序.真実の祈りに導かれるために

今日は、この伝道所(米子東教会)の「春の特別伝道集会」として、(初めての方や、)日頃、あまり教会に来ておられない方もご一緒に礼拝をしております。「伝道集会」とか「伝道礼拝」と申します「伝道」というのは、どういうことでしょうか。時々間違って、<伝え導く>という字を書かれる方がいらっしゃいます。確かに、伝道集会には<伝え導く>という働きも含まれております。しかし、正しくは<道を伝える>と書きますね。では、その「道」とは何でしょうか。それは、「武士道」とか「茶道」と言われる場合の「道」と同じで、<キリスト教の信仰の道>ということであります。そういう場合の「道」というのは、狭い意味では、<方法>とか<やり方>のことですが、それだけでなくて、<武士としての生き方>とか<茶人としての心構え>を含んでいます。同様に、「伝道」という場合の「道」も、単にキリスト教についての知識を教えるとか、神様のご利益を受ける方法を伝えるということではなくて、神を信じて生きる生き方を伝えるということであります。ということは、伝道を受ける前と、伝道受けて神様を信じるようになった後とでは、生き方が変わる、ということであります。生活を貫いているものが変わる、ということであります。
 
では、キリスト教の信者の生き方・生活を貫いているものとは何でしょうか。色んな言い方が出来ると思いますが、一言で言うと、キリスト教の神様を信じるということであります。しかし、神様を信じる生き方と言われても、具体的なイメージが湧かないかもしれませんが、このように、日曜日には教会に来て礼拝するというのが、一つの目に見える形です。しかし、日曜日ごとに休まず教会に来ていたら、キリスト教の信者と言えるかというと、必ずしも言えません。勤勉に教会に通っていても、そこに、信仰がなければ、神様を信じて生きているとは言えないわけであります。では、神様を信じて生きているか信じていないかの目印は何か、と問われるならば、<神様に祈っている>ということではないかと思います。祈るということは、神様と向き合う、ということであります。神様を信じるということは、お祈りが出来るようになる、ということであります。こうして、礼拝をいたしますと、説教を聞いたり、讃美歌を歌ったりということと共に、祈りがあります。けれども、ただ祈りの言葉を一緒に唱えたり、他人の祈りを聞いているだけでは不十分で、神様と向き合ってお話をしているかどうか、ということが大切であります。<祈りは魂の呼吸>と言われます。私たちの肉体は息をしないと死んでしまうように、私たちの魂も祈りをしていないと、命を保つことが出来ないのであります。
 
ところで、今日の伝道集会のお話の題を「真実の祈り」といたしました。案内のチラシにも書きましたが、私たちは誰でも祈る心が備わっています。これは人間に備わった特権であります。何か困ったことが起こると、祈りたい気持ちになります。病気にかかっている人や、人生の岐路に立っている人のためには、「お祈りをしています」というような言葉をかけたり、手紙を書いたりいたします。食事の時には、クリスチャンでなくても、感謝の思いを込めて手を合わす習慣があります。何か人間を越えた力に頼りたいという思いは誰でも備わっているのであります。けれども、その思いが、どこに向かっているのかが問題です。「いわしの頭でも信心から」という言葉がありますが、心から信頼出来ないものに向かって祈ってみても、空しいだけであります。私たちの切実な願いであっても、祈る対象がはっきりしないと、祈っているようで、それは自分の願いが自分の中で空回りしているだけであります。そうでありますから、「真実な祈り」をするためには、誰に祈るかということが、最も大切であります。私たちが祈る対象は「神様」でありますが、その神様がどのようなお方を知る必要があります。また、その神様と、どのようにしたら、向き合うことが出来るのか、ということも弁える必要があります。今日は、そうしたことを聖書に書かれているイエス・キリストの言葉から学びたいと思います。

