「この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」  (マタイによる福音書2639 
 過越の食事を終え、弟子たちと共にゲツセマネに来られた主イエスは、悲しみもだえ始め、弟子たちに「わたしは死ぬばかりに悲しい」と言われ、「この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈られた。ここまで、十字架に向かって敢然と進んで来られた主が、なぜここに来て、悲しみ悩み、このような祈りをなさるのか。このゲツセマネの祈りにはどのような意味があるのか。
 
1)主イエスが悲しんでおられるのは、親しい者との別れや、志が半ばで世を去らなければならないからではない。主は私たち人間の罪と、その結果である死を悲しんでおられるのである。主は「人の子」として、人間の罪による苦しみ、悲しみを共に担って下さっているのである。
 
2)主イエスは死の苦しみや恐怖と戦っておられるのではない。神によって裁かれるべき人間が、サタンの手先になって、事もあろうに神の独り子を十字架につけようとしている。このような人間の罪が見過ごされてよいのか、それが神の御計画なのだろうかを問うておられるのである。
 
3)しかし、主イエスは、自分の思いや正しさを主張されるのでなく、「わたしの願いどおりではなく、御心のままに」「この杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように」と祈られ、神の御心に御自分を委ねておられる。これは、神を信じきる信仰の戦いの祈りであり、信仰において勝利されたのである。
 ところで、この激しい祈りの間、弟子たちは「目を覚ましていなさい」と命じられていたにもかかわらず、眠りこけてしまった。主は彼らについて、「心()は燃えても、肉体()は弱い」と言われた。これは、神の霊は燃えているが、人間の罪の弱さの中に留まっている、との意味である。だが、これが主イエスと弟子たちや私たちとの関係の現実である。しかし、主イエスは「立て、行こう」と呼びかけられる。主は独り目覚めて、十字架に向かわれる。主イエスは弱い私たちのために、先頭に立って、救いの道を歩んで行かれ、復活後の新しい出発に備えて下さるのである。

 米子伝道所主日礼拝説教<要 旨> 2011年4月17日  山本 清牧師 

 聖  書:マタイによる福音書26:36−46
 説教題:「御心が行われますように」
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