序.教会の中の苦情に対処するために

使徒言行録の大切な箇所をカリキュラムに従って飛び飛びに学んでおりますが、今日の箇所は初代の教会の中から出てきた苦情について、どのように対処したかということが書かれている部分であります。
 6章1節を見ますと、そのころ、弟子たちの数が増えてきて、ギリシャ語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た、とあります。冒頭の「そのころ」という言い方は、筆者のルカが時々使う言い方で、教会が新しい展開を示す時に用いています。先々週に学びましたペトロたちが「美しい門」と呼ばれる神殿の門の前で、生まれながら足の不自由な男を立ち上がらせたという出来事を契機として、一方では民衆は驚いてペトロたちの話に耳を傾けるようになったのですが、他方、ユダヤの指導者たちは弟子たちを迫害するようになったのであります。しかし、弟子たち(信者たち)が大胆に御言葉を語り、奇跡の業を行ったので、弟子の数は急速に拡大するのであります。ところが、そのように発展する教会の中で、不祥事や混乱も起こるのであります。5章には、アナニアとサフィラの事件が起こったことが、包み隠さず報告されています。当時の教会は、信者たちが持ち物を持ち寄って共有していたようでありますが、アナニアとサフィラ夫妻は自分たちの土地を売った代金の一部だけを教会に持って来て、全部を差し出したかのように振舞ったのであります。そのことに気付いたペトロはアナニアに、「あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかした」と言うと、アナニアは倒れて息が絶えてしまいます。それを知らずにやって来た妻のサフィラにもペトロが、「二人で示し合わせて、主の霊を試すとは、何としたことか」と言うと、彼女も倒れて、息が絶えてしまいました。こうして、サタンに心を奪われて代金をごまかした二人は、息が絶えるという厳しい裁きを神様から受けて、教会から排除されたのであります。このことで教会の人々は非常に恐れたということが記されています。
 教会というのは、キリストの体であり、神の国を地上において先取りする所でありますが、この世における現実の教会では、人間の罪がもたらす醜い出来事が起こるのであります。地上の教会は、何の問題もない天国のような所ではないのであります。教会の門は全ての人に開かれています。ですから、色々な人が様々な期待を持ってやって来ます。中には信仰ということを弁えずに来て、トラブルを起こす人もいます。信仰を持っている人であっても、間違いを起こしたり、意見が合わずに対立したり、不満がぶつかり合ったりすることがあります。それぞれの教会の歴史を紐解くと、残念なことに殆どの教会で、そうした争いがあったり、分裂した過去を持っているのであります。この米子伝道所の短い歴史の中でも、その経験をしておりますし、今も何の問題もないというわけではありません。
 
今日の箇所には、初代教会において信者の数の増加したことに伴って生じた苦情に対して、教会がどのように対処したかということが記されています。この時に起こったのと同じ問題が私たちの教会に起こるわけではありませんし、その対処方法も、そのまま何処でも何時でも適用出来るものではありませんが、こうした問題が発生した時に、何を大切にし、どのような方向で対処したらよいのかということを、ここから学び取ることが出来るのではないかと思います。

1.苦情の原因――日々の奉仕(ディアコニア)のことで

この時の苦情は、「ギリシャ語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して出た」ものでありました。当時、エルサレムに住んでいるユダヤ人は、日常的にはヘブライ語ではなくてアラム語を用いていました。ヘブライ語は旧約聖書の言葉ですが、日常的には使われなくなっていました。当時の国際語はギリシャ語でありましたが、エルサレム在住の生粋のユダヤ人は、ギリシャ語を知っていても、ギリシャ語を使うことを潔しとはせずに、アラム語を使っていたようであります。ユダヤ人としての誇りがあったのでしょう。「ヘブライ語を話すユダヤ人」というのは、そういう生粋のユダヤ人のことであります。一方、「ギリシャ語を話すユダヤ人」と訳されているのは、「ヘレニスト」という言葉でありまして、これは、外地へ離散していたユダヤ人(ディアスポラという)で、外国育ちですが、老後は聖地エルサレムで過ごそうと、外地から引き揚げて来ていて、そういう人たちは国際語であるギリシャ語を用いていて、アラム語は殆ど理解しなかったようであります。そういうヘレニストの中からも、キリストを信じる人が出て来ていたということです。彼らの多くは老夫婦で移住して来ましたが、夫に先立たれて身寄りのない「やもめ」になる人も多かったのであります。「やもめ」はユダヤの社会では伝統的に大切にされていましたから、キリスト教会でもそういう伝統を引き継いで、世話をしていたのだと思われます。しかし、外国育ちで、言葉が違うということは、生活習慣や文化が違うわけですから、コミュニケーションに欠けるところがあったのかもしれません。それに、信者の人数が増えて来て、サービスが十分に行き届かないというようなことがあって、苦情が発生したと思われます。
 
