序.私たちの復活のために

復活節礼拝の説教では、普通、復活の朝における墓の場面や、弟子たちが戸を閉めて集まっていた部屋に主イエスが入って来られた場面が取り上げられることが多いですが、今日は、日曜学校カリキュラムに従って、マタイによる福音書の最後に書かれている、「大宣教命令」と呼ばれている箇所から御言葉を聴きたいと思います。
 
ここは、マタイによる福音書では、十一人の男の弟子たちがガリラヤで復活の主イエスに出会う場面であります。そして、主に出会っただけでなく、主イエスを裏切ってしまった弟子たちが、もう一度弟子として復活させられる場面でもあります。そういう意味では、復活節に聴くのに大変ふさわしい箇所であります。
 
この箇所は、昨年の「大会応援伝道」の際に、「黙想ワークショップ」を行った時に取り上げられたテキストで、出席された方はここをじっくりと読まれたわけですし、講師の青木先生の理解も示されたので、よく記憶に残っていると思います。「大会応援伝道の記録」の冊子にも、きっちりと記録されています。そのような所から新しいメッセージを聴き出すことは、私のような者には大変困難さがあるのでありますが、逆に言うと、昨年教えられたことを土台にして、より深いメッセージを聴き取る可能性もあるわけであります。
 
「黙想」について青木先生から教えられたことは、聖書に書かれている事柄を、単なる過去の出来事として読むのではなくて、現在の自分のこととして受け止める、ということでありました。自分のこととして聴こうとすると、大抵の場合、聖書の言葉にひっかかりを覚えます。そこから聖書に込められた深いメッセージを聴き取ることが出来るのであります。そうして聴かれるメッセージというのは、単なる聖書の教えが分かったとか理解出来たということに留まるものではなくて、私たちの生き方に関わって来るのであります。今日の箇所は弟子たちが復活の主に出会って、新しい生き方を始める場面でありますが、この箇所を通して、私たちもまた、復活の主に出会い、新しい生き方へと召し出されるのであります。私たち自身の復活が起こるのであります。では、私たち自身の復活のために何が語られているのか、そのことに耳を傾けたいと思います。

1.弟子たちの現実――私たちの現実

まず、弟子たちの現実の姿を見たいと思います。16節を見ますと、さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った、とあります。いきなりここに、十二人ではなくて、「十一人の弟子」という言葉が出て来ます。言うまでもなく主イエスを祭司長たちに引き渡したイスカリオテのユダが欠けているのであります。27章を見ると、ユダが首をつって死んだことが書かれています。「十一人」という数字は、そのような厳しい現実を物語っております。しかし、ここにやって来ている十一人の者たちは、裏切らなかった弟子たちというわけではありません。十一人の皆が、主イエスを捨て去ったのであります。筆者のマタイがここで「十一人の弟子たち」と書くときに、決して、<自分たちは正しい、勇気ある、確信に満ちた弟子たちである>という意味で書いているのではなくて、自分たちも主イエスを裏切ってしまうという、申し訳なくも、恐ろしいことをしてしまい、自分たちもユダと同じように死すべき者であった、との思いを持って記しているのではないでしょうか。
 
では、そのように主イエスを裏切った弟子たちは、その後どうしたのでしょうか。「弟子たちはガリラヤに行った」と書かれています。ガリラヤは弟子たちの出身地であり、主イエスの弟子として召されたのもガリラヤでありました。主イエスは最後の晩餐の席で、「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤに行く」(2632)と予告しておられました。また、復活の日の朝、墓で主イエスに出会った女の弟子たちには、「兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい」(2810)と命じられました。そういう主イエスの指示があったからガリラヤへ行ったと言えるかもしれません。しかし、弟子たちの心を覆っていたのは深い喪失感であって、主イエスが亡くなられてからは、もはやエルサレムに留まっている意味もなくなって、やむを得ず故郷のガリラヤに帰った、ということではないでしょうか。ルカによる福音書には、エマオに向かう二人の弟子の様子が書かれていますが、暗い顔をして、主イエスに対して抱いた望みが絶たれたことを語っています。彼らは主イエスに託した夢が破れ、失意のうちにガリラヤへ帰るほかなかったのです。この二人の弟子は十一人の弟子とは違うのですが、十一人の弟子とて同じような状態であったことでしょう。
 
