序.あなたがた――この世に生きるキリスト者(教会)

今日与えられております聖書の箇所は、マタイによる福音書の5章から始まります、「山上の説教」の中で、「心の貧しい人は、幸いである」に始まる8つの祝福の言葉が語られたすぐ後の部分であります。
 
「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」と主イエスは語っておられます。私たちは今日、この言葉を聴くために、ここに集められています。
 
というように申しますと、皆さま方の中には、「私はとても『地の塩』とか『世の光』などと呼んでいただけるような者ではありません」と、心の中でつぶやいておられる方がいらっしゃるかもしれません。私自身も、<地の塩になっているか、世の光として世の中に光を輝かしているか>と問われるならば、たじろがざるを得ません。胸を張って、「私は地の塩です。私は世の光です」とは決して言えないのであります。
 
では、ここで「あなたがた」と呼びかけられているのは、どういう人なのか、ということが問題になります。5章のすぐ前を見ますと、「人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた」(424)と書かれています。しかし、5章に入りますと、「イエスはこの群衆を見て、山に登られた」とあって、そのような群衆から少し距離を置かれるのであります。そして、それに続いて、「弟子たちが近くに寄って来た」と書かれていて、「そこで、口を開き、教えられた」のが、山上の説教なのであります。つまり、「あなたがた」というのは、弟子たちのことであります。しかし、ここで弟子というのは、使徒と呼ばれる十二人の弟子に限定されているわけではありません。主イエスに従って山の上まで来た人たちであります。主イエスの説教に耳を傾けている人たちであります。この人たちは、3節から12節の中で、「心の貧しい人々」「悲しむ人々」「義に飢え渇く人々」「義のために迫害されている人々」などと語りかけられております。いずれにしても、特別に優秀な人や、世の中に影響力を持っているような力のある人ではなくて、むしろ、力の弱い、小さな存在の人々に語りかけられているのであります。そのような「あなたがた」が「地の塩」であり、「世の光」であると言われているのであります。
 
そうでれば、「あなたがたは地の塩である」「世の光である」と断定的に言われているけれども、実は「あなたがたは地の塩であれ」「世の光であれ」ということではないか、「地の塩になるようにしよう」「世の光になるようにしなさい」という呼びかけ、促しではないだろうか、と考えてしまい勝ちであります。しかし、そのように受け取ったのでは、主イエスの権威あるお言葉を聴いたことにはなりません。そういうことであれば、主イエスでなくても言えることです。主イエスがここで言っておられるのは、そういうことではありません。主イエスは、私たちの現実をよく御存知の上で、なおかつ「あなたがたは地の塩である、あなたがたは世の光である」と断言しておられるのであります。ここで「あなたがた」とは、<誰でも>ということではありません。この時も、山にまでついて来て、主イエスの言葉を聞いている者たちに対して言っておられるのであります。主イエスに従っている者について、責任をもって保証しておられると言って良いでしょう。これは、私たちキリスト者の一人一人について言われていると受け取ってもよいでしょうが、キリストを頭とする教会について言っておられると受け取ることが出来ます。いずれにしても、ここで言われる「あなたがた」にはキリストがついておられるということです。キリストが私たちの中で働いて下さる、キリストが責任を持って、私たちを「地の塩」にして下さり、「世の光」にして下さるということであります。
 
では、「地の塩」「世の光」である私たちは(また教会は)、どのような働きをするのでしょうか。

1.あなたがたは地の塩である

まず、「地の塩」ですが、塩には二つの働きがあります。調味料としての働きと防腐剤としての働きであります。
 
塩は食べ物に味付けをいたします。味付けに欠かせないものでありますが、塩自体が食べ物ではありません。塩は食べ物の中で姿を隠しています。目に見えるようであれば、塩からくて食べられません。食べ物の中に隠れながら食べ物の味を引き出すという役割を果たします。そのように、キリスト者はそれ自体が独立して価値があるのではありません。神様が創られたこの地上の世界にあって、味付けをする役割を果たすのであります。地上における様々な人間の営みは、そのままで味わい深いものにはなりません。本当の意味で美しいもの、価値あるもの、神様に喜んでいただけるものにはなりません。そこに塩味が必要です。神様の御心にかなう味付けが必要であります。その役割を果たすのが、キリスト者であります。
 
塩はまた、腐敗を防止する作用があります。食べ物を日持ちさせます。今は冷蔵庫というものがありますが、冷蔵庫のない時代には、塩の働きは貴重でありました。今も、漬物などには塩が欠かせません。地上の世界は、そのまま放置すると腐敗するのです。罪が人間の世界を腐らせてしまいます。その中で、罪を贖われたキリスト者の存在が世の中を腐敗から守るのであります。
 
