 

 聖  書:使徒言行録8:26−40
 説教題:「聖霊の手引き」
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