序.信仰生活とは――キリスト者の生き方の基本を聴く

日曜学校のカリキュラムに従って説教を行なっていますが、今日から2ヶ月は使徒言行録が取り上げられることになっています。なぜ、今日からなのかと言いますと、教会の暦では今年は62日が昇天日(イエス様が天に上げられた日)で、次の日曜日の12日がペンテコステ(聖霊が降った日)になっていて、使徒言行録は聖霊が降る予告と昇天の場面から始まっているからです。
 
今日の箇所は小見出しでも「イエス、天に上げられる」となっているのですが、ここには昇天の出来事だけでなく、その前の使徒たちとの対話から始まって、聖霊が降る約束や、イエス様が再び来て下さる再臨のことまで含まれていて、イエス様の昇天から終末までの間がどのような時なのか、その間に使徒たちが果たすべき使命は何なのかが示されているのであります。
 今、私は「使徒たちが果たすべき使命」と申しましたが、これを読むキリスト者は、ここに示されていることが、あの使徒と呼ばれる11人の弟子たちだけに与えられたものではなくて、自分たちに与えられた約束であり使命であると受け止めて来たのであります。現に、この使徒言行録には11人の使徒たちの働きだけでなく、パウロをはじめ多くのキリスト者の働き、言い換えれば教会の活動の記録が含まれているのであります。そして、この使徒言行録を読むキリスト者は、ここに自分たちの生き方のモデルがあると受け取ったのであります。
 
そういうわけで、私たちもまた今日の箇所から、私たちが置かれている今の時というのが、神様の救いの歴史の中でどういう位置づけにあるのか、そして、その神様の救いの歴史の中に生かされている私たちキリスト者に与えられている使命と約束は何なのか、キリスト者の生き方、信仰者の生活とはどういうものなのかを聴き取りたいと思うのであります。

1.時をゆだねる――神の救いの歴史の中で

さっそく、今日与えられている聖書の本文を見て行きたいと思います。まず6節にはこう書かれています。さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。弟子たちは国を建て直すということについて質問しています。なぜこんな質問をしたのでしょう。――イエス様は宣教を開始されると、「時は満ち、神の国は近づいた」(マルコ115)と述べられました。説教の中でも、「神の国はあなたがたのものである」(ルカ620)と言われ、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」(マタイ633)と教えられました。ですから、神の国はイエス様によってもたらされるものであり、自分たちはそれを求めなければならないと考えていたでしょう。しかし、弟子たちには誤解がありました。神の国と地上の国の混同がありました。ここで、「イスラエルのために国を建て直してくださるのは」と言っております。外国の支配下にあったイスラエルがその状態から脱して、かつての王国を復興して下さるのがイエス様であると期待していました。そして復興の暁には、自分たちが高い地位につけるという望みも持っていました。ですから、そのイエス様が十字架に架けられると、その希望は断たれて、失望に変わったのであります。しかし、イエス様が甦られたことで、もう一度、期待をふくらませているのであります。そして、そのイエス様によって神の国が復興されるのは今なのか、と問うているのであります。
 
私たちは弟子たちのように、イスラエルの国の復興を期待しているのではありません。イエス様のおっしゃる「神の国」というのは、地上の政治的な国家でないことを知っています。しかし、イエス様は様々な問題を抱えている今の社会を造り替えて、愛と平和の社会を築いて下さるのではないか、そして私たちを骨折りや悲しみや争いや不幸な災害から解放して下さるのではないかと期待し、それは何時実現するのですか、と問いたいのであります。
 
けれども、弟子たちの問いに対するイエス様の答えはこうでありました。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。」――イエス様は弟子たちや私たちの問いを間違っているとは仰っていません。けれども、こういう状態になったら神の国が完成するとか、こういう理由でまだ来ていないというような答えはされませんでした。イエス様のお答えは、神の国の実現の時や時期は神様がお決めになることであって、神様の権威に属すことだから、私たちが知るべきことではない、ということであります。かつてイエス様はこう仰ったことが福音書に書かれています。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない」(マタイ2436他)。イエス様御自身も知らないと仰っているのであります。「時」は神様が御支配なさっている事柄であり、救いの歴史は神様の御計画によって進められています。私たちは神様を信頼して、「時」を委ねるべきなのであります。

2.聖霊の力を受ける――生きて働き給う神

では、弟子たちや私たちはこれからどうなるのか。どのように生きればよいのか。そのことを主イエスは8節で語っておられます。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」――ここに、神の国が完成するまでの私たちの過ごし方、生き方が示されています。
 