このように、キリスト者は(そして教会は)、この世にあって、人間の営みに、神様に喜ばれる味付けをし、罪による腐敗を防ぐ役割をするということなのですが、そのように言われると、自分にそんな働きが出来ているのかしら、むしろキリスト者である自分も、世の中を不味くしたり腐らせたりすることに加担しているのではないか、私たちも地球環境の破壊に加担したり、人と人との間に波風を起こしたりしているではないか、と思ってしまうのであります。しかし、主イエスは「あなたがたは地の塩である」と断定なさっているのであります。世の中に味をつけている、社会の腐敗を防止している、と言い切っておられるのであります。<もっと努力して、世の中を美しくしなさい>とか、<社会の諸悪と戦って、神様の御心に適う世界を造り出しなさい>、と言っておられるのではないのです。<あなたがたの存在そのものが、世の中の味付けになっており、腐敗防止になっている>とおっしゃるのです。――それはどういうことでしょうか。

2.塩に塩気がなくなったら

その答えは、「あなたがたは地の塩である」と言われた後の次の言葉に込められているように思います。こう言っておられます。「だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。」――これは、塩から塩気がなくなることに対する警告でありますが、ここで「塩気」とは何でしょうか。「塩気」とは塩自体に味を付けているものであります。キリスト者に味を付けているものとは何でしょうか。それはイエス・キリストその方ではないでしょうか。或いは「キリストの恵み」と言ってもよいかもしれません。キリスト者や教会からキリストやキリストの恵みが抜け落ちたら、もはや塩気のない塩と同じで、存在価値がありません。無用の長物になってしまいます。キリスト者の塩気とは、立派な人格とか才能とか親切心なんかではありません。キリスト者の信仰の中に生きておられる主イエス、私たちのために十字架に架かって死んで下さったお方こそが、味気のないこの世の現実に味をつけているのです。ですから、このお方を失っては、私たちは何の役にも立たなくて捨てられるしかない人間なのであります。けれども逆に、キリストまたはキリストの恵みを持ってさえいるならば、たとえこの世的な能力に欠けるところがあったとしても、この世に味をつけ、この世を腐敗から守る役割を果たすことが出来るのです。
 
塩で味付けをするということについて、パウロはコロサイの信徒への手紙でこう言っております。「いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。」(46)――私たちが発する言葉、私たちの日常の会話にキリストの味付けがされているか、キリストの恵みが語られているだろうか、と考えさせられます。しかし、主イエスは「あなたがたは地の塩である」と断言して下さいます。キリストを信じているならば、私たちの語る言葉には自然とキリストの味がつくということです。

3.あなたがたは世の光である

次に、主イエスは14節で「あなたがたは世の光である」とおっしゃいました。言うまでもなく、光は暗闇を明るくし、物の姿が見えるようにします。「世」というのは「地」と同じような意味で使われていますが、「世」はそのままでは暗闇です。そこは罪に染まり、死が支配しています。そこには救いがありません。しかし、ヨハネによる福音書によれば、その暗闇の世に光が輝いたのであります。それが神の言であるイエス・キリストです。主イエスはご自身でも、「わたしは世の光である」(ヨハネ812)と宣言され、「わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(同)と言われました。弟子たち、私たちが元々「光」なのではありません。しかし、光である主イエス・キリストに照らし出され、光をあびるとき、「世の光」とされるのであります。主イエスはここでも、「あなたがたは世の光である」と断定しておられるのであって、「世の光になりなさい」と言っておられるのではありません。パウロもエフェソの信徒への手紙の中で、「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています」(エフェソ58)と言っております。しかし、繰り返しますが、元々私たち自身が光源なのではありません。主イエスの光を受けて輝くのであります。太陽のような恒星ではなくて、月のように、太陽である主イエスの光を反射して光るのであります。

4.山の上にある町/燭台の上に置く

続いて主イエスは14節の後半から15節にかけてこう言っておられます。「山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。」
 
先程の「塩」というのは、姿を隠して味付けをします。自己主張はしません。それに対して「光」は輝くことによって、その存在を明らかにします。キリスト者(そして教会)は、塩のように隠れた姿で世の中に味を付ける一方で、山の上にある町のように、その存在を隠すことが出来ないという側面があるということであります。私たちは主イエスの光を受けました。罪の暗闇にいた者が、救いの光をあびたのであります。そうであれば、その光を反射せざるを得ません。そしてまだ暗いところに光を届かせなければなりません。「火をともして升の下に置く者は」いません。ともし火は、光が少しでも遠く広くにまで届くように、「燭台の上に置」きます。キリストの光を受けた者も、その光を覆うようなことはせずに、出来るだけ広くまで届くようにします。信仰を与えられた者は、与えられた恵みを自分だけのものにしたり、ある特定の範囲にだけ用いることはしません。信仰生活というのは、ひっそりと隠れて行うものではありません。信仰生活は日曜日に教会でだけ行なうものではありません。日曜日に光を受けた者は、月曜日から土曜日にも、教会の外での社会生活、学生生活、家庭生活の中ででも、受けた光を放つのであります。
 