1.気を落とさずに、神に向き合う祈り

先ほど、ルカによる福音書18章の1節から14節までを読ませていただきました。ここは全部、イエス様がお話しになったことが書かれていて、二つの譬えを用いながら、祈りについてお教えになった箇所であります。
 
最初の譬えは、「やもめと裁判官のたとえ」という小見出しがついています。あるやもめが何か面倒なことに巻き込まれて、裁判官に訴えたのですが、不幸なことに訴えた裁判官は、神を畏れず人を人とも思わないような不正な裁判官でありまして、なかなか取り合ってくれないのであります。やもめと言えば社会的に弱い立場でありますから、ユダヤの掟では愛の配慮をしなければならないと教えられていたのですが、この裁判官は、貧しいやもめの世話をしても、自分の利益にはならないと考えたのか、速やかな対応をしようとしません。しかし、やもめは何度も裁判官を訪れて、うるさいほどに責め立てたのでしょう。さすがの裁判官も、うるさくてかなわないからと、彼女のために裁判をしてやることにした、というのが譬えの内容であります。
 
この譬でイエス様は何を教えようとされているのでしょうか。1節に、筆者のルカが解説を記しておりまして、イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された、と言っております。私たちが何か願いごとを持って祈り始めた時に、すぐに出会う問題は、お祈りしても神様はすぐには答えて下さらないことがあるということです。それで気落ちしてしまって、祈っても無駄ではないか、神様は自分の祈りなんか聞いておられないのではないか、と思ってしまうのであります。それに対してイエス様はこの譬えのやもめが、気を落とさずに、粘り強く何度も足を運んだように、諦めずに祈り続けることが大切だ、と教えておられるのだ、ということです。しかし、イエス様はこの譬で、頑張って祈ることこそが、祈りが叶えられるための決め手だと言って、私たちの側の祈りの熱心さを鼓舞しておられるだけなのでしょうか。それは分かり易い理解ですけれども、この譬えを誤解したことになります。というのは、私たちがしつこく祈らないと神様が耳を傾けて下さらないとすると、神様というのは、この裁判官のような、不正な神様だということになってしまいます。神様というのは、私たちがうるさく迫ると、願いを聞いて下さるけれども、そうでない者には冷たく当るようなお方だ、ということになってしまいます。
 
けれどもイエス様はこの譬で、そんなことを言おうとしておられるのではありません。6節以下を見ますと、イエス様ご自身がこう言っておられます。それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。」――イエス様がこの譬で教えておられるのは、この不正な裁判官と神様が同じようだと言っておられるのではありません。7節で、「まして神は」と言っておられます。神様はこの不正な裁判官とは違うのであります。不正な裁判官は、自分に面倒なことが起こらない限り、動こうとはしませんでした。神様はそうではありません。「昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをほうっておかれることがあろうか」と言っておられます。神様は私たちの一人一人の悩みを知り抜いておられて、何が必要であるのかを御存知であります。「選ばれた人たち」というのは、直接的には当時のイスラエルの民のことを指していますが、今、このように神様の選びを受けて礼拝に導かれて、イエス様のお話を聞いている私たちのことだと受け取って差し支えないでしょう。神様は私たちの状態を知り抜いて、このような場に招いておられるのであります。「神は速やかに裁いてくださる」と言っておられます。神様は私たちのために、最も良い結論を、既に持っておられる、ということであります。だから、私たちとしては、ルカが1節で言っていたように、「気を落とさずに絶えず祈」り続ければよいのであります。私たちの思い通りに事が運ぶわけではないかもしれません。しかし、最も良い道を神様は用意して下さっているのですから、その神様を信じて、他のものに気をとられることなく、神様を信頼して神様に向き合って、絶えず祈っておればよい、ということです。