まず、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」と言われます。弟子たちや私たちは、神様から放り出されて、神の国の実現のために自分の力で何事かをしなければならないということではなくて、聖霊が降って、力を受ける、と約束なさいます。4節で、イエス様は弟子たちに、「エルサレムから離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである」と言っておられました。そのことが実現するということです。ここで「力」という語は「奇跡」とも訳されることの多い言葉ですが、単に大きなことをするエネルギーを受けるということではなくて、ここでは聖霊が降ることによって力を受けるということですから、神様の御心を行うことの出来る力が与えられるということであります。それは、私たちが力をもらうというよりも、神様御自身が私たちを通して、生きて働かれるということです。使徒言行録に記されている初代教会の目覚しい活動は、随所に触れられているように、聖霊なる神様が生きて働かれた活動の現われと言ってもよいのであります。このことは、現代の教会の働きにも言えることであります。日本の伝統や習慣、また現代社会の状況が伝道を困難にしていると言われます。その中で私たちの無力さが嘆かれます。しかし、伝道の主導者は私たちではなくて、聖霊なのであります。聖霊は無力ではありません。むしろ、往々にして私たちが聖霊の働きの邪魔をします。しかし、最終的には私たちの邪魔をも聖霊が打ち砕いて下さいます。神様の救いの御業は終わりの日まで少しも滞ることなく御計画通り進められるのであります。この伝道所の歩みも、もちろん神様の御計画の中に含まれている筈です。歴史を振り返ると、途中で人間的なことで、挫折するのではないかと心配される事態がありました。しかし、聖霊の働きが止むことはありませんでした。サタンは色々な手を尽くして、教会の働きを邪魔しようといたします。しかし、聖霊がサタンに負けることはありません。だから、私たちが先に諦めたり投げ出してはなりません。神様は神の国の完成に向けて、今日も聖霊において生きて働いておられるのです。
 
しかし、だからと言って、聖霊だけが働いて、私たちが何もしないのではありません。聖霊が私たちを用いて下さるのであります。私たちを御心に従って働かせて下さるのです。弱い者、信仰の薄い者も、時には邪魔をする者さえ用いて、御業をなさるのであります。

3.わたしの証人となる――イエスの十字架と復活の証し

さて、次にイエス様は、弟子たちや私たちがなすべきことについて語っておられます。それは、「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」ということであります。私たちキリスト者の務めには多種多様なことがあるように思われます。しかし、イエス様は「わたしの証人となる」という一言で言い表しておられます。これは大切なことであります。色々あるように見える働きも、目的は「わたしを証しする」ことに尽きるのであります。「わたし」とは言うまでもなくイエス・キリストであります。イエス・キリストの御業、御人格、御言葉を証しするということであります。具体的には、主イエスの御生涯、中でも十字架と復活の御業の証言、そこに示された主イエスの愛の証し、様々な機会に語られた御言葉の伝承などであります。しかし、それらを形の上で口移しのように語りさえすればよいということではありません。もちろん、聖書の伝承のように、正確に言葉を伝えるということも必要ですが、それだけではなくて、大切なことは、私たちが証しすることによって、キリストが今も生きて働かれるということであります。そこにはもちろん聖霊の介在があるのですが、同時に私たちの知恵や人格も用いられるということです。キリストの御業や御言葉が私たちを素通りするのではありません。私たちの信仰や愛や言葉が生かされて用いられるのであります。しかし、そこで間違いがちなのは、私たち自身の手柄や私たちの気持ちが表に出てしまって、イエス様が後に隠れてしまうことがあるということです。証しというのは自分をアッピールすることではありません。キリストが描き出されなくてはなりません。私たち自身が本当にイエス様の御業や御人格に触れ、御言葉によって変えられたのであれば、自分を語ることにはならず、イエス様の御人格や御言葉が前面に出て来る筈です。それが「わたしの証人となる」と仰ることであります。
 
この証人としての務めは余程のベテランでなければ出来ないというような難しいものでは決してありません。洗礼を受けて間もない者でも出来ることです。証しが出来るかどうかの決め手は、イエス様に出会っているかどうかです。実際にイエス様の御言葉に接し、御心に触れているかどうかです。一瞬の出会い、一言の言葉であっても、確かに主の御心に触れたと思われるなら、それは立派な証しになるのです。それを上手に表現することが難しいことがあるかもしれません。しかし、それは必ずその人の何気ない会話や行動に現れて来る筈です。それが証しになるのであります。

