「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」
                              (使徒言行録 3:6) 

 ペンテコステに使徒たちに聖霊が降って、彼らはイエス・キリストによって行われた神の救いの業を大胆に語り始めたが、同時に彼らは多くの奇跡も行なった。神殿の「美しい門」の前で、施しを乞うていた「生まれながら足の不自由な男」を立ち上がらせた出来事も、その一つである。民衆はこの出来事に驚いて、ペトロたちが語る福音に耳を傾けるようになったが、ユダヤの指導者たちは苛立って、彼らを捕えて議会で取調べた。しかし、彼らはそこでも聖霊に満たされて、キリストのことを大胆に語るのである。こうして、この出来事は初代の教会の働きを進展させることになる。
  一方、「生まれながら足の不自由な男」個人に起こったことを見てみよう。40歳を過ぎていたこの男は、もう何年も、毎日「美しい門」の前で施しを乞うて生計を立てており、神殿から間接的に恩恵を受けていたが、神を賛美し礼拝することはなかった。この男の姿は、キリストに出会う前の私たちの姿を映し出している。厳しい見方をすれば、キリスト者になった後の私たちも、形の上では礼拝に参加しつつ、様々な恵みを受けておりながら、御言葉を聞き流し、心からの悔い改めや祈りや賛美を欠いたままになっているかもしれない。
 しかし、神はこの男を放っておかれなかった。ペトロとヨハネは彼をじっと見た。聖霊において働き給うキリストは、教会の傍らにいる人々をじっと御覧になる。そこから救いは始まる。男は「何かもらえると思って」二人を見つめる。私たちも自分に益となることを教会に期待する。だが、ペトロは標記のように語る。そして、男の右手を取って、立ち上がらせた。それはペトロに特別な能力が備わっていたというよりも、キリストが聖霊において働いたのだ。男は躍り上がって歩き出し、境内に入って、神を賛美し、礼拝する者へと変えられた。これまでは人に助けてもらうしかない生活であったが、これ以後は喜びを人々に分け与える生活に変えられた。そこには、十字架に架けられて殺された筈のキリストが甦って生きて働いておられる。同様のことは、私たちにも起こる。標記の御言葉の背後には、今も聖霊においてキリストが働いておられ、私たちに新しい礼拝生活を始めさせて下さるのである。

米子伝道所主日礼拝説教<要 旨> 2011年6月19日  山本 清牧師 

 聖  書:使徒言行録3:1−10
 説教題:「キリストの名によって」
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