ガリラヤに行って、イエスが指示しておかれた山に登ったと書かれています。おそらく、主イエスと弟子たちがよく登った山だったのではないかと思われますが、弟子たちはまさか、ここで主イエスにお会いできるとは、本気では思っていなかったのではないでしょうか。
 
さて、17節を見ますと、そして、イエスに会い、ひれ伏した、と書かれていて、復活の主イエスが目の前に現れて、弟子たちは礼拝するのであります。けれども、その後に、しかし、疑う者もいた、ということを付け加えているのであります。これは、ここにいた十一人のことではなくて、彼らの話だけを聞いた別の人々のことだと受け取っては間違いです。聖書は正直に、復活の主イエスにお会いしながらも信じられなかった者が十一人の中にいたということを記しているのであります。青木先生は、筆者のマタイが属していた教会の中に、主イエスの復活を疑っている人がいたという現実が重なっているのだ、ということをおっしゃいました。そのことは重要な指摘で、私たちの現実とも重なって来るのであります。しかし、目の前に主イエスを見ながらも疑った弟子がいたということも、そのまま受け止める必要があるのではないでしょうか。目で見たということが、必ずしも疑わないことにつながらない、ということであります。主イエスに会い、ひれ伏して礼拝までしても、疑うこともあるのであります。私たちもまた、礼拝していながら、疑ってしまうという現実があります。
 「黙想ワークショップ」の時に、19節にある、「すべての民をわたしの弟子にしなさい」とか、20節にある「命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と言われた「すべて」という言葉にひっかかるという発言がありました。主イエスがそのように言われた背後には、主イエスが教えられた「山上の説教」などの教えを「すべて」守ることが出来ないという現実がありましたし、マタイの属する教会の宣教活動においても「すべての民」を弟子にするような目覚しい活動が行われていない現実があったのでしょう。その現実は、私たち自身の現実やこの伝道所の現実とも重なるのであります。
 
以上、見て来ましたように、弟子たちが主イエスに出会い、ひれ伏し、また、私たちが主イエスの御言葉に接し、このように礼拝している中でも、疑う者もいるという現実、否、私自身が疑っているという現実があるのであります。

2.主イエスによってもたらされた新しい現実

しかし、今日の箇所から私たちが聴かなければならないもう一つの現実があります。そのことに心を向けてみたいと思います。
 
まず、覚えなければならないことは、28章の初めに書かれているように、この時点より何日か前の、週の初めの日の朝に、主イエスの遺体が収められていた墓が空になっており、墓を訪れた婦人たちに主御自身が現れ、婦人たちは主イエスの足を抱いて、その前にひれ伏し、「恐れることはない」という御言葉をいただいた、という現実であります。そして、そのことを裏側から証明することとして、1115節にあるように、主イエスが復活なさったという現実を否定することが出来ないことに慌てた祭司長たちは、「弟子たちが夜中に死体を盗んだ」というデマを流すのであります。
 
また、主イエスが婦人たちに「兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」(2810)と命じられたことが弟子たちに伝えられて、弟子たちは恐らく半信半疑でガリラヤに行ったのだと思われますが、そこには、主イエスに会えるという、驚くべき現実が待っていました。大事なことは、弟子たちがまだ疑いの中にあったとしても、この時既に決定的な出来事はもう起こっていた、主イエスは既にお甦りになっていた、という事実です。弟子たちはまだ信じられないでいたかもしれませんが、主イエスは弟子たちの前に立っておられたのであります。
 
山に登ったとあります。山の名前は記されていませんが、マタイ福音書では、山は特別な場所として描かれています。そこはおそらく、これまでにも主イエスと弟子たちが大切な場面で登った山であったのではないかと考えられます。主イエスは山上で説教をされました。主イエスのお姿が突然変わって光り輝いた変貌の出来事が起こったのも山でありました。主イエスはしばしば山で祈られました。山は神様との出会いの場でありました。その山で、もう一度主イエスに出会うことが出来、そこで、彼らは生ける主イエスの前にひれ伏した(つまり、礼拝した)のであります。今まで想像もしなかった、もう一つの新しい現実が確かに進行しているのであります。そこには、疑う者もいました。しかし、神様の救いの歴史が始まっているという新しい現実の中に既に突入しているのであります。その現実を打ち消すことは誰も出来ないのであります。
 
