序.キリストの名によって、何が起こっているか

先週はペンテコステの礼拝を行いました。使徒言行録2章の初めの箇所から御言葉を聴きましたが、そこには12使徒たちに聖霊が降ったこと、そして彼らが、言葉の違う各地から来ていた人々に向かって、神の偉大な業を語り始めたことが書かれていました。それは、初代の教会が誕生し、活動を開始した瞬間でありました。
 
そのあと、ペトロが行なった説教の内容が記されていて、2章の終わりには、初代の教会の信者たちの生活の様子も書かれています。キリスト教の教会が誕生したと言っても、この時はまだ、ユダヤ教とは決別したわけではなくて、246節によると、信者たちは毎日ひたすら心を一つにして神殿に行って祈っていたと書かれています。
 
そして、本日の3章に入るのですが、ここには教会の活動が始められた初期の段階に起こった、一つの目覚しい出来事が記されています。ここには、神殿の「美しい門」という場所で施しを乞うていた、生まれながら足の不自由な男が、ペトロたちによって癒されたという奇跡の出来事が記されています。しかし、この出来事は単に弟子たちにも奇跡を行うことが出来たということではなくて、この出来事を契機として、ユダヤの指導者たちによる教会に対する締め付けが始まるのであります。4章ではペトロとヨハネが議会で取調べを受けたことが記されています。その中で、ペトロは聖霊に満たされて、大胆にイエス・キリストのことを証しすることになります。そうして、教会の立場・拠り所が外に向かって明確になって行くのであります。
 
本日の31節から10節の箇所を取り上げる時に、このような教会の姿に焦点を当てて、教会に何が起こっているのか、教会は何によって建ち、何によって生かされるのかというメッセージを受け取ることが出来るのですが、それは、使徒言行録が伝えようとする中心的なメッセージであると言って良いと思います。
 
しかし同時に、ここには、生まれながら足の不自由であった一人の男の人生に大きな変革が起こったことが書かれているのでありまして、この男に何が起こったのか、そして、私たちにもそのような変革が起こるのか、という視点から、メッセージを受け取ることも出来るのであります。これらの二つの捉え方は、一つの出来事の両面であって、ポイント(キーワード)は6節でペトロが言っている「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」という言葉なのですが、今日はまず、教会に起こったことは何なのかということを確認した後、足の不自由だった男に起こったことを中心に詳しく見ることによって、私たち個人においてイエス・キリストの名によって何が起こるのか、ということを聴き取って、私たちもこの男と同じように、神様を賛美する者とされたいと思うのであります。

1.教会に起こっていること

まず、この出来事によって教会に何が起こったのかという点ですが、この出来事が起こったのは、神殿の境内でありました。神殿というのは、言うまでもなく神様を礼拝するところであります。ユダヤ社会の宗教的中心であります。先ほども触れましたように、初代の教会の信者にとっても、毎日祈りを捧げるためにやって来る所でありました。しかし、この出来事がきっかけとなって、教会は神殿を追われることになるのであります。ユダヤ教の礼拝とキリスト教の礼拝が分けれて行くのであります。なぜそうなるのか。生まれながら足の不自由な男がペトロによって癒されたというだけなら、そんなことにはならなかったでしょう。ペトロが人々から尊敬を受けて、キリスト教も当時の指導者たちから白い目で見られることもなかったでしょう。しかし、ペトロは自分が神様から特別な力を受けて、この男を立ち上がらせたとは言わなかったのです。ペトロは「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言いました。11節から後を見ますと、民衆が皆非常に驚いて、ペトロたちがいた「ソロモンの回廊」と呼ばれる所へ集まって来ます。するとペトロはそこで説教を始めます。その内容は、ユダヤの人々が信じてきた神様が、イエス様に栄光をお与えになったのに、あなたがたがこのイエスを十字架に引き渡して殺してしまった、しかし、神様はこのイエスを死者の中から復活させた、自分たちはこのイエスを信じているので、この癒しの業を行うことが出来たのだ、というものでした。これを耳にした指導者たちは苛立って、ペトロとヨハネを捕らえます。次の日、議会で二人の取調べが行われましたが、ペトロはそこでも、聖霊に満たされて堂々とイエス・キリストを証ししたのです。410節を見ると、こう言っております。「あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。」また、12節では、「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」と言い切っています。イエス様に対して行われた裁判は決着が着いた筈ですが、ここでは、ペトロを初めとする新しく出来た教会に対して、なお裁判が続いていると言ってよいかもしれません。しかし、主イエスの復活の命が弟子たちの中、教会の中に脈々と息づいているのであります。ユダヤの社会が葬り去った筈のイエス・キリストの命が、生まれながら足の不自由な男を立ち上がらせ、教会に力を与えているのです。かつて、洗礼者ヨハネが主イエスに「来るべき方は、あなたでしょうか」と尋ねた時、主イエスは「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩いている・・」と答えられました。正にそのことが実現しているのです。――この後の経緯に着いては省略しますが、こうしたペトロの発言が指導者たちを刺激して、迫害が行われるようになります。しかし、福音は民衆の間でますます広がって行くことになるのであります。