4.地の果てに至るまで――異教社会での戦い

ところでイエス様は、弟子たちが証人として遣わされる範囲を「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで」と言っておられます。これはどのように受け止めればよいのでしょうか。実は、使徒言行録に記されている弟子たちの活動はこの三つの段階から構成されています。1章から7章まではエルサレムにおける教会形成のことが書かれ、8章から11章の半ばまではユダヤとサマリア地方(パレスチナ地方)での伝道活動のことが書かれ、それ以降は異邦世界である地中海地域からローマに至るまでの伝道活動が書かれているのであります。しかし、ここで「地の果て」と言われている地域をロ−マまでに限定する必要はなくて、文字通り世界の果てまで、即ち<世界中に>と受け取ってよいでしょう。使徒言行録以後の教会はそのように受け取って、世界中に福音を宣べ伝えたのであります。その結果、エルサレムからは地球の反対側のような日本にまで福音は伝えられたのであります。
 
それならば、イエス様が仰った「地の果てに至るまで、わたしの証人となる」ということは達成されたということになるのでしょうか。そうではないでしょう。「地の果て」とイエス様が仰ったのは、単に物理的な「地の果て」ではなくて、異教世界のすべての人々にまで、と受け止めるべきでしょう。福音は物理的な地の果てともいうべき日本にも届けられました。しかし、この異教社会の中では、福音はほんの一部の人々にしか伝えられていません。伝えてもほとんど受け入れられていません。私たちキリスト者の「主の証人」としての働きは、まだ始まったばかりであります。日本におけるキリスト者の割合は1%未満であると言われます。仏教や神道の伝統、それに無宗教を良しとする他の国では考えられない風潮、それらとの戦いがあります。
 
しかし、繰り返しになりますが、私たちの持てる力で勝利を勝ち取るのではありません。聖霊の力が働くのであります。地の果てに至るまで、聖霊が私たちに伴って下さって、「主の証人」としての私たちの働きを支えて下さるのであります。
 
私たちが生きる目的は色々な表現で言い表すことが出来ます。例えば、家族や地域の幸せのために仕える、世と人のために尽くす、人類の進歩に貢献する、弱い人・虐げられている人々を助ける、世界の平和のために尽くすなど、各自が置かれた立場と与えられた賜物によって働く分野は異なるかもしれませんが、キリスト者の人生を貫く目的は「主の証人」となるということであって、そのことを抜きにしたら、どれだけ豊かで幸せに見える人生であっても意味がないし、たとえ人類の進歩や幸せのために貢献できたと見える人生であったとしても、神様の目からみれば、最も大切なことが抜け落ちた生き方になってしまうのであります。逆に、世間ではあまり評価されないような人生であっても、その人なりに主を証しすることが出来たなら、神様は「よくやった」と言って下さるのであります。

5.天に上げられた方のもとで――見えない主/見える教会

次に、9節に書かれている昇天の場面を見てみましょう。こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった、と書かれています。ここで、「天に上げられた」ということで言おうとしていることは、空の上の方に昇って行かれたということではありません。「天」というのは、私たちが使徒信条で「天に昇って、全能の父なる神の右に座しておられます」と告白しているように、<父なる神様のおられるところ>という意味であります。ですから、「天に上げられた」ということは、父なる神様の本質、権能、支配、力、御栄光を神様と共に持たれた、ということです。父なる神様と共に礼拝の対象になられたということであります。
 
更に「雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」と書かれています。「雲」というのは、旧約聖書の時以来、神様の御臨在のしるしでありますが、同時に雲は神様のお姿を隠すものであります。イエス様のお姿が見えなくなるのです。イエス様のお姿が変わったということではありません。しかし、私たちの目には見ることが出来なくなるのです。地上におられた時のように、弟子たちや私たちと同じように動き回って、御業をされたり、御言葉を語られるのではありません。イエス様が現に見える姿で私たちと一緒におられるのであれば、私たちが証人となる必要がないのですが、イエス様が見えないお姿になり、直接耳に聞こえるような形で御言葉を語られるのではなくなったので、私たちが証人とされたのであります。
 
イエス様が見えなくなられた代わりに、私たちが人々に見える姿で証人とされるのです。その証人としての私たちの群れが教会であります。そういう意味で「教会」というのは、見えなくなられたイエス・キリストの地上における見える姿であります。<教会はキストの体>と言われますが、見えなくなられたキリストの地上における見える体なのであります。私たちはその教会に召されることによって、イエス様の御言葉を聴き、御人格に触れることが許されているのであります。なぜ、神様はそのようになさったのか。それが神の国を建設される最も良い方法だとお考えになったからでありましょう。

