一同が食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」弟子たちは非常に心を痛めて、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。      (マタイによる福音書262122 

 除酵祭の過越の食事をする日に、弟子たちが食事の準備のことを主イエスに尋ねると、「都のあの人のところに行ってこう言いなさい。『先生が、「わたしの時が近づいた。お宅で弟子たちと一緒に過越の食事をする」と言っています』」と言われた。主はこの時を見越して食事の手配をしておられたのだ。それは「わたしの時」と言われる十字架の時が迫っていることを御存知で、大切なことを弟子たちに伝えようとされていたからである。主は私たちのためにも、大切な礼拝の時を御用意くださる。
 その食事の席には、既に主を祭司長たちに引き渡す(裏切る)相談をしていたユダもいたし、このあと主イエスが逮捕された時には、主を「知らない」と言うペトロや、逃げ去ってしまう弟子たちがいた。主は人を見る目がなかったのか。そうではない。主イエスは特別に信仰深く、裏切る心配のない者を弟子や信者にされるのではない。むしろ、弱さを持つ者を弟子として選ばれる。ユダは弱さを持つ私たちの代表である。
 
主イエスは食事の時、標記のように、ユダの裏切りを予告された。ユダは自分の裏切りが知られていることに驚き、主イエスを改めて見直したのではないかと思われるが、他の弟子たちも、「まさかわたしのことでは」と、自信なさそうに言わざるを得なかった。私たちも同様ではないか。
 このあと、主イエスは「人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く」と明言される。主は旧約の預言の中に神の御旨が示されていると受け取り、それに従おうとされている。そのことが罪の中にある者たちの救いを成就することになると確信しておられるのだ。
 主イエスは最後に、「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」と言われた。弟子たちや私たちのすることは、滅びに向かうだけかもしれないが、主は十字架と復活の御業を通して、新しい命を備えて下さるのである。

 米子伝道所主日礼拝説教<要 旨> 2011年4月3日  山本 清牧師 

 聖  書:マタイによる福音書26:17−25
 説教題:「まさかわたしのことでは」
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