2.果たして地上に信仰を見いだすだろうか

イエス様は、この譬えの後、8節の後半で、ちょっと不思議なことをおっしゃいました。「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」――「人の子」というのはイエス様ご自身のことです。「人の子が来る」というのは、イエス様が、終わりの日にもう一度来られるという意味です。このあと、イエス様は十字架にお架かりになって亡くなられるのですが、三日目に復活されて、それから四十日にわたって弟子たちに現れられます。その後、天に昇られて、人の目には見えなくなられるのであります。けれども、イエス様は、終わりの日にもう一度私たちの所に来られる、ということを約束して天に昇られました。そのことを「再臨」と言っております。ここでイエス様は、その再臨の時に、「果たして地上に信仰を見いだすだろうか」と言っておられるのです。それまでずっと、祈りが続いているだろうか、と問いかけられているのであります。そう言われると、私たちはどうでしょうか。自信をもって、「私はずっと神様を信頼して、祈り続けます」と言い切れる人はいないかもしれません。しかし、このイエス様のお言葉は、私たちを疑っておられるということではないでしょう。私たちに対して疑いをもって問いかけておられるのではありません。これはむしろ、私たちの信仰を期待して、祈りへと招いておられる言葉と受け取った方がよいでしょう。「あなたたちはきっと、信じて祈り続けているよね」と言って下さっているのです。
 
さて、ここまでは、私たちは、あのやもめのように、何らかの問題を抱えて、その解決を求めて神様に祈る場合に、神様は、あの不正な裁判官とは違って、私たちの叫びを聞いて下さるお方であり、その上で、最も良いようにして下さるのだから、たとえすぐに答えが返って来ないように見えても、気を落とさずに絶えず祈り求めればよい、というイエス様のお話しでした。そのような祈りが、今日のテーマであります「真実の祈り」の一つの側面であります。
 
ところが、祈りというというのは、そのような問題解決を願うというものだけではありません。実は、もっと大事な祈りがあるのです。祈りというのは、神様と向き合うことだということを最初に申しましたが、私たちが神様と向き合うのは、私たちが神様に何かをお願いするだけではありません。先ほど、8節の終わりのイエス様のお言葉は、私たちを疑っておられるのではなくて、招いておられるのだ、ということを申しました。そう受け取って良いと思うのです。しかし、私たちの側に全く問題があり得ないのかというと、そうではありません。否むしろ、私たちには大いに問題があるのです。私たちが神様と向き合う時に、果たして私たちは堂々と神様に向き合うことが出来るのだろうか、とても胸を張って、神様の前に出ることが出来ないのではないか、という問題です。私たちは、神様に何かをお願い出来るような立場ではなくて、その前に祈るべきことがあるのではないか、ということであります。そのことが、9節から後で話された二つ目の譬で語られています。

3.ファリサイ派の人の祈りと徴税人の祈り

この譬えには二人の人が登場いたします。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人であります。舞台は神殿であります。二人はどちらも祈るために神殿にやって来たのです。ということは、神様の前に立って、神様と向き合うためにやって来たのであります。
 
「ファリサイ派」というのは、「分離された(区別された)者たち」という意味があります。彼らは旧約聖書の中の律法(掟)を忠実に守っていると自負している人たちで、律法に対して無知であったり、無関心である人々から自分たちを分離して(区別して)、律法に即した正しい宗教的な日常生活に励んでいたのであります。自分の倫理的・宗教的な生き方を確立していた人たちと言って良いと思います。そういう人たちですから、当時のユダヤの社会では、模範的な生き方をする人たちとして、人々から尊敬を受けていましたし、自分たちも誇りを持って生きていました。
 
もう一人の「徴税人」というのは、当時のユダヤがローマ帝国の支配下にある中で、ローマに納める税金を徴収する仕事をしていた人たちです。喜んでする仕事ではありませんが、メリットもありました。ローマの権威を嵩にかけて、必要以上の税金を取り立てて、私腹を肥やすことが出来ました。ですから、経済的には裕福な生活が出来たようです。しかし、ユダヤ人たちからすると自分の利益のために異邦人に国を売るのを手伝う者だとして嫌われ、軽蔑されておりました。聖書の中ではユダヤ人たちから罪人扱いされていた様子が伺えます。
 