6.またおいでになる時を待ちつつ――神の国の完成に向けて

最後に、10節、11節には、白い服を着た二人の人、即ち天使が弟子たちのそばに来て、主イエスが再び地上に戻って来られる再臨のことを述べたことが書かれています。天使は「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか」と言っております。この言葉には、叱責あるいは忠告の意味が込められています。天を見上げて溜息をついたり、思い出に耽っていても仕方がない。あなたがたには地上で果たすべき使命があるではないか、と言っているのであります。主の証人としてすべきことは、イエス様のおられた昔を懐かしんだり、イエス様の御人柄を偲んで、<良い人だったなあ>などと思い出に耽ることではなくて、イエス様のなさったこと、語られたことを人々に伝えて、再び来られる日に備えるということであります。
 
二人の天使は続いて、「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」と言っております。天に上げられて私たちの目には見えなくなられたイエス様でありますが、再び来られる(再臨される)のであります。その時の有様は、「天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様」だと言っております。人間の感覚では捉えられないような超越的な形で来られるのではなくて、はっきりとイエス様であると分かるお姿で来られるというのです。再臨というのは、夢や空想の世界の出来事ではなくて、具体性をもった出来事として起こるということです。そして、その時が神の国の完成の時であります。私たちはその時に向けて今の時を生きるのであります。

結.主の証人となる――生き生きとした礼拝から

以上見て来ましたように、イエス様の昇天の前後でイエス様自身が弟子たちに語られ、また天使が語ったことから、私たちキリスト者が神様の救いの歴史の中で置かれている位置は何処なのか、その生き方は如何にあるべきか、ということがはっきりして参りました。それはまた、教会の置かれている位置づけと歩むべき姿であると言い換えてもよいわけですが、その位置づけとは、@イエス・キリストの十字架の死と復活の後に、主イエスは天に上げられた時から、やがて再び来られるまでの中間の時期であるということ、Aそしてその間は、主イエスは父なる神と共にあって世界を治めておられるといういこと、B私たちはそのお姿を目で見ることはできず、その代わりに私たちと私たちが属する教会が地上でイエス・キリストの見える形として存在するということ、Cそして、その中で私たちと教会がなすべきことは、主の証人として、主イエスの御業と御言葉を宣べ伝えることだということで、Dそこには聖霊が降って、力を受けることが出来るということ、Eそして最後に、主イエスが再臨される時には、私たちは再び主イエスのお姿を見ることが出来るということであります。
 
では、私たちが主の証人として生きるということは、具体的にはどのように日々を過ごすということでしょうか。それは、このあと使徒言行録の中にモデルが示されているわけですが、使徒たち、初代教会の人たちは、主の十字架と復活の福音を、身の回りの人々から遠く異邦の世界の人々にまで、積極的に告げ広めたということであります。私たちもまた、与えられた福音を自分の内に止めておくだけでなく、積極的に身の回りの人や異教の中にいる同胞に語り告げるということであります。しかし、その生活の基本は、初代の教会の人々もそうであったように、主の日ごとに礼拝を行なって、主の御言葉を自ら聴きなおし、聖餐を行って主の御業を確認し、そして聖霊の力をいただくということであります。そのように礼拝を各自の生活の中で怠りなく行う、礼拝を第一とする生き方をするということが、周囲に対して無言の証しになるのであります。今日もまた、私たちは主が聖霊において御臨在なさるこの証しの場に招かれたのであります。感謝して祈りを献げましょう。

祈  り

天にあって今も世界を治め給うイエス・キリストと父なる御神様!御名を賛美いたします。
 
今日は、主イエスの御昇天の記事を通して、私たちの立たされています位置とその使命について聴かされることが出来ましてありがとうございました。
 
私たちの歩みは覚束なく、道を踏み外したり、迷い出てしまいそうになりますが、どうか上から聖霊をお送り下さって、私たちの歩みを正し、与えられた宣教の使命を御心に沿って行うことが出来るようにさせて下さい。
 
どうか、まだあなたの御支配と救いを信じられないでいる人々にも、あなたの助けがありますように。そして終わりの日に一緒に主イエスとお会い出来るようにして下さい。そのために私たちに出来ることをどうかお示し下さい。
 
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>       2011年6月5日  山本 清牧師 

 聖  書:使徒言行録1:6−11
 説教題:「主の証人となる」
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