そしてそのことは、私たちの現実とも別のことではありません。私たちも疑いの中にあるかもしれません。私たちも弟子たちのように、期待と疑いが半分半分で礼拝にやって来ます。主の教えのすべてを守ることが出来ないという弱い現実も厳然とあります。しかし、決定的なことは既に起こってしまったのです。私たちが信じる前に、主イエスは既にすべてのことを備えて下さっているのであります。そして、疑わざるを得ない者をも主は礼拝の群から排除されません。主イエスは疑う人間をも、礼拝に招いて、弟子にしようとされるのであります。

3.主イエスの語りかけ

18節をご覧下さい。イエスは、近寄って来て言われた、とあります。主イエスは疑っている人間を排除されないばかりか、主イエスの方から近寄って来られるのであります。疑いの壁を主イエスの方から突き破られるのであります。それは主の復活の体が弟子たちに近寄ったというだけのことではありません。主イエスの御人格が、主イエスの愛が弟子たちに迫ったということであります。
 
同様に、主イエスはこの礼拝においても、私たちに近寄って来て、その御人格をもって私たちに迫って下さいます。私たちは弟子たちと違って、主イエスの復活のお体を見ることは出来ません。しかし、復活された主イエスの御人格はその御言葉を通して私たちに迫るのであります。そして、私たちを新しい現実にふさわしい者へと導かれるのです。では、主イエスは私たちに何と語られるのでしょうか。
 
まず最初に、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」とおっしゃいました。「天と地の一切の権能」とは、「天と地の全てを治める力」と言っていいでしょう。先程朗読しましたダニエル書7章の1314節に預言者ダニエルの見た幻が記されていました。そこには、「人の子」即ち主イエスが天の雲に乗る、永遠の王として描かれています。しかし、主イエスは天上の、現実とは離れた所だけを治められるのではなくて、「天と地の一切の権能を授かって」おられるのであって、地上の私たちの生活の場をも治められるのであります。地上には罪が満ちています。悪がはびこっています。悩みや悲しみに満ちています。しかし、主イエスは、そのような地上にある私たちを愛し抜けれ、十字架の死をもって罪の償いをされることによって、敵対するもの一切を滅ぼして勝利なさって、復活されました。こうして今や、天と地の一切は主の支配下にあるのであります。その権能を持って、まだ不安の中にある者、疑う者にも近づいて下さり、御自身の愛による支配の下に移し変えて下さるのであります。
 
主イエスは、復活のことを疑っている者たちに対して、その疑いを解こうとして、自分はこのようにして甦ったとか、このようにして死の力に勝利したというような説明はなさいません。そうではなくて、御自身の権能を宣言され、それに続いて、新しい伝道の命令をお与えになります。なぜなら、そこに主イエスの復活の力が明らかに示されるからであります。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」
 
「だから」とおっしゃっています。主イエスが一切の権能を持っておられるから、「あなたがたは行きなさい」と命じられているのであります。弟子たちはまだあやふやだから、行くのはもう少し待ちなさい、とか、もう少し訓練してから、というのではなくて、弟子たちはまだあやふやであっても、私が全てを治める権能を持っているのだから、行きなさい、ということであります。
 
主イエスは私たちにも同じように命じられます。行って私たちがなすべきことは、「すべての民をわたしの弟子にする」ことであります。全ての民とは、イスラエルの民だけでなく異邦人にも、ということであります。全人類ということであります。それは全ての民族というだけでなく、全ての階層の人、男も女も、富んでいる人も貧しい人も、健康な人も病んでいる人も、好きな人も嫌いな人も、協力的な人だけでなく、敵対的な人も、全ての人を主イエスの弟子にするように命じられているのであります。それは、主イエスが全ての人をお招きになっているからであります。私たちが勝手に、この人は弟子に相応しいとか相応しくないとか、あの人は信仰に入るのは難しいとか、決めてはいけないということです。私たちが人を見分け、知恵を出し、説得して弟子にするのではありません。主イエスの権能が、主の復活の力が、すべての民を弟子にするのであります。私たちのすべきことは、どのような人にも主の復活の福音を宣べ伝えるだけであります。
 