「日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていた」とありますが、ここの「分配」と訳されている言葉は「ディアコニア」というギリシャ語で、<奉仕>とか<お世話>という意味があります。単に食べ物などの分配だけでなく、日常のあらゆる<お世話>が必要だったのですが、それが行き届かなかった、ということと思われます。大した問題ではないように見えますが、人間の交わりの中では、ちょっとした行き違いや配慮の足りなさから、<無視された>とか、<差別された>とか、<理解されていない>、というように受け取ってしまうことがあります。そういうことは、教会の中でも例外ではありません。教会では、困っている人を助けたり、互いに支え合おうといたします。また、教会の様々の活動のために善意の奉仕をいたします。それぞれ一生懸命に良い事をしようとします。ところが、そこにおいてこそ、人は罪に陥り易いのであります。何をどうするかについて、意見の対立が生じます。また、自分は良い事をしていると思っていますから、それを誇る気持ちが湧いて来て、どうしても傲慢になります。あまり奉仕をしない人を見下したり、批判したりします。一生懸命であればあるほど、自分のしていることが評価されないと不満を抱くようになります。私たちのしていることは、神様が全部見ておられるのですから、人にどう評価されるかは気にしなくてよい筈なのですけれども、残念ながら私たちは、なかなかそうは思えないのであります。
 

2.対処の目的――神の言葉がないがしろにされないため

さて、初代教会は、内部から出て来た苦情に対して、どのように対処したのでしょうか。
 
先ほど触れたアナニアとサフィラの事件では、ペトロが「なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、代金をごまかしたのか」、「主の霊を試すとは、何としたことか」と言って、彼らがサタンに惑わされて聖霊を欺いていることを指摘すると、二人の息が絶えました。これは、ペトロが裁いたというよりも、神様の裁きを受けたということです。二人は教会や神様に反抗しようとしたわけではありません。むしろ、自分の土地を売ってまで、献げ物をしようとした、熱心な信徒であります。しかし、そこにサタンが働いて私欲と偽善が頭をもたげて、人の目を欺こうとしました。けれどもそれは、神様を欺くことであります。神様はそのような罪を裁かれたのであります。教会にはこのような裁きが必要なことがあります。ただし、注意しなければならないのは、人間の判断には、自分にとって不利益だとか、気に入らないといったことが入り込みがちです。人間の判断にサタンが働いてしまいます。ですから、何が真実かということを明らかにした上で、裁きは神様に委ねるべきであります。
 
では、今度の「日々の分配」のことに関する苦情については、教会はどう対処したのでしょうか。分配の奉仕に携わった人のミスや配慮のなさを糾弾したでしょうか。あるいは、苦情に対して言い訳をしたでしょうか。そういうこともしたかもしれませんが、そういう後ろ向きなことに終始しませんでした。24節を見ますと、こう書かれています。そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」――ここで、「十二人」と書かれているのは十二使徒のことです。そして「弟子」と書かれているのは、イエス様を信じる人たちのことで、その全てが招集されました。つまり、教会総会のようなことをしたと思われます。そこで提案されたことは、教会の組織化、あるいは役割分担と言えるようなことであります。教会が拡大して行く時には、このような組織改革が必要であります。しかし、ここで注目しなければならないことは、組織化をしたこと自体よりも、何のために組織化するか、ということと、どのような人を奉仕の仕事に当らせるかということです。
 
まず、何のためかというと、「神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない」ので、「祈りと御言葉の奉仕に専念する」ためであります。教会において大事なことは、「祈りと御言葉の奉仕」であります。そのことがよりよく行われるための改革であります。この提案は、「日々の分配」の奉仕は重要でないから、十二使徒がそんなことに煩わされないようにしよう、ということではありません。「日々の分配」も大切な教会の業なのだけれども、そのことで、「祈りと御言葉」がないがしろにされたのでは、教会が神様から託された使命を果たせなくなる、ということに気付いたということです。十二使徒には、彼らにしか出来ない役割があることに気づいたのであります。教会において問題が発生した時に、まず気付かなければならないことは、「祈りと御言葉」が疎かにされていないか、ということであります。あまり祈ることもせず、御言葉に耳を傾けることもせず、ただオロオロしたり、他人を批判して裁き合ったり、礼拝から遠のいたのでは、何の解決にもなりません。もし、この伝道所にも不満の声があったり、苦情の訴えがあるとしたら、まずしなければならないことは、祈ることであり、御言葉にきっちりと向き合って、御心を聴き取ることであって、そのために改善すべきことがあれば、すぐさま改めるということであります。そこから、小手先の改善ではなくて、御言葉による改革が行なわれるということであります。それは自分の経験や自分の考えや自分の感覚による改革ではなくて、神様の御心に聴き従う改革が始まるということではないでしょうか。

