序.私たちと聖霊の関係を問う

本日はペンテコステ(聖霊降臨日)であります。
 
復活されたイエス・キリストは、その後、40日にわたって弟子たちに現れられたのでありますが、先週聴きましたように、弟子たちを地上に残して、天に昇られた(昇天された)のであります。父なる神様の御許に行かれたのであります。しかし、ヨハネ福音書によれば、イエスさまは十字架にお架かりになる前に、「父は別の「弁護者」(即ち聖霊)を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」(141626節)と言われましたし、ルカによる福音書によれば、「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る」(2449節)と約束されました。そして、先週聴いた使徒言行録の昇天の場面でも、「あなたがたの上に聖霊が降ると。あなたがたは力を受ける」(使徒18)と仰いました。その約束が実現したのが、ペンテコステの日でありました。
 
ペンテコステというのは、五十日目という意味で、過越し祭の後の日曜日から数えて五十日目ということで、日本語では、1節にあるように「五旬祭」と訳されています。ユダヤでは、元々、春の収穫の初穂を神様に献げる日で、三大祭の一つでありました。この日、十二人の弟子たちが集まって祈っている時に、1節から4節に書かれているような現象が起こって、約束の聖霊が降ったのであります。
 
このペンテコステのテキストについては、私がこの伝道所に来てから2回取り上げています。ですから、この箇所に沿って講解的な説教をいたしますと、同じような説教になってしまいますので、今日は、「聖霊」に関して二つの問いを掲げて、それらの問いに関して、このテキストを初め、聖書はどう答えているのか、というアプローチを考えてみました。その二つの問いというのは、一つは、<弟子たちだけでなく、私たちにも聖霊は降るのか>という問いであります。今日の箇所には十二使徒に聖霊が降ったことが書かれているのですが、他の弟子たちや、その後にイエス様を信じた人たちにも聖霊が降ったのかどうか、そして、聖書の時代を超えて、後の時代に生きる私たちにも聖霊が降るのかどうか、ということを問いたいと思います。今一つの問いは、私たちにも聖霊が降るとしたら、<私たちは聖霊に満たされて、どう変わるのか、何が出来るようになるのか>という問いであります。――私たちは自分に聖霊が働いているという確信に乏しい面があります。まして、聖霊を受けて、以前と大いに変わったとか、新たに何事かをしているとはとても言えないように思うのであります。聖霊が降るということがペンテコステの時に、炎のような舌が分かれ分かれに現れたように、目に見えたり、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえたように、耳に聞こえる形で起こるとは限らないので、なかなか自信が持てないのであります。今日は、この二つの問いを聖書にぶつけることによって、御言葉によって、聖霊との関係を深めさせていただければと願っております。

1.聖霊とは――私たちの中で行動する神

さて、二つの問いに入る前に、聖霊とは何か、ということについて学んでおきたいと思います。聖書の中には聖霊の働きについては沢山記されていますが、「聖霊とは」という形で、聖霊の定義が記されているところはありません。聖霊は「父なる神」と「子なる神」とともに、三位一体の神の一つの位格であるという教理は御存知だと思いますが、この三位一体の教理も聖書に書かれているわけではなくて、これは後の教会が作った教理です。けれども、聖書の中には三位一体を示唆する箇所はいくつかあって、例えば、イエス様が復活された後、弟子たちに命じられた言葉の中に、「父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」(マタイ2819)というのがあります。では、聖霊と父なる神と子なる神との関係についてはどうかというと、聖霊は神の霊であると記されている箇所(Tコリント211など)と聖霊は御子の霊、或はキリストの霊と記されている箇所(ローマ89など)があって、これらをもとに、日本キリスト教会の「小信仰問答」などでは「聖霊とは、父なる神、子なる神から出る霊で、永遠の神です(神と本質を同じくされるもの)」と書かれています。神様が3人(3種類)あるということではなくて、お一人の神様の役割、あるいはあり方(存在様式)が3つあるということです。今、週報に連載しています「キリスト教信仰Q&A」の中で、久野牧先生は、「聖霊は…わたしたち一人ひとりにかかわられる時の特別な存在様式である」と書かれています。神様の3つの存在様式の中で、聖霊は、今日私たちの只中で働いておられる神、行動されている神様であると言ってよいのであります。そういう点から言うと、聖霊なる神様は「力」をもって私たちに関わって下さるお方であるというように理解出来るのですが、ここで間違ってはいけないのは、聖霊は人格のない、単なる力やエネルギーのようなものではないということです。私たちが神様から聖霊という力をもらったら、後は私たちがそれを思いのままに操ることが出来る、ということではありません。聖霊はあくまでも御人格をもった神様であって、信仰の対象であります。私たちはよく、「聖霊を送って下さい」とか「聖霊が働いて下さい」という祈りをいたします。そういうお祈りは間違っているわけではありません。しかし、聖霊が送られると、私たちに特別な力がついて、大きな働きが出来るようになるということではなくて、あくまでも聖霊御自身が私たちを用いて働かれるのであります。また、聖霊が降るということは、私たちの感情が高まったり、元気が出るということとイコールではありません。もちろん、聖霊が私たちに降ると、私たちの感情が高まったり、元気が出るということが伴うということは大いに有り得ることですが、逆に、聖霊が私たちの思いや感情を静めて、私たちの思いと異なる道を与えて、そこで力強い働きをされるということも有り得るのであります。例えば、パウロの第二伝道旅行の中で、パウロはビティニア州に入ろうとしたのですが、「聖霊がそれを許さなかった」(使徒167)と記されているところがあります。聖霊は人間の思いを止めることもあるという事例です。この結果、パウロは方向転換してトロアスに行くことになり、そこでマケドニア人が招いている夢を見て、マケドニア州に渡ることになって、結局、初めてヨーロッパに伝道することへと導かれたのであります。

