序.ゲツセマネの祈りの意味を問う

先週は、主イエスが十字架を目前にして、弟子たちと一緒に過越の食事をされた場面から御言葉を聴きました。食事が終わると、いつものように、主イエスと弟子たちはオリーブ山の一画にある「ゲツセマネ」と呼ばれる所に行って祈られました。今日のマタイによる福音書2636節以下の箇所は、そのゲツセマネの園での祈りの場面であります。ゲツセマネという名は「油絞り」という意味があります。オリーブの木から油を搾る場所であったので、そのような名前がつけられたと説明されています。その場所で、主イエスは、(先程の朗読でお分かりの通り、)苦悩に満ちた激しい祈りをされました。主イエスはそこで、オリーブの油を搾るのではなくて、御自身の汗を搾る出すような祈りをされたのであります。
 
しかし、この祈りは、私たちにとって理解しにくい祈りであります。なぜ、ここに来て悩まれるのか。ここまでは敢然と十字架に向かって進んで来られた主イエスが、いよいよ十字架を目前にして、なぜ「この杯を過ぎ去らせてください」というようなお祈りなさるのか。これは私たちにとって大きな疑問であります。一方、弟子たちはどうであったかというと、主イエスから何度も死の予告を受けていながら、そのことを理解出来ませんでしたし、先週聴いたように、主イエスはパンと杯を弟子たちに与えることによって、十字架の贖いの話もされたのでありますが、何のことだかよく分からないまま、苦悩の祈りをしておられる主イエスを置いて、眠りこけてしまいました。
 
一体、このゲッセマネの園で何が起こっていたのでしょうか。主イエスの祈りはどういう意味をもっているのでしょうか。この主イエスの祈りと弟子たちの有様は、私たちに対して、何を語りかけているのでしょうか。今日は、そのことを問いながら、与えられた箇所から、主の御心を聴き取りたいと思います。
 

1.悲しみの祈り――人の子としての祈り

まず、36,37節には、このように書かれています。それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。――ここは主イエスがいつも祈られる場所であったのでしょう。だからユダはこの後、祭司長をその場所に連れて来ることになります。そこではいつも主イエスは弟子たちから離れて、一人で祈られました。神様と一対一の対話をなさるためであります。しかし、今回は、ペトロとゼベダイの子二人の三人を伴われました。この三人は、これまでも重要な場面で連れて行かれました。会堂長ヤイロの娘を生き返らせた時も、山の上で主イエスのお姿が真白に輝いた時も、この三人を伴われました。それは、この三人が優れた弟子だったからというのではなくて、それらの出来事を後の世に伝えるためであったと思われます。この日ここで祈られる主イエスのお姿を伝えるために、三人を近くまで伴われました。
 
そして、そこで弟子たちが見たのは、「悲しみもだえ始められた」主イエスのお姿でありました。38節には、彼ら三人に向かって、「わたしは死ぬばかりに悲しい」と、その心中を語っておられます。主イエスは、悲しんでいる人々を慰め、悩んでいる人の友となって希望をお与えになることが出来るお方でありました。死をも恐れないお方である筈であります。それなのに、御自分がやがて捕えられ、十字架に架けられることが、もはや避けられない状況になった今、悲しみもだえておられるということは、どう理解すればよいのでしょうか。
 
主イエスが悲しんでおられるのは、死んで親兄弟や弟子たちと分かれなければならないからではありません。若くしてこの世を去らなければならない悔し涙を流されているのではありません。神様の御心を人々に伝えきれないまま去らねばならない無念さの故でもありません。私たちがまず気付かなければならないことは、主イエスが何のために十字架にお架かりにならなければならなくなったのか、ということであります。それは主イエスを受け入れず、邪魔者扱いしたり、知らぬ顔をする私たちの罪のためであります。それは神様を信じず、神様に顔を背けたり、神様から逃げようとすることにつながります。そのような罪は、神様の裁きを免れることは出来ません。人の罪の先には必ず死が待っています。主イエスは、その私たちの罪とその結果である死を思って悲しんでおられるのであります。
 しかし、それにしても、神の子であるイエス・キリストが何故この期に及んで悲しみもだえたり、「死ぬばかりに悲しい」とおっしゃらなければならないのでしょう。人間の悲しみを超越したお方ではないか、と私たちは思うのです。このことに関して、ヘブライ人への手紙57節に、このように書かれています。「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。」――これは、ゲツセマネの祈りの時のことだけを述べたものではなくて、主イエスの御生涯の全体を言ったものと受け止められますが、主イエスは「肉において生きておられたとき」と述べています。主イエスは、なるほど神の子でありました。しかし、その神の子が肉においては「人の子」として、地上の生を生きられたのであります。「人の子」になられたということは、人間のような外見をとられた、ということだけではありません。正真正銘の人間、恐れたり悲しんだりする、まことの人間として、十字架に向かわれているのであります。十字架の出来事は台本に従って進められる劇のようなものではありません。十字架を前にして悲しみにもだえておられるのは、演技なんかではありません。事実、人間として苦しみ、悲しみ、もだえておられるのであります。悲しむ者と共に悲しみ、泣く者と共に泣く人間として、苦しみを共に担って下さっているのであります。