2.足の不自由な男に起こっていること

さて、今度は、生まれながら足の不自由な男に何が起こったのかということを見て行きたいと思います。この男の姿というのは、私たちがキリストに出会う前の姿と重なり合います。そして、ペトロに出会って、イエス・キリストの名によってこの男に起こったことは、私たちにも起こったこと、そしてこれからも起こることであります。

2−1.生まれながら足の不自由な男

ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行くと、そこへちょうど、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来ました。それは、神殿の境内に入る人に施しを乞うためでした。毎日「美しい門」と呼ばれていた神殿の門のそばに置いてもらっていたのであります。これが、この男の日課であり、生活でありました。422節を見ると、この男は四十歳を過ぎていたとあります。四十年間も不自由な生活をして来ました。こうして神殿で施しを乞う生活も、もう何年も続けて来たのでしょう。施しを乞うというようなことは、屈辱的な生き方でありますが、それしか生きる糧を得る方法がなかったのでしょう。彼に協力して、ここまで毎日運んで来てくれる人がいたようであります。親切で協力してくれたのか、この男を利用して施しの分け前を得ていたのか、それは分かりません。いずれにしろ、この男は長年続けて来たこの生活を変えることは出来なかったのでしょう。
 
彼は毎日、神殿の境内の「美しい門」のそばにいながら、門の中には入ることはなかったのでしょう。おそらく、この門より中では施しを乞うことは禁じられていたのでしょう。彼は毎日、神殿の境内にいながら、礼拝のために神殿に入ることはなかったのであります。彼は神殿で生活の糧を得ていました。神殿がなくては生きて行くことが出来ませんでした。そういう意味では神殿から恩恵を受けていたのであります。けれども、不幸なことに、神殿の中で営まれる礼拝とは縁のない生活を続けていたのであります。神様に感謝したり、神様を賛美することはなかったに違いありません。
 
このような、この男の姿を、特別に憐れな男、惨めな生活をしていると見做してよいでしょうか。先ほども申しましたように、この男の姿は、キリストに出会う前の私たちの姿を示しているのではないでしょうか。自分たちはこんな惨めな生活をしていないと思いたいかもしれません。しかし、私たちはキリストに出会うまでは、礼拝と縁のない生活をしていました。ただ、生きる糧を得るために、惰性的に同じ暮らしを続けるほかなかったのではないでしょうか。自分は、もう少し前向きに生きて来たと仰るかもしれません。その日暮らしをするだけでなく、もう少し豊かで文化的な生き方をして来たと仰るかもしれません。人の世話になるよりも、多少なりとも、人のために役立つような生き方をして来たと仰るかもしれません。しかし、キリストに出会わない生活、礼拝のない生活は神様の目から見るならば、この男と大差がないのではないでしょうか。如何に自立した生活をしているように見え、豊かで文化的で、世の役に立つ生き方をしていると言っても、結局は自分の欲望を満たし、自分の名誉を保つことが第一で、神様への感謝や喜びや賛美を欠いた生き方だったのではないでしょうか。キリストに出会うまでは、誰もそうした自分の生活の惨めさに気付かず、それを変えようとも、変えられるとも思わないのであります。
 今、「キリストに出会う前の私たち」ということを申しましたが、もう少し厳しい見方をしますと、ひょっとすると、キリストに出会う前だけでなく、クリスチャンになった後も、そして今も、この男のようであるかもしれません。礼拝に来なくなった場合はもちろん、たとえ礼拝に出席していても、キリストに出会っていないということが有り得ます。御言葉が素通りしているということがあります。心からの祈りや賛美がなされていないということがあります。それは、信徒だけの問題ではありません。教職であっても同じことです。形だけの礼拝はしており、形の上では聖書の言葉が語られ聞かれてはいるけれども、御言葉に打ちのめされて悔い改め、神様の恵みを心から褒め称え、それまでの生活が変えられるということがなければ、神殿の境内で物乞いを続けているこの男と何ら変わらないのではないでしょうか。それは、当時においても、この男だけの問題ではありません。神殿における礼拝自体に、イエス様が宮清めをされなければならなかったように、問題があったのであります。一人ひとりが自らを問うてみる必要があると同時に、教会として、本物の礼拝がなされているのかどうかが、問われなければなりません。――しかし、たとえ私たちがこの男と同じであったとしても、また今の礼拝が、当時と同じように、本物の礼拝でなくなってしまっていようと、落胆する必要はありません。神様はこの男を放っておかれませんでした。