さて、このように、二人は全く違う立場の人ですが、この譬えでは二人とも神様の前で祈るのであります。その点では同じです。ところが、祈っている様子や内容はまったく違っています。11節から12節には、ファリサイ派の人の祈りの様子が書かれています。「ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者ではなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食をし、全収入の十分の一を献げています。』」――ファリサイ派の人は堂々と自信に満ちて祈っております。奪い取るとか不正を行うとか姦通を犯すといった律法(掟)を破るようなことは何もしていないと言っております。そのような間違ったことをしていないだけではなくて、週に二度も断食をしているし、全収入の十分の一を献げていると言っています。彼はウソを言っているわけではありません。模範的な人間です。外から見れば、何の落度もない立派な生き方です。彼は「神様」と呼びかけています。しかし、彼の祈りの中身は自分のことだけです。自分が正しいこと、自分が立派であることばかりを言っております。「感謝します」とも言っておりますが、神様に感謝しているというよりは、自分を誇っています。おまけに同じく神殿に来ていた徴税人を引き合いに出しながら、自分を誇っています。祈りの中で他人を非難さえしています。自分が不十分であったことや、自分の弱さについては一言も述べておりません。これは祈りの形をとった自慢でしかありません。
 
一方、徴税人の方はどうでしょうか。13節を見ますと、「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』」とあります。彼は遠くに立って、目を天に上げようともしない、ということは、胸を張って神様の前に出ることが出来ないのであります。ユダヤの人々は顔を上に向けて、手を差し伸べて、大きな声で祈ったと言われます。ところが、この徴税人はそういう普通の人の祈りが出来ないのです。胸を張るどころか、胸を打ちながら、「罪人のわたしを憐れんでください」と言っております。これは謙遜して言っているということではなくて、実際、律法を守ることが出来なかったということもあるでしょうし、「罪」というのは、神様との正しい関係を確保することが出来ないということですが、そういう意味で、神様の前で堂々と胸を張れない関係にあったことを認めざるを得なかったのでしょう。神様との良い関係を持ちたい、と願ったからこそ神殿に来たのでしょう。しかし、自分から関係を修復することも出来ない。ただ、「憐れんでください」とお願いするしかなかったのでしょう。まして、ファリサイ派の人のように、感謝することなど、とても出来ません。
 
ところでイエス様がこんな譬えを弟子たちに話されたのは、自分たちがこの二人のうちのどちらかを考えさせるためでした。私たちもまた、この譬えを聞いて、考えさせられるのであります。ファリサ派の人とか、徴税人というのは、ユダヤの特定の時代の人間ですし、どちらも神殿に来たということですから、神様との関係を重視したユダヤの社会が背景にあることは確かですが、この譬で言い表されていることは、現代の日本であっても、また、クリスチャンであるなしにかかわらず、当てはまることであります。現代の社会の中でも、自分で自分の生き方をコントロールして、他人から後ろ指を指されないような生き方をしている人は沢山います。キリスト教の信仰とか宗教的な救いに頼らなくても、伝統的な日本の倫理観の中で生き抜いて来た人は、自分を厳しく律して、他人には迷惑をかけず、正しい生き方をしているという自負心を持っておられる方は多いかもしれません。クリスチャンも、謙遜なようでいて案外、自分の道徳的生活にプライドを持っていて、信仰を持っていない人たちや、道徳的に弱い人たちから自分を分離(区別)しているところがあります。そんな私たちに対して、イエス様はここで、あなたがたは、このファリサイ派の人に似ていませんか、と問うておられるのであります。そして、私たちの祈りが、あのファリサイ派の人のように、神様に向けられているというよりは、自分を誇り、他人を見下げる祈りになってしまっているのではないか、神様などに頼らなくても生きて行けると思っている、現にそういう生き方をしているのではないか、と問いかけておられるのであります。