2.私たちにも聖霊は降るのか

さて、第一の問いであります「私たちにも聖霊は降るのか」ということについて、聖書に問いかけてみたいと思います。
 
まず、今日の2113節の箇所ですが、ここでは12使徒に聖霊が降ったことが書かれているのですが、彼らに聖霊が降るような資格があったとか、聖霊が降るための準備が行われていたのか、ということを見ておきたいと思います。冒頭で申しましたように、12使徒に聖霊が降るというのは神様と主イエスの約束でありました。ですから、彼らに聖霊が降ったのは当然だと言えばそれまでなのですが、それなら彼らは聖霊が降ることを大いに期待して、盛り上がっていて、準備も万端怠りなく整えていたかというと、必ずしもそうではなかったのであります。1章の終わりに、12人のうちユダが欠けたので、マティアを選んだ経緯が書かれていますが、これは一つの準備であったということが言えるとは思うのですが、それ以外で彼らがしていたことと言えば、114節に書かれているように、「心を合わせて熱心に祈っていた」ということと、115節や21節に書かれているように、「一同が一つになって集まっていた」ということであります。彼らは「主の証人」として、何を語るべきかの予習をしていたわけではありません。また伝道活動に出かける準備のために忙しく立ち働いていたわけでもありません。2節中ほどを見ますと、「彼らが座っていた」と書かれています。この言葉は象徴的であります。彼らは何かしようとして立ち上がっていたのではないのです。彼らがしていたのは、「熱心に祈っていた」ことと、「一つになっていた」ことだけであります。どうしてそうなったのか。彼らはイエス様の十字架の前までは必ずしも「一つになっていた」とは言えない状態でありました。彼らは自分たちの中で誰が一番偉いかということで争っていました。イエス様が栄光をお受けになる時には、我こそはイエス様の右・左に座るのだと、争っていました。そこには弟子たちの一致はありませんでした。その彼らが今、一つになっているのは、主イエスの十字架の際に裏切ってしまったことで、自分たちは何も誇るべきものがない罪人であることを、身に染みて知らされたからであります。ゼロにおける一致であります。十字架の出来事を通して、自分に死んだことによる一致であります。このような一致のあるところに、聖霊が降るということであります。逆に言うと、自分を誇り、自己主張しているところでは、一つになることは出来ませんし、聖霊は降らないということになります。また、集まって熱心に祈っていたということですが、目的や計画があって集まっていたわけではありません。一緒に集まって祈っていたことが評価されて聖霊が降ったのではありません。彼らは一緒にいて祈るしかなかったのであります。
 
聖霊に降っていただくためには、何もしない方がよいとか、何の計画も立てず、何の準備もしないのがよいと言っているわけではありません。しかし、聖霊は私たちが立派な人間だったり、準備を十分に整えたところに降るのではなくて、むしろ自分たちの欠けや問題を自覚して、ただ祈るしかないところに送られるのだ、ということです。もちろん、それ以前に、神様の御計画というものがあるのでしょう。しかし、それは私たちが知るところではありません。私たちはイエス様の十字架の前で、己の罪を覚え、神の憐れみによる赦しを知って、ただひれ伏すしかない者であります。そのような罪深い自分に気づくということが、神様の計らいによって聖霊が送られることによって起こるということなのではないでしょうか。
 