3.霊と知恵に満ちた評判のよい人

次に、十二使徒の提案で注目すべきもう一つの点ですが、「あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を選びなさい」と言っております。「日々の分配」の奉仕に当る人の条件として、ここには、三つの条件が挙げられています。第一は、「“霊”に満ちていること」、第二は「知恵に満ちていること」、そして第三は「評判の良い人」であります。「日々の分配」の奉仕に当るのだから、<良く気がつく>とか<テキパキと働く>とか、<会計事務に堪能な人>とか、<福祉の仕事に慣れている人>というのが条件になるのではないのです。
 
第一の条件の「“霊”に満ちた人」ということは、5節に書かれている選ばれた人のリストの第一に挙げられているステファノについても、「信仰と聖霊に満ちている人」と書かれていますように、最も重要視した条件と考えて良いでしょう。また、先ほど朗読していただきました民数記2718節でも、モーセの後継者としてヨシュアが任命された際に神様がモーセに言われたことは、霊に満たされた人、ヌンの子ヨシュアを選んで、手を彼の上に置きなさい」ということでありました。では、「“霊”に満たされた人」ということは、どういう人のことでしょうか。酔ったように(モノに憑かれたように)気分が高揚している人という意味ではありません。『旧約新約聖書講解』では、「信仰深く、すべてのことに祈りをもってかかわる人」と解説しています。また、ある説教者は「キリストにその生活のすべてを支配されている人のこと」(尾山令仁)だと言っております。これらの解説が言おうとしていることは、<自分の都合や自分の考えを中心にするのではなくて、神様の御心を中心に生活する人>ということであります。
 
第二の条件は、「知恵に満ちた人」であることであります。これも、知的レベルが高いとか、高度な専門知識を持っているということではありません。コロサイの信徒への手紙には、「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠されています」(2:3)という言葉があります。まことの知恵というのはキリストにあるのです。ですから、「知恵に満ちた人」というのも、キリストの内にある知恵を求め続ける人のことであると言えます。いつもキリストを判断の規準にする人、と言ったらよいかもしれません。『旧約新約聖書講解』でも、「さまざまな人々の間にある違いを配慮しつつ、神のご意思に沿った正しい処理ができる人」と解説しています。
 
第三の条件は、「評判の良い人」ということですが、これは単に、<世間の聞こえが良い人>という意味ではありません。「評判の良い」という言葉の元の意味は「証しされている」ということで、世間でも教会でも、<この人は信頼できる人だ、立派な人だ>とされて、良い証しになっている人、という意味です。言い換えると、その人の生き様なり生活態度が、福音の良い証しになっている、ということです。
 
以上、三つの条件について見て来ましたが、これは、初代教会に起こった「日々の分配」の奉仕をする人にだけ当てはまるものではないと思います。一般的に、教会の中で苦情が出たり問題が起こった時に、教会に属する人たちに求められることは何なのか、何をもって問題の解決に当るのかということが示されているように思います。ここで求められていることは、企業などにおいて上に立つ人の条件とは全然違います。企業では、指導力・決断力があるとか、学識があるとか、事務処理能力があることが求められます。というのは、企業で発生した問題の解決で求められることは、如何に素早く問題箇所を発見し、それを除去して、問題の拡大を防止して、正常化を図り、効率を高めるか、ということであります。教会でも、そういう能力が必要ではないというわけではありませんが、もっと大切なことがあります。それがここに挙げられているような条件で、大切なことは、信仰的に生きているかどうか、キリストに全てを委ねた生き方をしているかどうか、ということが問われるのであります。――なぜでしょうか。苦情が出たり、問題が発生した所には、人間の弱さが隠れています。そこには罪が潜んでいます。企業であれば、悪いものを除去して良いものに取り替えれば事が解決いたします。しかし、イエス・キリストはそういう解決の仕方をされませんでした。イエス・キリストは罪人とされている人・問題がある人に寄り添われるのであります。そのことに対して、ファリサイ派の人たちは批判の目を向けて、罪人の仲間になっていると言います。イエス・キリストに非難が集中します。しかし、主イエスはその非難を甘んじて受けられます。そして遂に十字架に架けられることになります。そこにイエス・キリストの愛があり、赦しがあります。ルカ福音書(73650)に登場する「罪深い女」のように、多く赦された者は、多く愛することが出来るようになります。それが、イエス・キリストによる問題解決の仕方であります。キリストの体である教会における問題解決の仕方も、このキリストに倣うのであります。もちろん、アナニアとサフィラの例のような結末も有り得ます。しかし、そのような裁きは、人間がすることではなくて、神様がなさることであります。私たちは、自分で裁くのではなくて、たとえ自分に不利益や不名誉が及ぶとしても、主イエスの仕方に倣うのであります。もちろん、私たちと主イエスは違います。主イエスと同じようには出来ません。その前に私自身の罪が現れて来てしまいます。しかし、教会はそのような罪と苦しみながら戦うことの中で、イエス・キリストを証しすることが出来るのであります。教会はそうすることによってこそ、強い教会、サタンに負けない教会となることが出来るのであります。

