序.赦せない現実

今日も日曜学校のカリキュラムに従って説教の聖書の箇所が与えられているのですが、今日のマタイによる福音書1821節以下で扱われている問題は、「罪の赦し」という、キリスト教の中心的なテーマであります。従って、ここで語られていることが受け入れられないとなると、キリスト教の中心的なメッセージを受け入れていないことになってしまいます。聖書の中には、常識では受け入れ難い出来事とか、自分にはとても出来ないと思える教えとかが、あちこちにあるのですけれど、それらを全部受け入れたとしても、もし、ここで主イエスが語っておられる「罪の赦し」ということが受け入れられず、自分の生活の中でそれを具体化するということが出来ないとなると、キリスト者として不十分どころか、失格と言っても良いような、そんな重要な問題が扱われているのであります。
 
ここで主イエスが語られた譬え自体は、一度読んだら、その言わんとすることが子供でも分かるものであります。しかし、それを自分のこととして聞くことが出来なかったり、自分のこととして聞こうとしても、ひっかかりを覚えたり、割り引いて聞いてしまったり、言い訳を考え出したり、誰かのせいにして聞こうとしなかったり、ついには逃げ出してしまったりするのであります。しかし、今日、この「罪の赦し」のテーマが与えられていることは、幸いなことであります。主は、この解決が困難な問題に光を与えて、私たちを救い出そうとしておられるのであります。
 21節を見ますと、弟子のペトロは主イエスに、こう問いかけています。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」――ペトロも「罪の赦し」ということに悩んでいたのであります。主イエスの教えを聞いて来た中で、「罪の赦し」の重要性を認識していたのでありましょう。しかし、現実の問題として腹に据えかねる問題があって、赦せない自分があることに悩んでいたのでありましょう。「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら」と言っておりますから、主イエスの弟子たちの間に生じた問題かもしれません。ペトロは相手を絶対赦せないとは言っておりません。我慢して赦そうとしているのであります。そこに、ペトロの前向きな姿勢を見ることが出来ます。当時のユダヤの指導者たちは、三度までは赦すように教えていたようです。しかし、ペトロは主イエスから神の赦しの話を聞く中で、世間の常識を超える必要があることを感じていたのでしょう。それで、三度の倍を越えて、完全数とされる七という数字を思いついて、「七回までですか」と問うたのでありましょう。
 
ところが主イエスの答えは、22節にありますように、「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍まで赦しなさい」というものでありました。これは490回ということではありません。<無限に赦しなさい>ということであります。先程、旧約聖書の朗読でエレミヤ書3127節以下を読んでいただきました。ここはイスラエルの民に与えられる「新しい契約」について、エレミヤが預言している箇所であります。その34節のところで、「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」という神様の言葉を伝えています。神様の無限の赦しが語られているのであります。そのように、<あなたも無限に赦しなさい>というのが、主イエスの答えであります。これをどう聞くべきなのでしょうか。ペトロははたと困ってしまったことでしょう。私たちもまた、ペトロと共に、当惑せざるを得ないのであります。<罪を犯した人に対して、一定の忍耐が必要なことは分かる。損害を受けたり、名誉を傷つけられたりしたことも、ある程度なら我慢することもやぶさかではない。しかし、物事には限度というものがある。キリスト教的な博愛主義にも限度があって当然だ。悪い事は悪いこと、罪は罪として、本人がその責めを負うことこそ、本人のためになるのではないか。>――それが、世間の常識であります。それでは、主イエスの言葉をどう受け止めればよいのでしょうか。

1.天の国の譬え

ペトロや私たちの戸惑いを察して、主イエスは一つの譬えを語られました。23節で、こう語り始めておられます。「そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。」――ここで語られるのは、「天の国」のことなのであります。「天の国」と言っても、どこか遠い世界、現実とはかけ離れた理想の国のことではありません。主イエスが来られたことによって、この地上にもたらされた新しい現実が、罪にまみれた私たちの只中に起こり始めたことであります。かつてエレミヤが預言したことが実現するということ、罪の赦しが現実となるということであります。「天の国」とは赦しの世界であります。私たちの罪が赦され、私たちが互いに罪を赦し合うということが起こり始めるということです。
 新共同訳では、「天の国は次のようにたとえられる」と訳されていて、この譬え全体が天国のことを表わしているように読めるのですが、確かに譬え全体で天の国のことを伝えようとしているのは間違いないのですが、ここを直訳すると、「天の国は、家来たちと決済しようとする王に似ている(譬えられる)」ということになります。つまり、ここに登場する王の行為が天の国を表わしているということです。この王とは、35節の最後の言葉によると、「わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう」と仰っているように、父なる神様のことであります。父なる神様は家来たち(=私たち)と決済をしようとされるのであります。この決済は終わりの日の審判を思わせます。そこでは、私たちの罪の決済が行われるのであります。しかし、それは天の国の完成の時、神の赦しの業が完成する時でもあります。しかし、その業は遠い未来のことではありません。既に始まっているのであります。天の国、即ち神様の決済は主イエスが来られた時から始まっているのであります。

