序.何を誰に求めるのか

今日与えられております聖書の箇所の冒頭に、「求めなさい。そうすれば、与えられる」という言葉があります。お年を召した方は、文語訳の「求めよ、さらば与えられん」という言葉の方が、馴染みがあるかもしれません。――この言葉は、聖書の中でもよく知られた言葉の一つであります。聖書を読んだことがない人でも、この言葉は知っているかもしれません。
 しかし、よく知られているだけに、<陳腐化してしまっている>と言えるかもしれません。本気でこの言葉に耳を傾けなくなってしまっていると言えるかもしれません。人の欲望や願いは止まるところを知りません。誰でも、与えられたいと思うものは無数にあります。しかし、私たちが手に出来るものは限られています。私たちはそのことを知りすぎています。ですから、「求めなさい。そうすれば、与えられる」という言葉も、初めから割り引いて聞いてしまっているのではないでしょうか。人は時に、野望を抱いたり、大志を抱くことがありますが、多くは自分の身の丈に合った、自分の能力や環境に見合った望みを持ちます。入学にしろ、就職にしろ、結婚にしろ、私たちは自分を測った上で目標を定めます。それでもなかなか思うように行かないのが普通です。求めた通りに与えられることは少ないのであります。ですから、「求めなさい。そうすれば、与えられる」と言われても、初めから当てにしなくなっているのかもしれません。それでも、この世の多くの人は、かすかな期待をもって、神社で手を合わせたり、占いを見てもらったりするのでありますが、キリスト者は、キリスト教がご利益宗教ではないことを知っていますから、求めることには遠慮がちになっていると言えるかもしれません。しかし、病気になったり、不幸に見舞われたり、困難に遭遇した時、大きな壁にぶち当ったような場合には、誰でもなんとかそこから脱出することを真剣に求めます。平生は遠慮がちなキリスト者でも、そういう時には熱心に祈り求めることをするかもしれません。そういう時には、「求めなさい。そうすれば、与えられる」という言葉が急に身近なものに感じられるかもしれません。私たちを励ましてくれる言葉として、甦って来るかもしれません。「そうだ!もっと求めればいいのだ。不幸や困難に負けてしまってはいけない。希望をもって求めれば、道は開かれるかもしれない。諦めてはいけない。熱心に求め続ければよいのだ。」――そういう元気を与えてくれる言葉だからこそ、今まで多くの人に親しまれて来たと言えるでしょう。今、東日本の被災地で不安を抱えている人たちに向かって、元気を与える言葉や歌が色々な形で発信されていますが、この言葉もそういう言葉の一つとしての働きを持っていると言えるでしょう。
 けれども、この言葉はそれだけのことなのでしょうか。ただ、諦めずに熱心に求め続けることを勧めて、希望を失わせないようにするための励ましの言葉の一つに過ぎないのでしょうか。
 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」と言われています。しかし、一体何を求めなさいと言っているのでしょうか。何でも求めさえすれば与えられるという無責任な言葉なのでしょうか。探しなさいと言われていますが、何を探せばよいのでしょうか。門をたたきなさいと言われていますが、どの門をたたけば開かれるのでしょうか。そもそも、誰に求めたらよいのでしょうか。どこを探せばよいのでしょうか。――今日は、そうしたことを問いながら、与えられた聖書の箇所に耳を傾けたいと思います。