このような気づきは12使徒ばかりではありません。使徒言行録の中には12使徒以外の多くの人々が聖霊の導きを受けたことが記されています。例えば、826節以下にフィリポがエチオピアの高官を洗礼に導いたことが記されています。ここは7月に礼拝で取り上げる予定になっていますが、エチオピアの高官がエルサレムに礼拝に来て馬車で帰る途中、イザヤ書を読んでいると、聖霊に促された伝道者フィリポが近寄って、聖書を解き明かして主イエスの福音を告げると、その高官は洗礼を希望したので、その場で授けたという出来事です。これは異邦人が聖霊の働きによって信仰に導かれた事例であります。
 
また、9章には、あのサウロ(後のパウロ)の回心の出来事が記されていますが、彼はキリスト者を迫害するためにダマスコの町に向かっている途中で、天からの光とともに復活の主イエスの声を聴き、目が見えなくなるのですが、そのサウロが聖霊に満たされるようにと遣わされたのがダマスコに住むアナニアという人でした(917)。こうしてサウロ(パウロ)は迫害する者から教会のために目覚しい働きをする者へと、聖霊によって180度変えられたのでありました。後にパウロはコリントの信徒への手紙でこう言っております。「神の霊以外に神のことを知る者はいません。わたしたちは世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです」(Tコリント21112)。ここでパウロは、私たちが神の恵みを知るのは、神の霊(聖霊)を受けることによるのだと言っております。またパウロは、「神の霊によって語る人は、だれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」(Tコリント123)と言っております。信仰の告白を生み出すのは、聖霊の働きによるしかありませんし、私たち人間の理解や認識の力だけでは、十字架の主イエスを救い主として信じるには至らないのであります。しかし、逆に言うと、聖霊が働くならば、どんなに頑迷な人も、パウロのように主イエスの福音に強力に抵抗していた人にも信仰が与えられるということであります。
 
使徒言行録には、この他にも多くの人々が聖霊の働きによって信仰に入れられたことが記されていて、聖霊はユダヤ人だけでなく異邦人にも、そして世界中の人々にも働くことが分かるのであります。今日の箇所のすぐ後にはペトロの説教が記されていますが、217節以下で旧約の預言者ヨエルの言葉を引用していて、そこには「終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ」と言われています。ここで「終わりの日」と言われているのは、再臨の日だけでなく、救い主イエス・キリストがこの世に来られてから、もう一度来られるまでの時代、即ち今の時代のことであります。旧約の時代には特定の人だけが神の霊を受けることが出来たのに対して、今の時には、「すべての人に」、息子や娘も、若者も老人も、僕やはしためにも、即ち、男女や年齢や身分の区別なく、神の霊は注がれるというのであります。私たちも決して例外ではないということであります。これが第一の問いの答えです。

3.私たちは聖霊に満たされて、何が出来るのか

次に、第二の問いに移ります。<私たちに聖霊が降ると、私たちはどのようなことが出来るようになるのか>という問いであります。これは<聖霊の働きとは何か>という問いであります。
 
聖霊の働きの第一は、先ほどもエチオピアの高官とパウロの例で見ましたように、キリストを信じさせて下さる、ということであります。カルヴァンは「聖霊は、キリストがそれによって、私たちをご自分に結びつけるバンド(帯)である」と言いました。私たちは聖霊の働きによって教会に導かれ、キリストの御言葉に出会い、キリストの愛に触れ、信じるようにされるのであります。
 
イエス様は最後の晩餐の席で、弟子たちに説教をされたことがヨハネ福音書に記されていますが、その中の141617節でこう言っておられます。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である」(ヨハネ141617)。「弁護者」と訳されている言葉は「パラクレートス」と言いますが、口語訳聖書では「助け主」と訳されていました。「とりなす人」とか「慰め主」とも訳せます。要するに、私たちの味方になって下さるということです。敵対する者が現れたり、困難に遭遇する時に、私たちの味方として、私たちと共にいて下さるのが聖霊だと言っておられるのであります。また、「真理の霊」であるとも仰っています。イエス様の御言葉や御業を正しく理解することが出来て、真理に導いて下さるのも聖霊の働きであります。パウロも「霊は一切のことを、神の深みさえも究めます」(Tコリント210)と言っております。人間の知識や技術がどんなに進歩しても、神様を発見することも理解することも出来ませんが、私たちに聖霊が降るとき、聖書のことがよく分かるようになり、神様の御心を知ることが出来、永遠の真理に到達することが出来るのです。
 