2.王の赦し――憐れに思って

この譬えの最初の場面は、王から大きな借金をしている家来が、王の前に連れて来られる場面であります。この家来は1万タラントンもの借金をしていました。これは日本の今のお金に換算すると6000億円にも当ると言われます。1日働いて1万円稼げるとしても、約17万年もかかる額ですから、一生働いても返せる借金ではありません。これは、私たちが神様に負っている罪の大きさが、とても自分の働きで償えるようなものではないことを示しています。そこで主君(=王)はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物全部売って返済するように命じます。おそらくそれだけのものを売ったとしても返済しきれない金額でしょう。私たちは、そのような大きな罪を負った罪人であることを覚えなければなりません。
 
ところが、家来はひれ伏して、「どうか待ってください。きっと全部お返しします」としきりに願ったのであります。このような大きな借金を「全部お返しします」などと言っております。自分の借金の大きさを認識していないのです。ここにも私たちの姿が映し出されているのではないでしょうか。私たちも自分の罪の大きさの認識が甘いのです。自分では解決できないほどのものを負っていながら、平然と過ごしているのであります。
 
しかし、驚いたことに、主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやるのであります。借金の返済を猶予しただけではありません。返済を免除したのです。非常に寛大な措置であります。ここで「憐れに思って」と訳されている言葉は、「内臓」という言葉から来たもので、<はらわたの底からの熱い思いをもって>という意味があります。それは、独り子イエス・キリストを私たちの罪の身代わりとして十字架に架け給うほどの痛みをもって、私たちの罪の解決を計ろうとなさる御心を表わしています。これこそ、赦しの国である天の国で起こっていることであります。

3.赦せない家来

ところが、28節からの第二の場面では、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、「借金を返せ」と迫るのであります。100デナリオンというと100万円くらいでしょうか。決して小さな金額ではありませんが、1万タラントンに比べると60万分の1程度の額です。これなら努力すれば返せない金額ではありません。借金していた仲間は、さきほど家来が言ったのと同じ言葉で「どうか待ってくれ。返すから」と頼みます。同じ言葉でも、こちらは返済の可能性がありますから、まだ真実味があると言えるかもしれません。
 
しかし、あの家来は承知せず、この仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れたのであります。自分は一生かかっても返せない大金を王に赦してもらいながら、この仲間の比較的小さな借金を赦さなかったのであります。ここにも私たちの姿が描き出されています。私たちは自分では負いきれない罪を、キリストの犠牲のゆえに赦していただきながら、それに比べればそれほどでもない仲間の罪を赦すことが出来ないのであります。私たちは赦しの国に入れてもらう約束を与えられていながら、仲間を赦せないとしたら、天の国の有難さを感じていないということになります。これこそ、神様の恵みを蔑ろ(ないがしろ)にする大きな罪であります。日頃、十字架の恵みを口にしていながら、ちっとも感謝していないことが、あからさまになるのであります。牧師はそれだけ罪が重いことを思わざるを得ません。

4.主君の怒り/主イエスの悲しみ

この事の次第を見ていた仲間たちは、非常に心を痛めて、一部始終を主君である王に報告します。そこで王が、再び先の家来を呼びつけるのが、第三の場面であります。王は言います。33節です。「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」そう言うと、主君は怒って、借金を返済するまでと、家来を牢役人に引き渡したのです。借金は返済できる見込みはないのですから、一生、牢から出て来ることはないでしょう。
 
以上が、主イエスの語られた譬えであります。譬えは悲劇的な結末で終わっています。主イエスは最後にこう付け加えておられます。「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」――この言葉には主イエスの悲しみが込められています。主イエスは私たちの身の回りの現実、私たちの教会の中にもある現実を見て、悲しみつつ、同じことを言われているのではないでしょうか。しかし、この言葉は、諦めの言葉ではありません。「心から兄弟を赦さないなら」と仰っています。反対に、「心から兄弟を赦すことができたなら」、そこには天の国の喜びが待っているのだよ、と呼びかけておられるのではないでしょうか。この譬えはペトロや私たちを裁くために語られたのではありません。ペトロや私たちを何とか天の国に導きたいとの切なる憐れみの御心をもって語っておられるのであります。しかし、天の赦しが受け入れられるところには、地上の赦しが伴うはずなのであります。地上の赦しが出来ていないことは、天の赦しを受け入れていないことの証しであります。これは厳しい真理であります。兄弟の赦しのない教会は、キリストの赦しが受け入れられていない教会ということになります。キリストの赦しを受け入れていないで、赦し合いのない教会は、キリストの赦しを証しすることなど、出来るはずがありません。それはキリストの体なる教会とは言えない教会です。神の国を宣べ伝えることが出来ない教会であります。そんな教会は存在する価値がありません。発展するどころか、滅ぼされてしかるべき教会であります。私たちは主イエスの悲しみの言葉を噛み締めるべきであります。