1.山上の教えの実現のために

今日の箇所というのは、主イエスが山に登られた時に、一緒について来た弟子たちに向かって語られた「山上の説教」と呼ばれるものの最後に近い部分であります。「山上の説教」はマタイ福音書の5章から始まっていますが、最初に「心の貧しい人々は、幸いである」から始まる8つの祝福が語られ、それに続いて、先々週に聞きました「あなたがたは地の塩である、世の光である」との宣言があって、そのあと、旧約聖書に記された律法について、主イエスの新しい解釈が語られます。その中には、「だれかが右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」とか「敵を愛しなさい」といった新しい教えが語られています。そして、6章に入ると、ユダヤの社会で守られてきた「施し」や「祈り」や「断食」の仕方が教えられ、そのあと、有名な「空の鳥を見なさい」と言われて、「思い悩む」必要がないことを述べられ、33節では「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と教えられました。そして7章に入って、直前の箇所では「人を裁くな」ということで、他人との関係について教えられたのであります。
 このような山上の説教で語られたことは、律法の規程に縛られて来た人々を、ある意味では解放する福音でありましたが、ある意味では、より厳しい愛の教えであって、簡単に守れるというものではありませんでした。そのような主イエスの愛の教えを守り、祝福が成就するために必要なことは、自分たちが精進努力するということよりも、その実現を神に求めるということであります。それが、「求めなさい。そうすれば、与えられる」という約束の言葉に結びついている、という流れになっていると思います。何を求めるべきかということを「山上の説教」の中の言葉で言えば、633節にあった「神の国と神の義を求めなさい」ということになるのではないでしょうか。そして、それを求めるべき相手は当然、神様でありますが、そこへ導いて下さるのは、「求めなさい」と言われる主イエス・キリストその方であります。
 今、私は、「求めなさい」という主イエスの言葉を「山上の説教」全体の中で位置づけましたが、もう少し狭い範囲で位置づけることも出来ます。先程、7章は他人との関係について教えられているということを申しました。1節から5節までで言われていることは、「人を裁くな」ということであります。なぜ人を裁いてはいけないのか。そのことについて主イエスは、3節で面白い譬えを語っておられます。「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」。つまり、神様の前での自分の問題点を差し置いて、他人のことを問題に出来るのか、ということであります。続いて6節も譬えを用いて語っておられますが、「神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう」と言っておられます。ここで「神聖なもの」「真珠」と言われているのは、「神の国」とか「福音の真理」と考えてよいと思いますが、先程の「裁き」の反対の「赦し」と言ってもよいと思います。神様の赦しの福音は、その値打ちが分からない人たちには受け入れられないばかりか、反発を受けることになる、ということであります。福音の伝道ということは、そう簡単なものではない、自分たちで簡単に出来るなどと思い上がってはならない、ということであります。私たちと他人との関係において、人を簡単に批判して裁いてもいけないし、逆に、簡単に赦しの福音を語ってもいけないと言われるのであります。私たち自身から他人へつながる道はないということであります。それなら、どうすればよいのか。そこで言われたのが、「求めなさい」ということなのです。つまり、神様に祈って求める以外に他人とつながる道はない、ということであります。目の中の丸太が取り除かれるにも、赦しの福音が伝わるためにも、必要なことは祈ることである、と仰るのであります。
 「求めなさい」という主イエスの言葉の位置づけについて、ここまでで二つの見方を述べましたが、ルカによる福音書の併行記事を見ますと、もう一つの見方に導かれます。ルカ福音書の11章の初め(p127)を見ていただきますと、弟子の一人がイエス様に「主よ、ヨハネ(洗礼者)が弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言いますと、主イエスはそこで、私たちが「主の祈り」として知っている祈りを教えられました。その流れの中で、「求めなさい」という言葉が出て来るのであります。ですから、「求めなさい」と言われたのは、言い換えると「主の祈りを祈りなさい」ということであります。先程、マタイ福音書の流れの中で見ると、「求めなさい」という命令は「山上の説教」の最後の方に出て来ていて、「山上の説教」で教えられたことが実現できるように求めなさい、ということだと申しました。そして、その求めるものを要約すると、「神の国と神の義」を求めることだ、と申しました。それが、ルカ福音書の流れの中では「主の祈り」を祈ることに置き換えられているのであります。「主の祈り」には、ご存知のように、「御名が崇められるように」「御国が来ますように」という神様に関する祈りから始まって、「日毎の糧を与えてください」「罪を赦してください」といった私たち人間の生活に密着した祈りまでが含まれた壮大な祈りであります。「山上の説教」にしろ「主の祈り」にしろ、そこには汲めども尽きない豊かな内容が含まれています。そのような豊かなものを「求めなさい」と言われ、「そうすれば、与えられる」という驚くべき約束がなされているのであります。

2.執拗な求めに応える友達(ルカ福音書によって)

