序.裏切りが進む中で

今日与えられておりますマタイ福音書2626節~30節は、主イエスが弟子たちとの最後の晩餐の席で、パンと杯によって、御自分の十字架の死の意味を明らかにされた箇所でありまして、私たちが行っています聖餐式が制定された根拠となっている大切な場面であります。先週、直前の段落の17節~19節の所で聞きましたように、この晩餐は過越の食事でありましたが、その席は主イエス御自身が用意されたものでした。ルカによる福音書の併行箇所によれば、主イエスがはっきりと、「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた」(ルカ2215)と言っておられます。主イエスは御自分の死の時が近づいたことを知って、急に思いついて弟子たちと一緒に食事をしようと思われたのではなくて、ずっと以前から願っておられたのであります。ある意味では、主イエスのここまでの御生涯全体が、この最後の晩餐の準備であったと言ってもよいかもしれません。
 
今日の箇所に入る前に、もう一つ確認しておきたいことがあります。これも先週聞いたことでありますが、直前の2125節の箇所で、弟子の一人であるユダの裏切りのことを明らかにされました。そして、今日の箇所のすぐ後には、ペトロの裏切りのことを予告なさるのであります。つまり、弟子たちが裏切りへと進んで行く真只中で、この晩餐が行われたということであります。主イエスは弟子たちの裏切りを御存知であり、彼らの罪が露わになる前のこの時を選んで、御自分の死の意味を明らかにされたのであります。今日の箇所の最初の26節は、一同が食事をしているとき、という言葉で始まっています。この「一同」の中心はもちろん主イエスでありますが、同時にそこには、あの裏切り者のユダも加わっていますし、主イエスを三度知らないと言うことになるペトロも含まれていますし、31節で「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく」と言われた弟子たちがいるのであります。
 このことは、ここで制定され、今も続けられている聖餐の席というのは、このように裏切りの弟子たち、即ち、私たちのような罪深い者たち一同のために設けられた席であるということであります。聖餐式は敬虔な信仰深い信者のために設けられた場というよりも、罪にまみれた裏切り者の私たちのために設けられた場なのだということを覚えたいと思います。今日は聖餐式は行われませんが、この会堂の講壇にはいつもこのように聖餐卓が備えられています。毎週の礼拝は、主の御言葉を聴くと共に主が備えられた晩餐に与っていることを覚える時であります。主は今日も、私たち罪にまみれた裏切り者のために、礼拝を備えて、お招き下さっているのであります。

1.エジプト→教会→父の国

更に、この主の晩餐の位置づけについて、長期的なスパンの中で覚えておかなければならないことがあります。この晩餐は除酵祭の第一日に行われた過越の食事でありました。先週もお話しましたように、この祭の起源はイスラエルの民が神の導きによってエジプトから脱出したことを記念するものでありました。脱出のとき、小羊を屠って、その血を家の入口の柱と鴨居に塗ることによって、災いが過越したことを覚える食事でありました。そのことと、ここで主イエスが杯によって示された主イエスの血とが、ここまでの1300年ほどのイスラエルの歴史を通してつながっているのであります。そしてこの時に定められた聖餐の儀式が、2000年の教会の歴史の中で繰り返されて来ましたし、今日の箇所の29節で主イエスが仰っている、父の国であなたがたと共に新たに飲むその日、即ち再臨の日まで繰り返して守られることになるのです。つまり、今日の箇所で主イエスがなさったこと、仰ったことは、長い神様の救いの歴史の中心点にあって、救いの歴史全体に意味を与えるものなのであります。――以上のことを踏まえて、今日の箇所で主イエスがなさったことを見て行きたいと思います。

2.取って食べなさい/この杯から飲みなさい―キリストを飲食する

さて、ユダヤ人の家庭における過越の食事の仕方は、非常に複雑な手順を踏んで行われたようでありますが、この最後の晩餐の時に、ユダヤの伝統的な仕方に従って行われたのかどうかは分かりません。ここには煩雑なことは書かずに、基本的なことだけが書かれています。
 
まず、26節後半にあるように、主イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えられました。ユダヤの家庭では、一家の主人が過越の食事全体を取り仕切りましたが、ここでは主イエスが主人の役をしておられます。過越の食事における主人の役割というのは、そこで行われる一つ一つの事柄の意味を語ることによって、かつて出エジプトの時に行われた神様の恵みを思い起こさせ、その恵みの神様が今も自分たちを支えていてくださるということを証しすることでありました。ところが、主イエスは単に過去の神様の救いの御業を語ったり、その恵みを証しするということではありません。実際に御自身が神様の救いの御業を成就され、神様の恵みを弟子たちや私たちにもたらすお方として、また、来るべき神の国の王として、弟子たちをこの最後の晩餐の食卓に招かれ、また私たちを聖餐の食卓にお招きになるのであります。
 