またイエス様は、先ほどの最後の晩餐の席での説教の続きの152627節で「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである」(ヨハネ152627)と言われました。これは弟子たちに語られたことですが、私たちにも当てはまることです。イエス様は天に昇られる直前に「あなたがたの上に聖霊が降ると、・・・地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒18)と言われたことも先週聴きました。聖霊はイエス様のことを人々に証しする伝道の働きをさせて下さるということです。ペンテコステの日に弟子たちに聖霊が降って、彼らが最初にしたことは、「神の偉大な業を語る」(使徒211)ということでありました。
 
ここで忘れてならないのは、弟子たちは各自バラバラに伝道活動を始めたのではないということであります。「一同が一つになって集まって」いたのであります。これは言い換えると、教会が形成されていたということであります。聖霊の大きな働きの一つは、キリストの体である教会を造るということであります。今、聖書研究会ではコリントの信徒への手紙を順に学んでいますが、ちょうど12章に差し掛かっていまして、そこには霊的な賜物について書かれています。124節以下でパウロは、「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです」(Tコリント1247)と言っていて、霊の賜物は父なる神と主イエスと聖霊によって与えられて、いろいろな働きをするのだけれども、それは教会全体の益となるためだと主張するのです。そしてそれに続いて、「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」(Tコリント1227)という有名な言葉を語るのであります。このように、私たちは聖霊によって色々な賜物を与えられ、キリストの体なる教会のために、それぞれに相応しい働きが出来るようにして下さっているのであります。聖霊は特別な人に与えられるものではありません。教会に召され、信仰を与えられた者には、誰にでも聖霊が働いているのであります。また、まだ信仰を持っていない人でも、聖霊が働く可能性がない人はいないのであります。私たちの勝手な判断で、あの人はクリスチャンになる可能性がないとか、教会に相応しくないと決め付けることは出来ません。聖霊は人の思いを越えて、私たちを造り変えて、キリストの枝として働かせて下さるのであります。あの、信仰が危うく弱かった弟子たちをも用いて、福音宣教の業を力強く進め給うた聖霊は、今日も私たちとこの伝道所の中で生きて働いておられるのであります。これが第二の問い対するする答えであります。

結.聖化(救いの完成)に向けて

最後に、聖霊の究極の働きについて触れておきたいと思います。聖霊の働きの目標は「救いの完成」であります。そのことを一口で「聖化」と言います。エフェソの信徒への手紙11314節(p352)にこう書かれています。「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです」(エフェソ11314)。御子イエス・キリストの十字架の贖いによって、私たちが救われる道が開かれました。その救いを完成へと導かれるのは聖霊であります。それが「聖化」の働きです。「聖化」というと、私たちが聖人のような、清らかで穢れのない人になるようなイメージがあって、<私は、とてもそんな立派な人間になれません>という反応が返って来そうですが、「聖化」とは、私たちの精進・努力で道徳的に立派な人間になることではありません。「聖化」は聖霊が私たちに働くことによって起こることです。しかし、だからと言って、内面的、精神的なことで、態度や行為には表れないようなことではなくて、はっきりと行いや生き方に変化が起こること、新しく造り替えられて成長することです。パウロはこのことを「御子(キリスト)の姿に似たものになる」(ローマ829)と表現しています。<キリストに似るなんてとんでもない>と思うかもしれません。しかし、あの弟子たちがイエス様の復活後、聖霊が降ると、大きく変わったように、私たちもまた、聖霊のお働きの中に入れられると、自然に変えられて、日々キリストに似た者へと成長するのであります。もう罪を犯さないとか、神様の赦しが必要なくなるということではありませんが、キリストを目指して前に向かって走る者とされること、それが「聖化」ということです。ペンテコステは、そのような聖霊の恵みを改めて覚える日であります。 祈りましょう。

祈  り

父、子、聖霊なる神様!
 
今日も、聖霊の導きによって、私たちを御前に召し出して下さって、聖書に記された御言葉を通して、今も私たちに働いて下さる聖霊の御業を覚えることが出来まして、ありがとうございます。
 
どうか、聖霊の働きを拒んだり、疑うことなく、素直に受け入れて従う者とならせて下さい。どうか、聖霊が私たちを御心に適う者へと変えて下さり、与えられた賜物に応じて、宣教の御業の一端を担う者とならせて下さい。
 
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>       2011年6月12日  山本 清牧師 

 聖  書:使徒言行録2:1−13
 説教題:「聖霊に満たされ」
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