序.自分の裏切りに向き合う

クリスマス以来、ルカによる福音書によって主イエスのご生涯の大切な場面を見て来たのでありますが、年度変わって今日からしばらくマタイによる福音書によって、主イエスのご生涯の最後の部分を見て参ることのなっております。教会の暦では、今はレントと呼ばれる主イエスの御受難を覚える期間の最中でありますが、20日後には遂に十字架の時を迎え、第三主日の4月24日にはイースター(復活節)を迎えます。
 
今日与えられております箇所は、暦から言えば少し先回りになりますが、十字架の直前に行われた最後の晩餐の場面になっております。主イエスの弟子たちは、約3年の間、主イエスと生活を共にしながら、様々な出来事や会話を通して、主イエスのお人柄やそのお力に接して来たのでありますが、今、十字架を前にして、主イエスと真正面から向き合わされる場面に至っております。これまでにも、主イエスが弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われたことがありました。その時は、ペトロが代表して「神からのメシア(救い主)です」と告白することが出来ました。そこには主イエスに対する弟子たちの一定の信頼が表されております。それ以来、主イエスは御自分の死と復活について語られるようになりました。けれども、弟子たちにとって、主イエスの死ということがよく受け止められませんでした。「そんなことがあってはなりません」と言って、叱られたこともありました。しかし、祭司長や律法学者と言われる、当時のユダヤの指導者たちの主イエスに対する敵意が高まって行く中で、弟子たちも、主イエスや自分たちに危険が迫っていることを感じ始めておりました。と同時に、主イエスは一体どこへ向かっておられるのか、何をしようとしておられるのかが分からなくなっていたのではないでしょうか。そして遂に、この最後の晩餐の日が来たのであります。この時弟子たちは、もう一度主イエスに真正面から向き合わされます。
 
今日の直前の箇所(1416節)を見ますと、この時すでに、十二人の弟子たちの一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行って、主イエスを銀貨三十枚で引き渡す話をつけておりました。弟子の中から裏切る者が出ていたのであります。このユダも含めて十二人が、主イエスと向き合うのであります。そこには主イエスに従って来た3年間の家族以上の密接な関係があると同時に、主イエスに対する疑問や、これからどうなるのかという不安があります。
 
私たちは今日、その場面に聖書を通して立ち会っているのでありますが、私たちは劇を見るように、或いは昔の物語を読むように、傍観者でいることは出来ません。私たちもこの箇所を読むことによって、弟子たちと一緒に主イエスと向き合わされるのであります。私たちもまた、弟子たちと同じように、主イエスに対して好感を抱き、尊敬の念さえ持ちながら、どこかに、よく分からないという思いがあり、自分を委ね切れない、献げ切れない自分があって、主イエスのお言葉にも素直に従うことが出来ないところがあるのではないでしょうか。それは裏切りに通じる心であります。この場に及んで、そのような私たちの姿が、弟子たちの姿を通して明らかにされるのであります。
 
しかし、ここで私たちが聴き取らなければならないのは、私たちの裏切りの心、罪の中にある私たちの現実を知るということだけではなくて、主イエスがそのような私たちにどう向き合って下さっているのかということであります。今日は、切迫した最後の晩餐の場面の中から、主イエスの愛に満ちた御心を受け取りたいと思います。
 

1.わたしの時

さて、今日の箇所の最初の17節によれば、この日はユダヤの重要な祭であります除酵祭の第一日でありました。除酵祭というのは、イスラエル民族がエジプトの奴隷状態から脱出した「出エジプト」の際に、急いで食事をしたために、酵母を入れないパンを食べたことに由来するとされる祭で、七日間続けられるのですが、その第一日目が過越祭と言われて、やはり「出エジプト」の際に、家の入口の柱と鴨居に羊の血を塗ったイスラエルの家だけが災いを免れたという出来事を記念する日で、ユダヤ人は家族で過越の食事をとります。
 
この日、弟子たちが主イエスに「どこに、過越の食事をなさる用意をいたしましょうか」と尋ねると、主イエスは「都のあの人のところに行ってこう言いなさい。『先生が、「わたしの時が近づいた。お宅で弟子たちと一緒に過越の食事をする」と言っています』」と仰いました。主イエスはあらかじめ、この時を見越して食事の手配をしておかれたようです。「わたしの時が近づいた」と言っておられます。主イエスにとっての特別な時が近づいた、という意味であります。ただの過越の食事の時ではありません。23節のところで明言しておられるように、主イエスはユダの裏切りを御存知であり、十字架の時が迫っていることも御承知であります。十字架の死を前にして弟子たちと向き合う最後の時であります。その時は、敵対する者たちに追い詰められてやって来たのではありません。主イエスが用意されたのであります。弟子たちはまだ何が起ころうとしているのかよく分かっていませんでしたが、主イエスは弟子たちのためにこの時を準備なさったのです。
 