主人である主イエスがパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えられたという行為自体は、過越の食事の型どおりのことであります。しかし、そうしながら言われたことは、伝統的な過越の食事とは全く違うことでありました。――「取って食べなさい。これはわたしの体である。」――差し出されたパンのように、主イエスの体が、やがて十字架の上で裂かれて、弟子たち、私たちに与えられるのであります。「体」というのは、この当時の人々の考え方からするなら、自分自身ということであります。体の一部分というのではなくて、自分自身全部ということです。ですから、主イエスのすばらしい人生観や教訓だけを与えるというのではありません。また、御自身が持っておられる大きな力の一部を私たちのためにも用いて下さるということでもありません。そうではなくて、御自身の全体を、命と力の全てを私たち人間のために差し出しておられるのであります。「取って食べなさい」と言われました。主イエスの体を食べるとはどういうことでしょうか。パンを食べて生きるように、キリストの体を食べて生きる、生命を与えられる、ということであります。単に主イエスに好意を寄せるとか、人生の参考になる教えを学ぶといった関係ではありません。主イエスの命が私たちの命になるということ、主イエスの生き方が私たちの生き方になる、ということであります。
 
続いて27節を見ますと、また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。」とあります。過越の食事の中では4回、杯にぶどう酒が注がれました。ぶどう酒はかつての出エジプトの際に屠られた小羊の血を表わすものでありました。小羊の血が家の柱と鴨居に塗られることによって災いを免れることができました。その恵みを感謝するために、ぶどう酒が注がれました。ところが、主イエスはここでも、そのぶどう酒に新しい意味を与えられました。28節で、「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と言われました。かつて流された小羊の血のように、十字架の上で主イエスの血が流されます。そして小羊の血がイスラエルの民を救ったように、主イエスの血が多くの人の罪からの救いになる、とおっしゃるのであります。そして、「皆、この杯から飲みなさい」と言われます。主イエスの血が私たちの体の中に入って、私たちの血になるのであります。罪からの救いが私たちのものとなる、ということであります。先ほど、主イエスの体であるパンを食べて、主イエスの命を頂くのだということを申しましたが、その命とは、ただ生きているだけの命ではなくて、主イエスの血によって贖いとられた命であります。罪の赦しの保証つきの命、従って、もはや死に至ることのない命であります。
 ところで、この過越の食事の席で、主イエスの「体」が与えられ、「杯」を渡された相手は、初めに確認しましたように、十分に信頼に足る弟子たちではなくて、御自分を敵対者に売ろうとしている者であり、主イエスを「知らない」と言って裏切ることになる者たちであります。「、この杯から飲みなさい」と言われているように、ユダも含めて、一人残らず、主イエスの体と血を提供されたのであります。裏切り者たちの悪意も弱さも、すべて御自分の体と血で受け留めながら、それがこの罪人たちの贖いとなることを信じて、命を献げようとしておられるのです。
 
ここで、「弟子たちに与え」「彼らに渡して」と言われている言葉は、先週申しました、「裏切る」とか「引き渡す」という言葉の元になる言葉が使われています。ここでも主イエスは御自分を弟子たちに、そして私たちに引き渡されたのであります。これは、もはや弟子たちや私たちの裏切りを止められない状態になってしまったので、やむを得ず成り行きに任せるしかない、ということではありません。そうではなくて、弟子たちや私たちの裏切りが最終的には成功しないこと、そして裏切りの向こうには救いの実現があること、神様の勝利があることを信じて疑われなかったということであります。

