「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」  (マタイによる福音書1833

 「罪の赦し」は主イエスの中心的なメッセージである。そのことを知っていたペトロは、自分が仲間のことで腹に据えかねている問題があって、苦しみながら主イエスに「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」と問うた。当時の指導者たちの教えでは三回までとされていたので、思い切ったことを言ったつもりであろう。
 だが、主イエスの答えは、「七回どころか七の七十倍まで赦しなさい」というものであった。これは無限に赦せというに等しい。この答えにペトロも私たちも戸惑わざるを得ない。
 
そこで主イエスは一つの譬えを語られた。王から1万タラントン(約6000億円)もの借金をしている家来が、決済を迫られると、家来はひれ伏して哀願するので、王は憐れに思って、借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は仲間に貸した100デナリオン(約100万円)の返済を迫り、「どうか待ってくれ」と頼む仲間を牢に入れた。この事の次第を聞いて怒った王は、家来に表記のように言って、彼を牢に放り込んだのである。こんな譬えを話されたあと、主イエスは「心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう」との厳しい言葉を語られた。しかし、この言葉は、「心から兄弟を赦すことができるなら、天の父はお喜びになる」ということでもある。そもそも、この譬えは、「天の国は次のようにたとえられる」という言葉で始まっている。主は、私たちが自分の腹立たしさや憎しみを無理矢理押さえつけて、仲間を赦すことを命じられているわけではない。そこには心の解放はない。この譬で主が私たちに示しておられることは、王が莫大な借金を帳消しにしたこと、即ち、神が私たちを憐れに思って、大きな罪を赦して下さる「赦しの王国」にいることである。そのことに気づくとき、私たちは人を赦せない呪縛から解放される。そして、これまでは憎しみの種であったことが、喜びの種に変わるのだ。赦すことは苦痛ではなく、喜びなのである。
 
教会は罪人の集りであるが、罪が赦された喜びを知っている者たちの集まりであり、そこには罪の赦し合いが起こされる。そのことによって、教会は「天の国」が既に始まっていることの目印となる。私たちはその「赦しの王国」に召されているのである。

米子伝道所主日礼拝説教<要 旨> 2011年5月22日  山本 清牧師 

 聖  書:マタイによる福音書18:21−35
 説教題:「神の赦しと私の赦し」
         説教リストに戻る