と申しましても、私たちが主イエスの光を照り返すのは、私たち自身が輝いて見えるため、立派に見えるためではありません。周りが明るくなるため、人々がキリストの光の恵みを受けるためであります。そのためには、人の目をくらますような大きな光になるのではなくて、小さいけれども、人々の足もとをしっかりと照らす光を注ぐ必要があるのでしょう。世の中は明るいように見える所も、実は暗闇が覆っています。本当のものが見えていません。本当の光を求めて手探りをしています。そこへ向けてそっと本当の光を注ぐのです。キリストの光を反射するのです。そうすれば、光を受けた人は、キリストの光によって生かされるのであります。パウロはコリントの信徒への第二の手紙の中でこう言っております。「わたしたちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。」(Ⅱコリント436)私たちが福音の光に覆いをかけるようなことをしてしまってはなりません。もし私たちが自分自身の輝きを誇るようなことをすれば、イエス・キリストの光を覆うことになりかねません。私たちはあくまでも、主イエスのために仕える僕であります。天地創造の時に、神様は「光あれ」と命じられて、闇に中に光を創造されました。その神様は私たちの心の中にイエス・キリストの栄光を悟る光を与えられた、というのです。私たちはイエス・キリストの光を反射することによって、その神様の御業に関わらせていただくことが出来るのであります。

結.天の父をあがめるようになるため

最後に、16節の言葉を聴きましょう。「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
 
ここまで、「あなたがたは世の光である」と主イエスがおっしゃる場合、その光とは、私たち自身の中に光源があるのではなくて、主イエスの光を反射することだということを強調して参りました。しかし、ここに来て主イエスは「あなたがたの光を人々の前で輝かしなさい」と言われます。私たち自身の光を輝かすように求めておられるのであります。しかも、「あなたがたの立派な行いを見て」とまで言っておられます。私たちの立派な行いが光となって輝く、ということであります。そんなことは私にはとても出来ない、という思いが出て来ます。また、こんな言い方をされると、よい行いが目的になって、自分を誇ることにつながってしまうのではないか、信仰によって救われるというところから逸脱して、行為によって救われることになってしまうのではないか、という危惧を覚えるのであります。しかし、私たちは、そういう考え方をして、主イエスの光によって変えられる新しい生き方に踏み切ることを避けてしまっているのではないかということを、この主イエスの言葉によって考え直してみる必要があるのではないでしょうか。主イエスの光を受けた者は、当然、行いも変わる筈であります。主イエスの光がただ、私たちを素通りするのではない筈であります。もちろん、私たちの行いが立派であることによって、私たちが賛美されたり、私たちが鼻高々になるなら、どこかで間違っているのでありますが、私たちが変わらないで、主イエスの光を反射することも出来ないのであります。「あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」と言われています。ここで言う「立派な行い」とは、自分を輝かす行いではなくて、「人々が天の父をあがめるようになる」行いであります。そのような行いは、主イエスの光を受けることによって自然に出て来る行ないであります。「あなたがたは世の光である」と言って下さる主イエスの光によってもたらされるよい行ないであります。私たちはそのような力をもつ光を、升の下に隠してはなりません。燭台の上に置いて輝かせなければなりません。
 
主イエスは今日、私たちに「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」と言って下さいました。これから努力してならなければならない目標を示されたのではありません。こうして御言葉を聞いて、主イエスを信じる信仰に導かれた者は、既に「地の塩」「世の光」とされたのであります。なぜなら、主イエスが「地の塩」なって私たちに味付けをして下さり、「世の光」となって、暗闇の中にある私たちに光を注いで下さったからであります。私たちは、この主イエスを塩気として持ち、光として反射するなら、地にある人々、世の人々も天の父をあがめるようになるという奇跡が起こされるのであります。
 
祈りましょう。

祈  り

「地の塩」「世の光」となって下さった主イエス・キリストの父なる神様!御名を賛美いたします。
 
地の中に埋もれ、世の暗闇の中に座している私たちを招き出して、私たちのような者をも「地の塩」「世の光」の役目につかせて下さいます恵みを感謝いたします。
 
弱く、塩気を失いそうになる私たち、世の暗闇にも気づかず、偽りの明るさに目を奪われがちな私たちであります。どうか、真の「地の塩」「世の光」である主イエス・キリストに絶えず目を注がせて下さい。どうか、私たちの身の回りの多くの方々が、あなたをあがめることが出来ますように。そのために、私たちも用いて下さいますように、お願いいたします。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿> 2011年5月1日  山本 清牧師 

 聖  書:マタイによる福音書5:13-16
 説教題:「地の塩、世の光」
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