2.死との戦いの祈り――贖い主としての祈り

次に、39節の初めに、少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた、とあります。ここの所はマルコ福音書では「地面にひれ伏し」とありますし、ルカ福音書では「ひざまづいて祈られた」とあります。それらは礼拝の姿勢であり、心砕かれた祈りの姿であります。主イエスは罪は犯されなかったが、罪人の一人として、またその代表として、裁き主である神様の前にひれ伏しておられるのであります。
 
そして、こう祈られました。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」――「杯」というのは、聖書の中では祝福の印としても用いられますが、神の怒り、神の裁きや苦難、死を表わしています。ここではもちろん、後者の意味です。主イエスは、神様の怒りの結果である死の裁きと戦っておられるのであります。ここで祈っておられることは、人間的な意味での苦しみと死を避けたいと望んでおられるのではありません。死の恐怖とか、親しい者たちとの別離の辛さを回避したいということではありません。主イエスはもっと深刻な問題、もっと大きな危機について悩んでおられるのであります。それは、神様の御計画と決定に直面されていることによる悩みであります。今、神様によって起こされようとしていることは、神の子が罪ある人間によって殺されるということであります。神様によって審かれるべき人間の罪が、事もあろうに、神の独り子を十字架に架けようとしている。そのような事が見過ごされてよいだろうか。罪から救われなければならない人間が、救い主を捨てるという罪、しかも、愛する弟子たちが、その恐ろしい罪に加担するというような事があってよいのだろうか、という問題であります。
 
主イエスは御自分のことを心配しておられるのではありません。弟子たちのこと、イスラエルの人々のこと、私たちのことを心配しておられるのであります。弟子たちはまだ自分たちの罪のことで悩んでいません。私たちも自分の罪のことでそれほど深刻に悩んでいません。彼らや私たちが悩む前に、主イエスが代わって悩んでおられるのであります。主イエスは、<御自分が十字架にお架かりになることが本当の救いになるのか、神様の救いの事業が達成出来るのか>、ということを心配しておられるのであります。
 
これは、神様がなさろうとすることを疑ったり、神様に反抗して戦っておられるのではありません。悪魔の手先になっている罪人に御自分を引き渡すことが、最終的に神様の勝利につながるのか、そのことを信じるのかどうか、という戦いであります。これは信仰の戦いであります。主イエスは、ここで直ちに弟子たちの裏切りを止めることもお出来になります。祭司長たちの計略を覆すこともお出来になります。罪人たちを審いて十字架を回避することもお出来になります。けれども、そのような神の子の力を行使しないで、ただ神様の御計画を信じるかどうかの戦いを戦っておられるのであります。
 
3.御心を求める祈り――神の子としての祈り

このような戦いは、普通の人間の戦いではありません。神の子だからこそ出来る戦いであります。ここで思い出すのが、主イエスの荒野での悪魔との戦いであります。サタンは三つの誘惑を仕掛けて来ました。一つは空腹の中で石をパンに変える誘惑であり、二つ目は神殿の屋根から飛び降りたら天使が支えてくれるかどうかという誘惑であり、三つ目は悪魔を拝むなら全ての国を与えようという誘惑でありました。それらは、主イエスが神の子であるからこそ遭われた誘惑であります。ここでの戦いも神の子であるからこその戦いであります。ゲツセマネの祈りの戦いは、荒野の誘惑の時から続いた戦いの総決算であると言ってもよいでしょう。しかし、このゲツセマネの祈りの戦いは、荒野の誘惑での戦いと全く違うところがあります。荒野の誘惑での戦いは、悪魔を御言葉によってやっつけて、サタンを追い払った勝利の戦いでありました。しかし、ここでの戦いは、悪魔の手先になってしまっている罪人たちに、御自分を引き渡してしまうという戦いなのです。主イエスが十字架にお架かりになるということは、主イエスの負けであったと、誰もが思うのであります。しかし、それが悪魔に対する完全な勝利であり、罪からの救いの御業であったのであります。
 