主イエスは続けて、「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と命じられます。洗礼を授けることと、教えることが命じられています。洗礼というのは、主イエスの弟子になるしるしであります。それは単に、その人が決心して教会に加わるための儀式ではありません。それは「父と子と聖霊の名によって」と言われているように、三位一体の神様がその全人格をもって、その人を救われる、ということであります。造り主なる父なる神様が、罪に死んでいる者を再創造されます。御子イエス・キリストが、十字架の犠牲をもって罪人を贖い出して下さいます。そして、聖霊なる神様が、その人に信仰を与え御心に従って生きる力を与えて下さいます。それが洗礼によって起こることです。では、どうすれば、この三位一体の神様が働く洗礼へと導くことが出来るのか。それは、主イエスの救いの御業、即ち、十字架と復活の御業を宣べ伝える以外の方法はありません。
 
洗礼を授けることと共に命じられていることは、主イエスが「命じておいたことをすべて守るように教える」ことであります。主イエスは山上の説教をはじめ、色々のことを弟子たちに教えられました。それを他の人にも教えなさい、と命じられるのです。しかしそれは、主イエスの教えを新しい律法のように教えるということではありません。主イエスが教えて下さったことは、律法学者やファリサイ派の人々のように、律法を形式的に守れば救われるということではなくて、救われた者が、その感謝から出て来る生活はこのようなものだということをお示しになったのであります。そうであれば、ここで「教えなさい」と言われていることは、ああしなさい、こうしなさいと教えることであるよりも、自分が先に弟子とされた者として、救われた感謝をもって生きていることを示すことであります。神様の御心に従う生活を身を持って行うことが、主イエスの教えを伝えることになるということであります。
 
しかし、そんな風に考えますと、去年の「黙想ワークショップ」の時に私が述べましたように、「すべて守るように教える」ことなんか、自分には出来ないのではないか、という思いに囚われてしまいます。けれども、ここで主イエスが言っておられるのは、主イエスが教えられたことを完璧に行なう生活を無理矢理に行うことではありません。主イエスによって罪深い者が赦された恵みを心から感謝しておれば、自然に出て来る生き方であります。主イエスの復活の命が私たちの生活の中に生きづいて来るということであります。そして、そのことによって、主イエスが甦られたことの確かさを、私たち自身が知ることが出来、人にも示すことが出来るのであります。

結.いつもあなたがたと共に

 イエスは
20節の最後で、こう言っておられます。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
 
青木先生はこの言葉が主イエスの誕生の時に天使によって語られたことと響き合っているということを言われました。天使はヨセフにこう言いました。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(マタイ123)このインマヌエルという名は、「神は我々と共におられる」という意味でありました。主イエスが地上に誕生されることよって、「神様が共におられる」ということが事実となったのでありました。長いイスラエルの歴史の中で示されてきた神様の真実、聖書を貫く真実は、イエス・キリストの誕生によって現実のものとなりました。そして、その真実は、主イエス・キリストの御生涯の中で表わし続けられて、ついに、十字架と復活によって頂点に達したのであります。そして、復活された主イエスは、今度は自らの口をもって、同じことを語られます。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」――「同じこと」と申しましたが、違いがあります。それは、「神は我々と共におられる」というのが「わたしがあなたがたと共にいる」に変わったことであります。神様の約束が主イエスによって受け継がれたのであります。それは、歴史を貫き、聖書を貫く神様の真実が、主イエスによって実現し、それが終わりの日まで続くということであります。私たちはそのような新しい現実の中に招かれ、生かされているのであります。私たちはこの真実に感謝し、それに応えて、「すべての民をわたしの弟子にしなさい」という宣教命令に従って、主が共にいて下さることを、終わりの日まで語り伝えるのであります。そして、そこには必ず新しい復活の命が育ちます。そのことによって、主イエスの復活がいよいよ確かな現実であることを知ることが出来るのであります。
 
祈りましょう。

祈  り

恵み深い父なる神様!
 
歴史の初めから世の終わりまで貫かれるあなたの真実に、私たちもあずかる者とされましたことを感謝いたします。
 
疑いと迷いに陥りがちな私たちでありますが、なお私たちを召して宣教の業に当らせて下さいます恵みを感謝いたします。
 
あなたが、主イエス・キリストにおいて共にいて下さらなければ、弟子であることを続けることが出来ない者であります。
 
どうか、礼拝において、御言葉において、聖霊において、絶えず近くにいて下さい。
 
どうか、召されてこの伝道所と関係を持っている者が、一人も失われることなく、救いに入れられますように、お導き下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿> 2011年4月24日  山本 清牧師 

 聖  書:マタイによる福音書28:16-20
 説教題:「いつもあなたがたと共に」
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