4.真実の祈り

イエス様は譬えを語られた後、14節でこう言っておられます。「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人(即ち、徴税人の方)であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」――二人が自分で考えていたのとは全く逆の評価です。自分が正しいと思い込んでいた人は、イエス様の目には適わず、自分は間違った人間だ、罪人だと思っていた人が、イエス様から正しい者として扱われるのです。自分を誇るだけで、心が神様の方を向いていないような祈りは受け入れてもらえず、逆に、神様の前に出ることも恥ずかしく、ただ「罪人のわたしを憐れんでください」としか言えないような祈りを「真実の祈り」として受け入れて下さるのであります。正に、逆転です。道徳的にいくら正しくても、人間的に見ていくら立派であっても、高ぶる者の祈りは神様に聞いてもらえず、逆に、神様の前でへりくだる者、自分が本当に罪深い者であると思い込んでいる者の祈りは聞き入れられるのであります。
 
これは単に、<高慢になるのでなく、謙遜になれ>、ということではありません。単に、<自分の足りない点や自分の弱さや醜さを素直に認めて、反省しろ>ということではありません。私たちはそんなに簡単にファリサイ派的な人間から徴税人的な人間に変われるものではありません。私たちは自分があくまで正しいことを言い張る人間であります。一時的な反省や、人前で謙遜らしく振舞うことはあっても、根本的にはファリサイ派から抜け出せない者であります。それが罪人の罪人たるところであります。私たちがそのような徹底した罪人であることに気付くのは、実は、十字架にお架かりになったイエス様と出会う時であります。そこでは、私たちが自分の正しさを誇って、神様の助けも、イエス様の十字架も必要がないと思って、神様をないがしろにしていること、自分がイエス様を十字架に架けていることに気付くのであります。そして、自分が弁解の余地のない罪人であることを思い知らされます。私たちには何の誇れるものもなく、どんな弁解もできません。ただ神様が一方的に御子イエス・キリストの十字架の贖いをもって赦してくださるという大きな愛を知った時に、はじめて自分が正真正銘の罪人であることを認めて、心から罪を告白することが出来るのであります。それが、「真実の祈り」であります。

結.子供のように神の国を受け入れる

イエス様は最後に、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」という言葉で締めくくられました。そのあと、15節以下の箇所には、イエス様が子供を祝福された記事が続いています。これは偶然ではありません。イエス様に触れていただこうと人々が幼子を連れて来ました。すると弟子たちは、イエス様が大切な話をしておられるのだから、子供を連れて来るなと叱ったのです。ところがイエス様は幼子たちを呼び寄せて言われました。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」――子供というのは、自分の弱さ、小ささを知っております。大人と張り合って良い格好をしようとはしません。あの徴税人も、ファリサイ派の人と張り合おうとしません。自分の弱さ・罪をありのまま認めているのであります。神の国はそのような者たちのものだと言われるのであります。「神の国」というのは、どこか遠くにある理想の国のことではありません。神様の御支配を素直に受け入れることによって入ることが赦されるのが神の国であります。幼子のように自分の弱さ・罪をありのままに認める祈りによって神様と向き合うことが出来たなら、それが神の国に入るということです。イエス様は今日、私たちをそのような祈りへと招き、神の国に入れようと、この席に招いてくださり、み言葉を語って下さったのであります。
 
神様にお祈りいたしましょう。

祈  り

憐れみ深い神様!
 
今日はイエス様の二つの譬えを通して、私たちを真実の祈りへと導いて下さいましたことを感謝いたします。
 
私たちは、あなたの御前に相応しくない罪深い者でありますけれど、どうか、受け入れて下さいますように。またどうか、あのやもめのように、気を落とさずに、祈り続けることの出来る者にして下さい。そして、あなたと向き合い、あなたのみ言葉に続けて触れることが出来るようにさせて下さい。
 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

米子伝道所特別伝道礼拝説教<全原稿>       2011年5月29日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書18:1−14
 説教題:「真実の祈り」
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