39節の後半で、「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と祈っておられます。ここで主イエスの「願い」とは、自分が苦しみを受けないことや、自分が死なないことではありません。そうではなくて、愛する人々が罪を犯さないこと、そして神様の審きを受けないことであります。そのために、御自分が十字架に架かることが役に立つのかどうか、自分の死が、人々の救いにつながるのかどうか、を問いかけられたのであります。しかし、主イエスは、神様の御意志に逆らって、自分の疑問や意見を主張なさいません。神様の御心が何処にあるのかを問われます。そして、神様の御意志に従おうとされつつ、その御心を確かめておられるのであります。
 
この後、一旦弟子たちのところへ戻られますが、42節では、二度目に向こうへ行って祈られたのも、「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように」という言葉でした。主イエスが神様からお聞きになった御心は、御自分がこの苦難と死の杯を飲む以外に、人々の罪を救う道はない、ということでありました。罪人が罰せられるのではなくて、罪のない御自分が身代わりとなって十字架に架かるほか、罪人が救われないということでありました。
 
「御心が行われますように」というのは、主イエスがマタイ福音書610節で教えて下さった「主の祈り」の第三の祈りと同じ言葉であります。私たちが普段唱えております「主の祈り」の第三の祈願は多少言葉が違って、「御心の天に成る如く、地にも成させ給え」でありますが、意味は同じです。主イエスは弟子たちに教えられた祈りを、自らここで父なる神様に祈っておられるのであります。祈られただけではありません。祈ってお聞きになった神様の御心に従おうとされているのであります。御自分を神様に委ね切っておられます。ここに、神の子イエス・キリストの勝利があります。

4.目を覚まして祈る――私たちの祈り

ところで、この激しい祈りの間、弟子たちはどうしていたのでしょうか。主イエスは弟子たちから少し進んで行って、一人で祈られる前に、38節にあるように、「ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」と言われました。しかし、一度目の祈りのあと、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロにこう言われました。「あなたがたはこのように、わずか一時(いっとき)もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」4041
 
弟子たちがこの時、たとえ目を覚ましていたとしても、主イエスと同じ思いになることは不可能であったでしょう。また、弟子たちがこの時、たとえ祈っていたとしても、主イエスと同じような祈りをすることは出来なかったでしょう。この時の主イエスの祈りは、元来、孤独な祈りであります。神の子キリストにして祈れる祈りであり、神の子にして悩まなければならない苦悩でありました。それでも主イエスは、弟子たちと一緒にゲツセマネに来られ、共に目を覚ましているよう求められたのであります。頼りない弟子たちであっても、主イエスの悩み・主イエスの祈りの近くにいて、目を覚ましていて、少しでも主イエスの苦しみを共有することを望まれたのであります。それにもかかわらず、弟子たちは祈ることはおろか、目を覚ましていることすら出来ず、眠ってしまったのであります。
 
主イエスは「心は燃えても、肉体は弱い」と言われました。この言葉はしばしば誤解して用いられています。普通、<心では一生懸命にやろうという意欲はあるのだけれども、体がついて行かない>という意味で使われます。<人間には肉体的限界があるので、やむを得ない>というような言い訳に用いられます。主イエスがおっしゃったのも、弟子たちの肉体的な弱さを思い遣った言葉として受け止めてしまい勝ちであります。「心」と訳されている言葉は、普通は「霊」と訳される言葉です。「霊」とは元来、神様のものであり、神様が注いで下さるものです。その「霊」は燃えていて、前向きなのであります。一方、「肉体」と訳されている言葉は、普通は「肉」と訳されていますが、それは「精神」や「心」に対する「肉体」ということではなくて、人間そのものを表わします。人間が神様に背いている姿=罪に対して弱い存在であることを「肉」と言います。ですから、「心は燃えても、肉体は弱い」という言葉の本来の意味は、<神様の霊は燃えていて、御心に沿う気持ちを起こさせているのだが、人間の持っている神様に背く罪の弱さの中にまだ留まっている>ということであります。そのことを主イエスは嘆いておられるのであります。
 