2−2.「わたしたちを見なさい」

3節を見ると、彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた、とあります。彼はペトロとヨハネを特別な思いで見たわけではないでしょう。他の人を見たのと同じように、自分に施しをしてくれないかと期待して目を向けたに過ぎません。それだけのことでは、この男に何の変化も起こりません。私たちが教会に対して何かを期待して、目を向けたとしても、それだけでは私たちに何の変化も起こりません。
 
ところが、4節を見ると、ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言ったのであります。ペトロとヨハネはキリストの十字架と復活を経験し、救いを受けた者であり、聖霊を受けていました。聖霊を受けるということは、先週学びましたように、神様とイエス・キリストが、その人の中で働かれる(行動される)ということです。この二人は、聖霊を受けた弟子たち、即ち教会の代表であります。ですから、言い換えれば教会がこの男をじっと見たのです。教会に働くイエス・キリストがこの男をじっと御覧になったのであります。そこから、この男の変化が始まります。
 
このように、教会は、教会の傍にいる惨めな人を「じっと見る」のであります。男はただ、施しを期待しただけでありました。教会の傍にいる人たち、教会に関心を持っている人たちも、最初から信仰を求めたり、罪からの救いを求めたりしないかもしれません。ただ何らかの御利益を期待したり、精神的な支えを求めたり、知的な好奇心から何かを期待するだけかもしれません。しかし、教会が「じっと見る」ことから、救いは始まるのであります。教会に見当違いのものを求めているからと言って、切り捨てたのでは救いは起こりません。教会は何かを求めて来る人の前を通り過ぎないのであります。教会は「じっとみて」、「わたしたちを見なさい」と言うのであります。「わたしたちを見なさい」というのは、<自分たちが模範的な人間であるから見習え>ということではありません。教会には立派な人間がいるから来て見なさい、とか、教会へ来ると自分たちのような立派な人間になれるから来てみなさい、ということではありません。では、ペトロたちは何を見なさいと言ったのでしょうか。それはこのすぐ後で明らかになることですが、<自分たちの姿や行動を見なさい>ということではなくて、<自分を遣わし、自分たちの中で働いているお方、すなわち、イエス・キリストを見なさい>ということであります。彼らは自分たちが何によって生きているのか、どなたによって生かされているのかを見てもらいたかったのであります。
 
しかし、5節にあるように、その男は、何かもらえると思って二人を見つめていました。男は、多くの人が目もくれないで通り過ぎて行く中で、珍しく声を掛けてくれたペトロたちに興味を抱いたのでもなく、ましてペトロたちが指し示したかったお方を見ようとしたのでもありません。相変わらず、何か貰えることを期待しただけでありました。人々が教会に求めるもの、そして私たち自身も教会に期待することは、「何かもらえる」ことであります。自分の利益になるもの、自分の支配下で自由に自分が使えるもの、あるいは自分が人々から誉れを受けること、評価されることであります。

2−3.「ナザレの人イエス・キリストの名によって」

さて、何かもらえると思っている男に対してペトロは言いました。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう」。この場合ペトロは「金や銀はない」と言っておりますが、癒しを求めている人に対してならば、「わたしには癒しを行う力はない」と言ったかもしれません。知識を求めている人に対しては、「あなたの好奇心を満たす知恵はない」と言い、文化的満足を求めている人には、「あなたの文化的欲求を満たす教養はない」と言ったかもしれません。
 
「金や銀はない」と聞いた男は、<お金がないなら、しょうがないな>と一瞬、思ったことでしょう。ところがペトロは続けてこう言いました。「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」。――男は驚いたことでしょう。生まれてから一度も歩いた経験がありません。自分で歩けるなんて考えたこともありません。でも、ペトロが右手を取って彼を立ち上がらせると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、歩けるではありませんか。よろよろと立ち上がるだけではなくて、躍り上がることも出来たのです。この男がまともな仕事も出来ず、毎日ここに座って、人々から施しをもらうしかなかったのは、足が立てなかったからであります。その足が立てるようになったのですから、金や銀をいくら沢山もらうよりも素晴しいことでありました。
 