3.罪が赦されるように――新しい契約

次に、28節の中で、主イエスは御自分の血を「契約の血」と呼んでおられることに注目したいと思います。「契約の血」という言葉が聖書の中で最初に出てくるのは、出エジプト記24章であります。そこはシナイ山で十戒を与えられたことに続く箇所ですが、モーセは動物の血を祭壇に振りかけると、神様から与えられた契約の書、すなわち律法の書をイスラエルの民に読んで聞かせました。そして民が、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と言うと、モーセは血を取って、民に振りかけて、「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である」と言ったのであります。今日の箇所の主イエスの言葉は、明らかにこのモーセの言葉を受けて語られたものであります。過越の食事は出エジプトの出来事を記念するものであると同時に、主イエスにとっては、シナイ山での契約を更新するものでもあったということであります。つまり、シナイ山で動物の血によって交わされた契約が、今度は主イエスが流される血によって、新しい契約に更新されるのであります。この「新しい契約」ということについては、エレミヤ書の中に預言されていますので、そこを読みます。エレミヤ書3131節以下(旧p1237)です。
 
31 見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。32 この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。33 しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。34 そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。(エレミヤ313134
 
シナイ山での契約と新しい契約とはどこが違うかと言うと、シナイ山の契約は、与えられた律法をイスラエルの民が「守ります」と約束したことで結ばれたものでありました。しかし、32節に書かれているように、彼らはこの契約を破ってしまいました。これに対して、新しい契約は、「彼らの心にそれを記す」と言われています。「心に記す」とはどういうことか。34節の最後に、「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」とあるように、罪の赦しがもたらされるということであります。このエレミヤの預言は、主イエス・キリストの十字架の血によって成就するのであります。新しい契約では、シナイ山での契約のように、「律法を守ります」と言って契約が成立するのではなくて、主イエスが差し出される契約の血を、信仰をもって受け取ることによって成立するのであります。主イエスは私たちに御自分の体を表わすパンを差し出して「取って食べなさい」と言われ、また、御自身の血を表わす杯を差し出して「この杯から飲みなさい」とおっしゃいました。これらを信じて受け取って、食べ、飲むことによって、契約は成立するのであります。差し出されたものを信じて受け取るのでなければ、契約は成り立ちません。主イエスの体と血の贖いによる罪の赦しは現実のものとはなりません。しかし、信じて受け取るならば、私たちの内で、真の命として働くのであります。そういう意味で、聖餐式の場というのは、私たちが新しい契約の下にあることを確認する場であり、私たちが真の命に生きていることを再確認する場であります。

結.父の国で飲むその日まで

最後に主イエスは29節でこう言っておられます。「言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」――ここでは二つのことが言われています。一つは、主イエスの死のことが語られています。「今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」というのは、ぶどう酒を断つという意味ではなくて、もはやこの地上でぶどう酒を飲むことはない、即ち、この地上にはいなくなる、という死の宣言であります。今一つは、そうではあるけれども、終わりの日に、神の国が完成する時に、主イエスが再びおいでになって、そこで弟子たち、私たちと共にぶどう酒を飲むことになる、つまり、神の国での祝宴が主と共に行なわれるという約束であります。その時、神様とイエス・キリストと私たちの交わりが完成するのであります。この場面のことを普通「最後の晩餐」と言われることが多いのですが、確かに主イエスの十字架を前にした最後の晩餐でありましたが、主イエスの復活の後、教会の中で繰り返し行われることになるものであり、そのたびに主イエスの体と血に与ることによって、罪の赦しの恵みを自分のものとすると共に、終わりの日に行われる救いの完成の祝宴に与ることを、確信を持って待ち望み続けることになるのであります。
 
今日は、聖餐式を行いませんが、主イエスは今日も、「取って食べなさい」と言って、御自分の体を差し出されておられます。また、「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くのひとのために流されるわたしに血である」と言って、御自身の血を流すほどの愛を注いで、主を裏切り、罪の中に沈みそうになる私たちのために執り成していて下さるのであります。
 
かつて主イエスと弟子たちがしたように、私たちも感謝をもって祈り、賛美の歌をうたいましょう。

祈  り

恵み深い主イエス・キリストの父なる神様!
 
感謝いたします。尊いキリストの体と血が、私たちのような者のためにも差し出され、罪の赦しを約束して下さっていることを覚えます。
 
どうか、この計り知ることの出来ない大きな恵みを信じて受け入れる者とならせてください。どうか、迷い易い私たちを、終わりの日までお導きくださり、神の国の祝宴に与らせてください。
 
どうか、この群れに連なっている教会員や求道者の一人ひとりを、脱落することのないように、お守りください。
 どうか、東日本大震災の被災地にあって、多くのものを失い、進むべき道や希望が見えなくなっている人々に、主にある慰めと望みが与えられますように。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿> 2011年4月10日  山本 清牧師 

 聖  書:マタイによる福音書26:26-30
 説教題:「罪が赦されるように」
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