三度目の祈りをされて戻ってこられた時も、弟子たちはまだ眠っておりました。主イエスは「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる」(45)と言われました。まさに、霊に満ちた主イエスの呼びかけに対しても、罪から目覚めなかった弟子たちの姿が描かれているのであります。これが弟子たちと主イエスの関係の現実でありました。そして、このように主イエスと共に目覚めて祈ることの出来なかった弟子たちは、皆、結局、主を裏切らざるを得なかったのであります。
 
主イエスは、私たちにも目覚めて祈る者であることを望んでおられます。主イエスと苦しみを共にするまでには至らなくても、目覚めて主の苦悩を見ていることを望んでおられます。しかしどうでしょうか。主イエスは私たちに対しても、「あなたがたはまだ眠っている、休んでいる」とおっしゃらないでしょうか。弟子たちと主イエスとのこの時の関係は、私たちと主イエスとの関係でもあります。裏切ってしまう関係です。しかし主イエスは、裏切ってしまう弟子たちのためにも祈っておられ、彼らのためにも執り成しをなさって、十字架への道を歩まれるのであります。主はまた、眠ってしまう私たちのためにも、執り成しの祈りをして下さり、御自身を贖いの供え物として献げて下さったのではないでしょうか。
 

結.「立て、行こう」――私たちの先頭に立って

さて、主イエスは45節の後半で、「時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される」と言われました。父なる神様の御心が行われる時が来たのであります。まことの神の子であり、まことの人の子であるお方が、罪人たちの手に引き渡されるのであります。しかし、その引き渡し(=裏切り)が罪人たちに救いを引き渡す唯一の道でありました。「立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た」と言って、弟子たちを促されます。弟子たちはまだ眠っていました。まだ罪の中にいます。しかし、主イエスは独り目覚めておられます。そして、独りで十字架への道を歩まれます。それが父なる神様によって示された救いの道であります。
 
弟子たちは重い瞼(まぶた)を開いて、主イエスについて行ったのでありますが、彼らの目が本当に開かれるのは、復活の後になってからでありました。32節の所で、主イエスは「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」とおっしゃっていました。ガリラヤは弟子たちが最初に召命を受けた地であります。そこで、復活の主に出会うことになるのであります。そして、罪深い弟子たちが福音宣教のために再出発することになります。主イエスはその再出発の地へ先に行って、待っていて下さるのであります。
 
眠りこけている弟子たちの中には、再出発の備えも兆しも力もありません。主が先に備えておられました。何の当てもなく、トボトボと故郷のガリラヤに帰った弟子たちに、復活の主が出会われます。同様に、まどろみ勝ちな私たちの「肉」の中には、再出発の備えもエネルギーも信仰もありません。けれども、主が先頭に立って、救いの道を整え、新しい出発に備えて下さっているのであります。主は今日も、私たちの先頭に立って、「立て、行こう」と呼びかけて下さっています。この主に従って行くものでありたいと思います。私たちにどれほどのことが出来るのか分かりません。邪魔をするだけの弟子かもしれません。しかし、そんな私たちをも福音の宣教のために、そして世界の救いのために用いようとして下さっているのであります。
 
祈りましょう。

祈  り

まどろみ勝ちな私たちを、今日もこうして礼拝に招いて下さって、独り祈っておられる主イエスのお姿を拝し、御言葉を聴くことを許して下さって感謝いたします。
 
私たちは、主イエスのお苦しみを知り尽くすことは出来ませんが、どうか絶えず御言葉によって、目覚めさせられ、主の恵みに気づかせて下さい。どうか、主が先立って下さるが故に、その招きに従って行く者たちとならせて下さい。
 
どうか、迷いの中にある者、これまで大切にして来たものを捨てきれずにいる者にも、あなたが最高のものを備えていて下さることを気づかせて下さい。そしてどうか、掛け替えのない救いに入れられますように。そしてどうか、新しい生き甲斐を与えられますように。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿> 2011年4月17日  山本 清牧師 

 聖  書:マタイによる福音書26:36-46
 説教題:「御心が行われますように」
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