それにしても、どうしてペトロたちにこのような奇跡が可能となったのでしょうか。それは、ペトロたちが特別な能力を得たというよりも、「イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言えたからであります。「イエス・キリストの名によって」とは、<キリストの権威と力によって>ということであります。弟子たちがキリストに代わって力を持つようになったということではなくて、キリストが生きて働かれることによって、ということであります。キリストの力が聖霊と共に働いたのであります。
 このような奇跡は、ペトロやヨハネなど、初代教会には起こったけれども、現代では起こり得ないことなのでしょうか。そうではありません。今もイエス・キリストは聖霊において生きて働いておられるのですから、奇跡は起こり得ます。現に、私たちの身の回りでも、色んな形で、思いがけないことが起こることがあります。しかし、奇跡はペトロが起こしたのではないように、私たちが支配し、私たちの思いによって起こるのではありません。また、「イエス・キリストの名によって」と呪文のように唱えれば起こるというものでもありません。私たちが奇跡を呼び込むことは出来ません。しかし、神様が良しとされるなら、この男の場合と同じように、私たちの期待とは違う形かもしれませんが、最も良い道が開かれるのであります。この男にとって大きなことは、金銀を与えられるよりも、歩けるようになったことでありましたが、もっと大切なことは、その後に起こった変化であります。

2−4.境内に入って、神を賛美する

この男は、ただ、奇跡によって、躍り上がって歩けるようになっただけではありませんでした。8節、9節にはこう書かれています。躍り上がって立ち、歩き出した。そして、歩き回ったり踊ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。――この男は、これまでは境内に入らずに、門の外で施しを乞うだけの生活でありました。しかし今や、門の中に入り、境内で神を賛美しているのです。神様を礼拝する者へと変えられたのであります。また、歩き回って、イエス・キリストの業を皆に示しました。これまでは、歩けないという宿命の中で、人に助けてもらうしかない生活でしたが、今度は歩けるだけでなくて、神様を賛美して、その喜びを人々にも分け与えることのできる生活に変えられました。イエス・キリストの御名が支配するところでは、神への賛美が起こります。人生が変わります。生き方が変わります。絶望が希望に変わります。これこそ、この男が期待していた以上の大きなことであります。それだけではありません。冒頭でも触れたように、この後、この出来事を巡って、ペトロが神殿で説教し、議会の取調べで、イエス・キリストの御名を証しすることになります。初代の教会の宣教活動の中で、この出来事が大きく活かされることになるのです。この男は、そのことのために用いられたのであります。それが最も大きなことでありました。

結.私たちに起こっていること

以上が、この生まれながら足の不自由な男に対して、イエス・キリストの名によって起こったことでありますが、同様のことは、今も私たちに起こるのであります。先ほど、この男の姿は、キリストに出会う前の私たちだけでなく、クリスチャンになった私たちも似ているのではないか、ということを申しました。この男は毎日神殿に来ておりながら、礼拝はせず、心からの喜びに満たされるということがありませんでした。私たちは礼拝に来ていながら、どこか満たされない思いを抱いているかもしれません。その点では、この男と同じであるのかもしれません。しかし、神様はこの男に対して、ペトロとヨハネを用いて、イエス・キリストの名によって、立ち上がらせ、歩かせなさいました。そして、躍り上がって神様を賛美する者に変えられました。そこには、人々が十字架にかけて殺してしまった筈のイエス・キリストが復活して働いておられるのであります。私たちは曲がりなりにも礼拝をしております。そして、聖書を通して、この男に起こった出来事を通して、私たちにも語られている御言葉を聴くことが出来ます。「ナザレの人、イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」との御言葉を聴いております。この言葉は過去の死んだ言葉ではありません。その言葉の背後には今も聖霊が働いています。復活のイエス・キリストが今も生きて働いておられます。ペトロは右手をとって立ち上がらせました。そこにも聖霊において働き給うイエス・キリストがおられます。同様に今も、復活のイエス・キリストが私たちの右手をとって立ち上がらせて下さいます。これまでの不自由な生活、思うように行かない生活とは違う、新しい生き方を始めさせて下さいます。そして、躍り上がるようにして神様を賛美する礼拝生活が始まります。そして、教会のために、イエス・キリストのために用いられる生き方、キリストを証しする生活が始まります。祈りましょう。

祈  り

昔も今も生きて働き給うイエス・キリストの父なる神様!
 
あなたは天にあって万物を治めておられるだけでなく、地上に教会を建て、聖霊を送って、主イエスによる救いの御業を、今も推し進めておられることを覚えて、御名を賛美いたします。
 
どうか、私たちのこの小さな教会も、イエス・キリストの御名を語り続けることによって、救いの奇跡が起こされますように。どうか、私たちの人生・生き方が、主イエス・キリストに向けて変えられ、いつも主の御言葉に聴き続けることが出来ますように、どうか、喜びと賛美が日々絶えることがないようにして下さい。
 
どうか、人生の重荷に苦しんでいる人、困難な状況から抜け出せないでいる人に、イエス・キリストにある慰めと変革と希望が与えられますように、お願いいたします。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>       2011年6月19日  山本 清牧師 

 聖  書:使徒言行録3:1−10
 説教題:「キリストの名によって」
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