ところで、ルカ福音書では、「主の祈り」が教えられた後、「求めなさい」という命令が語られるまでの間に、一つの譬えが挟まれています。(1158)こういう譬えです。真夜中に旅行中の友達が突然やって来たのですが、何も出すものがないので困って、近所の友達のところへ行って「パンを三つ貸してください」と頼むのですが、初めのうちは「面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません」と言って断るのですが、「しつように頼むと、起きて来て必要なものは何でも与えるだろう」という話であります。それに続いて、「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる」と言われたのです。では、この譬で主イエスは何を言おうとされたのでしょうか。執拗に頼めば友達が求めに応じてくれたように、熱心に祈ることが大切だ、ということでしょうか。確かにそのように受け取ることも出来ます。「主の祈り」を呪文のように、ただ唱えているだけでは駄目だ。この譬えのように、困り果てて執拗に祈るならば、きっと応えていただける、と言っておられるのであります。しかし、この譬で語られていることは、それだけではありません。この譬の中の8節で主イエスは、「その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものを何でも与えるだろう」と述べておられるように、執拗な求めを理解して応じた側の友達のことを強調しておられるのであります。ここで「しつように頼めば」と訳されている言葉は、もともと「恥知らずのゆえに」とか「厚かましさのゆえに」という言葉です。ですから、恥をも厭わないで頼んで来たので、相手が相当に困っているだろうと事情を察して与えるだろう、という意味にとることが出来ます。またもう一つの解釈は、助けを求めた側の「しつこさ」や「恥知らず」と理解するのでなく、求めを受けた側の友達が、もし断ったら「恥知らず」になるので、そうは思われないために必要なものは何でも与える、という理解であります。この譬で友達とは、願いに応えられる神様のことであります。つまり、神様は私たちの恥知らずとも言える厚かましい求めにも、求める側の私たちの事情を察して、あるいは神様自らが「恥知らず」と思われないために、言い換えると、御自分の名誉のためにも、私たちの求めに耳を傾けて下さり、必ず応えて下さる、と言っておられると解釈することが出来るのであります。考えてみると、私たちは、「山上の説教」の教えを守ることを、それほど執拗に求めているでしょうか。「主の祈り」を「恥知らず」と思われるほどに祈っているでしょうか。私たちは神様を困らせるほどに執拗には祈っていないのではないでしょうか。しかし、神様は御自分の名誉のためにも、私たちに必要なものを与えようとしておられるのであります。

3.探しなさい/門をたたきなさい

さて、(マタイ7章に戻りますが)主イエスは「求めなさい」と言われたあと、「探しなさい」「門をたたきなさい」とも言われました。
 まず、「探しなさい」ですが、この「探す」という言葉は、新約聖書の中の印象的ないくつかの場面で出て来ます。マタイによる福音書1345節以下(p26)に、良い真珠を探す商人の譬があります。良い真珠を探していた商人が、遂に、すばらしい真珠を一つ見つけるのです。すると商人は喜びのあまり、その高価な真珠を買い求めるために、全財産を売り払うのであります。これは天の国(神の国)の譬えであります。そういう意味で、先程の「神の国と神の義を求めなさい」という教えに通じるのであります。この譬えで言われていることは、一つは天の国というのは、探し回らなければ見つからない、ということであり、もう一つは、天の国は全財産を売り払っても手に入れるだけの価値のあるものだということであります。そうであれば、天の国は、あの良い真珠を求めた商人にように、血眼になって探し回らなければ見つけられないし、全財産を売り払うように、自分のすべてを犠牲にしなければ手に入れることが出来ない、ということでしょうか。そうではありません。この譬えで言われていることは、良い真珠を探す商人の熱心さや全財産を売り払ったことが評価されているのではなくて、天の国を見つけることがそれほどに大きな喜びであるということを語っておられるのであります。天の国を見つけさせて下さるのは神様であります。私たちはただ、「捜しなさい。そうすれば、見つかる」という主イエスの言葉を信じて、探し続け、祈り続けるだけであります。
 次に、「門をたたきなさい」という命令はどうでしょうか。この言葉は「戸をたたく」という訳でルカ福音書の1322節以下(p135)に出て来ます。そこでも神の国のことが語られているのですが、終わりの日に天国の戸が閉められてから、外に立って戸を叩いて「御主人様、開けてください」と言っても、「お前たちがどこの者か知らない」という答えが返ってくるだけである、と語られています。今日の箇所でも、門というのは神の国の門、あるいは神の家の門と考えてよいでしょう。神の国は自由に、何の抵抗もなく入ることは出来ません。主人の許可を得なければ、あるいは主人に開けてもらわなくては、入れません。開けてもらうには戸を叩かねばなりません。では、戸を叩くということは何を意味するのでしょうか。それは大きな努力を意味するのでしょうか。あるいは神の国に入りたいという意志を示さねばならないということでしょうか。そうではありません。主イエスは「門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」と言って下さっています。門を開けるのは神様であります。分厚い、重い門であっても、開いて下さるのは神様であって、私たちが力づくで開けるのではありません。
 このように見て参りますと、「求めなさい」という命令も、「探しなさい」という命令も、「門をたたきなさい」という命令も、そこで求められているのは、私たちの熱心さや努力というよりも、主イエスが「与えられる」「見つかる」「開かれる」と言って下さるお言葉を、本気で信じるかどうかにかかっている、ということであります。