結.赦す喜び

では、私たちは主イエスの悲しみを慮(おもんばか)って、私たちの腹立たしさや憎しみを押さえつけて、七を七十倍するまで我慢して、赦さなければならないのでしょうか。主イエスはこの譬えを通して、そういうことを求めておられるのでしょうか。そうではありません。私たちの心の中から消えないものを無理矢理押さえつけて、表に出さないようにしても、そこには私たちの心の解放はありません。いつかは爆発せざるを得ないものです。主イエスはそんなことを私たちに強いておられるのではありません。
 
この譬で主イエスが示しておられる最も大事なことは、既にお分かりの通り、王の家来が大きな借金を帳消しにしていただいた、ということであります。つまり、私たちが神様と人に対して犯した大きな罪を、憐れみによって赦して下さったということであります。そこには独り子イエス・キリストの大きな犠牲が必要でした。それは、私たちが腹立たしさを我慢するようなレベルとは全然違う、大きな犠牲でありました。そのことに気づいた時、私たちは人を赦せない呪縛から解放されます。呪縛から解放されるだけでなく、これまで憎しみの種であったことが、喜びの種に変わるのであります。赦すことが苦痛ではなくて、喜びに変わるのであります。それが、ここで主イエスが仰っている「天の国」ということであります。「天の国」の喜びとは、自分と気の合った者だけが集まって、楽しく話し合って、気に入らない者をやっつけたことを喜ぶことではありません。そんなことでは喜べる筈がありません。「天の国」の喜びとは、私たちの中にある根深い罪をも赦された神様の大きな愛を知って、自分も、これまで憎らしいと思っていた人を愛することが出来るようにされるという喜びであります。それは、我慢することによって得られるものでなく、主に与えられた恵みから湧き出て来るものであります。それが、35節で主イエスが仰る「心から兄弟を赦す」ということでありましょう。
 
主イエスは私たちに「主の祈り」を教えて下さいましたが、その中の第五の祈願で「われらに罪をおかすものを、われらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ」と祈るように教えて下さいました。この祈願について、皆さんは恐らく、主の祈りの中で最も祈りづらい祈りだと感じておられるのではないでしょうか。なぜ祈りづらいかと言うと、この祈りの言葉は、私たちが人の罪を赦しますので、私たちの罪も赦してくださいと、私たちが人を赦すことが、私たちの罪の赦しの条件であるかのように聞こえるからであります。しかし、「主の祈り」は弟子たちに教えられた祈りであります。既にキリストの贖いによって罪を赦された者たちの祈りであります。従って、人の罪を赦すということが、自分の罪が赦されることの条件になっているのではありません。ただ、私たちはもう罪を犯さなくなったわけではありませんので、日々新たに罪の赦しを祈らなければなりません。その時に、自分がキリストによって、既に罪を赦されているから、自分も人の罪を赦すことが出来るようにされました。そのように更に私の罪をお赦しください、そして更に人を赦すことが出来る者にして下さい、という祈りなのであります。私たちは、この「主の祈り」を祈ることによって、改めて自分が罪人であることを自覚すると共に、その罪が赦されること、そして人の罪を赦すものとされることを知ることが出来、赦しの王国である「天の国」に入れられている恵みを覚えることが出来るのであります。
 
教会というところは、その「天の国」が始まっていることの地上の目印であります。教会の中に罪がないというわけではありません。むしろ、罪人の集まりであります。しかし、教会が天の国の目印であるのは、罪を赦されたことを知っている者たちの集まりであり、罪の赦し合いが始められているところだからであります。私たちも、罪多いこの世界にあって、この赦しの王国に召されていることを心から感謝し、喜びたいと思います。  祈りましょう。

祈  り

憐れみに富みたもう主なる神様!
 
私たちは心の狭い者であります。自分のことは棚に上げて、他人の問題点にのみ、心が囚われています。しかし、今日は、主イエスの譬えを通して、あなたの限りない赦しの宣言を聴かせて下さり、私たちを赦しの王国へと招き入れて下さいまして、有難うございます。
 
どうか、絶えずあなたの大きな赦しを覚えて、私たちもまた人を赦すことの出来る者とならせて下さい。そして、あなたの御栄光をあらわす群れとならせて下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>       2011年5月22日  山本 清牧師 

 聖  書:マタイによる福音書18:21−35
 説教題:「神の赦しと私の赦し」
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