「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」
                       (マタイによる福音書262728 

 主イエスと弟子たちによる「最後の晩餐」は、主イエス御自身が用意されたものであり(261719)、主の御生涯全体がこの時のための準備であったと言える。また、この箇所のすぐ前にはユダの裏切りの予告があり、すぐ後にはペトロの離反の予告があって、弟子たちが裏切りへと進む真只中で、この晩餐は行われた。更に、この晩餐を長期的スパンで見ると、約1300年前の出エジプトの際の過越の体験と、2000年にわたる教会における聖餐の歴史、それに「父の国で新たに飲むその日(再臨の時)」(29)まで繰り返し守られることになる聖餐の中心点にあって、過去と将来の救いの歴史全体に意味を与えるものである。
 
さて、主イエスは「パンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与え」られた。それは、過越の食事の型通りであるが、そこで語られたことはユダヤの伝統とは全く違っていて、「取って食べなさい。これはわたしの体である」と言われた。主は差し出されたパンのように、御自身の「体」(御自身の全部)が、やがて十字架の上で裂かれて、弟子たちに与えられるのである。そして主の「体」を食べる者は、主の命に与ることになる。
 続いて、「杯を取り、感謝の祈りを唱え」たあと、標記のように言われた。かつて流された小羊の血がイスラエルをエジプトにおける奴隷状態から救ったように、十字架の上で流される主イエスの血が、多くの人の罪からの救いになる。この「血」を飲む者は、罪の赦しの保証付の命、死に至ることのない命に与ることになる。主は「皆、この杯から飲みなさい」と言われているように、ユダも含めて一人残らず、主イエスの体と血を提供されたのであり、裏切り者たちの悪意も弱さも、すべて御自分の体と血で受け留めながら、それが罪人たちの贖いとなることを信じて、命を献げようとなさっているのだ。
 これらのパンと杯に信仰をもって与る者には、神と主イエスとの間に新しい契約が成立する。聖餐はそのことを確認する場であり、神の国における主との交わりの完成を約束するものである。

 米子伝道所主日礼拝説教<要 旨> 2011年4月10日  山本 清牧師 

 聖  書:マタイによる福音書26:26−30
 説教題:「罪が赦されるように」
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