「義とされて家に帰ったのは、この人(徴税人)であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」           (ルカによる福音書1814

 キリスト者の目に見える印の一つは神に祈ることである。<祈りは魂の呼吸>と言われるように、私たちの魂は祈りを失うと命を保つことが出来ない。人には誰でも祈る心が備わってはいるが、祈る対象がはっきりしないと、空回りに終わる。神に向き合うことによってはじめて、祈りとなる。では、神はどのような祈りを喜び給うのか。イエスは二つの譬で語られた。
 一つ目の譬え(1825)は、不正な裁判官がやもめの訴えを取り合おうとしなかったが、やもめが気を落とさずに訴え続けたので、うるさくてかなわないと裁判に応じたというものである。これは、熱心に祈れば、神は自分の考えを変えて、応えて下さるということだろうか。それでは神は不正な裁判官と同じだということになる。主イエスは「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために、裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる」
と言われる。神は祈ってもすぐに応えて下さらないように思える時があるが、神は不正な裁判官とは違って、私たちのために最も良い裁き(結論)を用意しておられる。だから、私たちは神を信頼して、気を落とさずに祈り続ければよいのだ。これが、真実の祈りの一側面である。 
 二つ目の譬え(181013)では、祈るために神殿にやって来たファリサイ派の人と徴税人が登場する。ファリサイ派の人は、自分が間違ったことをせず、徴税人のような者でないことを感謝し、人並み以上に良い事を行っていると言う。これらはウソではないが、祈りの形をとった自慢でしかない。彼は神を必要としていない。一方、徴税人は自他共に認める罪人であり、胸を張って神の前に出ることが出来ず、胸を打ちながら「罪人のわたしを憐れんでください」と祈る。主イエスはこの譬えを語られた後、標記のように言われた。自らを厳しく律して、他人に迷惑をかけず、正しい生き方をしているとの自負心を持っていて、神様を必要としていない者の祈りは受け入れられず、自らの罪の故に、神の赦しを乞うしかない者の祈りこそ、真実の祈りとされたのだ。
 
この後、主は「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と言われた。神の国は、幼子のように、自分の弱さ、愚かさをありのまま認める者にこそ備えられているのである。

米子伝道所特別伝道礼拝説教<要 旨> 2011年5月29日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書18:1−14
 説教題:「真実の祈り」
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