4.良い物を与えてくださる天の父

910節では、別の譬えを用いながら、私たちの求めに対する天の父なる神様の対応について語っておられます。ここでも注目したいのは、私たちの求め方のことが言われているというよりも、私たちの求めに対する、神様の側の対応について述べられているということであります。こう問いかけられています。「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。」――この問いかけに対しては誰でも、<そんな親はいません>と答えるでしょう。では、天の父なる神様はどう応えて下さるのでしょうか。11節を見ると、「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」と言われています。罪深い人間の親でも、子供には良い物を与える。まして、天の父なる神様は、求める者に良い物をお与えになって当然ではないか、とおっしゃるのであります。大変分かりやすい譬であります。ここで、天の父が与えて下さる「良い物」とは何でしょうか。ここまでの流れからすると、「山上の説教」で示された愛の道、あるいは633節で言われていた「神の国と神の義」、あるいはルカ福音書の流れでは、「主の祈り」で願っていること、ということになります。いずれにしても、私たちの思いを越えた良い物、自分の努力や精進ではとても得られない良い物、むしろ、私たちの日常的な求めの中では忘れていたような、神の国でしか得られないような良い物、であります。先程参照したルカ福音書では、この部分は、「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(ルカ1113)となっています。聖霊が与えられる、と言うのです。これは、主イエスが述べられた「良い物」というのをルカなりに解釈したものと思われますが、「聖霊」という言葉でルカが表わそうとしたことは、私たち人間の低い願いを越えた聖なるもの、生きて働く神様御自身を私たちのために注ぎ出して下さる、ということではないでしょうか。

結.人にしてもらいたいと思うことを

マタイ福音書では、最後の12節に、こんな言葉が付け加えられています。「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」――ここで勧められていることは「黄金律」と呼ばれるものであります。「黄金律」とは、<人間が生きて行く上で、黄金のように大切で価値ある教訓>という意味であります。そういう大切な言葉でありますから、この1節だけでも説教が成り立つのでありますが、今日は、「求めなさい」という言葉との関連で要点だけを述べたいと思います。
 ユダヤの古い律法やギリシャの哲学者たちの言葉には「……するな」という否定的な禁止の教えが多かったのでありますが、ここでは「……しなさい」という積極的な勧めが語られています。これは、「山上の説教」の結論とも言うべきものであります。「求めなさい」という言葉は、「山上の説教」で教えられた愛の道を求めなさい、ということだと申しました。その愛の道を一言で述べると、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」ということになる、ということではないでしょうか。これは、大変厳しい道であります。とても私たちには出来そうにもない道であります。しかし、主イエスは「求めなさい。そうすれば、与えられる」と言われます。私たちの努力では到達出来ない道も、主が備えて下さるということであります。この主イエスの言葉を信じて、求め、探し、門をたたく者には、この「黄金律」を生きる道が必ず開かれる、と仰るのであります。
 祈りましょう。

祈  り

主イエス・キリストの父なる神様!
 「山上の説教」や「主の祈り」に込められている豊かな恵みを、求めるならば、与えられる、との約束の言葉を聴くことを許され、感謝いたします。自分勝手なことを求めることの多い者でございますが、最高に良い物を与えて下さることを知りましたので、それを求める者、探す者、その門をたたく者になりたいと思います。不信仰で、祈ること少ない者でありましたが、あなたに向き合い、祈る者とならせて下さい。そして、どうか、人にしてもらいたいと思うことを、少しでも人にすることのできる者とならせてください。
 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿> 2011年5月15日  山本 清牧師 

 聖  書:マタイによる福音書7:7-12
 説教題:「求めなさい」
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