4.祈って手を置く

さて、24節に書かれている十二使徒たちの提案に、信者たち一同が賛成して、5節に記されている七人を選出いたしました。これらの名前は皆、ギリシャ風の名前ですので、いわゆるヘレニスト(ギリシャ語を話すユダヤ人)の中から選ばれたとも見ることが出来ますが、十二使徒の中にもギリシャ風の名前の人がいますので、必ずしもヘレニストの中から選んだとは言い切れません。しかし、ヘレニストを中心とした人たちが、苦情が出ていたヘレニストたちの面倒を見るということを十分に配慮した人選であったと言えそうであります。
 
選ばれた七人のうち、その後の働きが知られているのは、ステファノとフィリポであります。ステファノについては早速、次の段落から書かれていますし、フィリポは8章で登場いたします。そこで描かれている働きは、単に「食事の世話」をしたとか、「日々の分配」のことに携わったということではなくて、使徒たちと同じような宣教の最前線での働きが記されています。選ばれたきっかけは「日々の分配」の不都合からでありましたが、彼らの働きは、単に「やもめ」たちの苦情に対処したということだけではなくて、キリストに奉仕する者として、教会の宣教の最前線に立って仕え、ステファノの場合は迫害のために命を失うことにさえなるのでありますが、そのことが異邦人へ福音が伝えられて行くきっかけを作ることになるのであります。
 
6節を見ると、選ばれた七人は、使徒たちの前に立たされて、使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた、とあります。手を上に置くというのは、「按手」と言われることで、一般的には聖霊が注がれることを象徴するものでありましたが、新しい任務が与えられ、それに必要な恵みが加えられることを示すものでもあります。この場合、七人は既に「霊に満ちた人」であったわけですから、恵みの伝達という意味で行なわれたと見ることが出来ます。
 
「祈って彼らの上に手を置いた」とあります。この任命が神様によるものであり、神様がその役目を果たさせて下さることを祈ったのでありましょう。教会の奉仕は、人間的な必要から行なわれるのでなく、それに当る人も、人間的な規準で選ばれるのでないことは、これまでも見て来ましたが、更に、その務めを果たさせて下さるのは神様であります。聖霊の働きだと言えます。ですから、祈りをもってしか、それを果たすことが出来ないのであります。

結.神の言葉はますます広まる

最後に7節には、こう書かれています。こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。――ここには、七人の奉仕者を選んで体制を整えたことが、教会の躍進につながったことが記されています。これはしかし、単に苦情が処理されて、教会内のもろもろの業がスムーズに行なえるようになったことの効果が表われたということではありません。もともと、「日々の分配のことで、・・・神の言葉がないがしろに」されていることに問題があったのであります。その問題が解決されたので、「神の言葉がますます広まった」のであります。私たちの伝道所の問題も、神の言葉をないがしろにすることなく、これに聴き従うことによって、聖霊が働いて、解決の道が開かれ、ますます神の言葉が広まることになるのであります。 祈りましょう。

祈  り

教会の頭なるイエス・キリストの父なる神様!
 
初代教会の時以来、教会の内にも外にも、人の罪が渦巻き、福音の宣教を阻んでいるように見えますが、あなたは私たちには計り知ることの出来ない御計画と仕方でもって、着々と宣教の御業を進めておられることを信じます。どうか、私たちも、日々の歩みの中で、祈ることと御言葉を聴き続けることによって、問題の解決の方向を見出すことが出来ますように。そして、聖霊の豊かな働きによって、宣教の御業が一層進められますように。その中で、私たち一人一人の小さな奉仕の業が用いられますように、お願いいたします。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>       2011年7月3日  山本 清牧師 

 聖  書:使徒言行録6:1−7
 説教題:「霊と知恵に満ちた人」
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