私たちの、今日のこのような主イエスとの出会いの場も、私たちが準備した、あるいは私たちがいつものようにやって来た、あるいは私たちが時間を作ってやって来たと思っているかもしれませんが、実は主イエスが用意して下さったのではないでしょうか。弟子たちと同様に、私たちも今何が起ころうとしているのか、この時がどれほど私たちにとって大切であるのか、よく分かっていないかもしれません。このような時と場はいつでも作れると思っているかもしれません。しかし、主イエスは私たちのためにかけがえのないこの時を備えて下さったのであります。では、主イエスが私たちに何を語ろうとされているのでしょうか。

2.わたしを裏切ろうとしている

20節以下には、弟子たちとの食事の席の様子が書かれています。夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた、とあります。十二人にはもちろんユダも含まれています。主イエスはユダの裏切りを御承知の上で、彼をこの席から排除することはなさいませんでした。なぜ、主イエスを排除なさらなかったのでしょうか。更に言うなら、そもそもなぜ御自分を裏切ることになるような者を、弟子に加えられたのか、主イエスには人を見る目がなかったのか、という疑問すら湧いてまいります。なぜ主イエスはユダを弟子に選ばれたのか、その理由を知ることは私たちに許されていません。しかし、私たちが気付かなければならないことは、ユダが選ばれた理由を捜そうとする私たちの思いの中に、ユダが特別に罪深い人間だったことにしたいという気持ちが働いているのではないか、ということであります。この後、31節以下には主イエスが一番弟子とも言えるペトロの離反を予告されたことが記されています。その予告どおり、主イエスが逮捕された時には、ペトロは主イエスを知らないと言ってしまいます。他の弟子たちも、逃げ去ってしまうのであります。主イエスと最後まで行動を共にする者はいなかったのであります。では、私たちは十二人の弟子たちより忠実だとか、信仰深いと言えるのでしょうか。主イエスは特別に信仰深く、裏切る心配のない者だけを弟子や信者にされるのではありません。むしろ弱さを持つ者を弟子として選ばれたのではないでしょうか。ユダは弱さを持つ私たちの代表であります。だから、主イエスが大事なことを伝えようとなさっているこの食事の席からユダをはずすことはできません。裏切り者のユダこそ、この席に欠かせない人物なのであります。
 
21節にはこう書かれています。一同が食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」――この言葉を聞いてユダは非常に驚いたと思います。まさか、自分が主イエスを祭司長に引き渡そうとしていることをご存知だとは思っていなかったでしょう。ユダはおそらく、主イエスは自分のことを理解して下さらない、自分の期待になかなか応えて下さらない、という不満を持っていたに違いありません。だからこそ、主イエスを見限って裏切ったのでしょう。しかしこの時、主イエスが自分のことを何もかもよく知っていて下さって、その上でこの食事の席にも同席させておられることが分かったに違いありません。主イエスがユダの裏切りのことを御存知であるなら、何処かへお逃げになることも出来たでしょう。あるいは、祭司長やユダの行動をお止めになることも出来たでしょう。しかし、そうはなさらないで、自分をこの席に招いておられる。このことでユダには、主イエスと自分の関係が見えて来たのではないでしょうか。主イエスがどれほど自分を愛しておられるかが、ひしひしと伝わって来たのではないでしょうか。そして、自分の抱いていた不平不満がいかに見当違いであったかに気がついたのではないでしょうか。主イエスは今、サタンの誘惑に負けて主イエスを信頼出来なくなっていたユダを救い出すために、彼をもこの席に招いて、裏切りの事実を明らかにされたのであります。そうしてユダに、悔い改めの最後の機会を与えられたのであります。
 

3.まさかわたしのことでは

しかし、主イエスの21節の言葉は、他の弟子たちにとってもショックでありました。22節を見ると、弟子たちは非常に心を痛めて、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた、と書かれています。主イエスの言葉を聞いた弟子たちの反応について、ルカ福音書では、「いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた」(ルカ22:23)と書いておりますし、ヨハネ福音書では、「だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた」(ヨハネ13:22)と書かれています。誰が裏切りの犯人か、疑心暗鬼になったということでしょう。しかし、マルコ福音書とこのマタイ福音書は、弟子たちの誰もが、「まさかわたしのことでは」と言ったと記しています。これらの記述を総合しますと、主イエスが言われたのは自分のことでなくてほしい、という思いと同時に、自分のことかもしれないという思いが交錯していたということでしょう。誰も自分は大丈夫とは確信出来なかったのです。誰もが主イエスを裏切る可能性を持っていたのであります。現に、先ほども触れたように、他の弟子たちも、ユダと同じような仕方ではありませんが、結局は主イエスを裏切ってしまうのであります。そして私たちもまた、その場にいたとしたら、「まさかわたしのことでは」と言わざるを得なかったのではないでしょうか。私たちは、聖書に記された主イエスの話や御業には感心したり、教えられたりするのでありますが、私たちの思いや願いどおりに事が運ばなかったり、苦しい目に遭遇した時には、主イエスが信じられなくなります。主イエスのお言葉や教えよりも、自分の気持ちや自分の判断で行動してしまいます。そして、主イエスに従っていることが何か馬鹿らしいことのようにさえ思ってしまうのであります。主イエスに従っていることで何か自分に不都合でも生じると、主イエスと距離を置いてしまうのであります。ですから、「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」と言われるならば、「まさかわたしのことでは」と言わざるを得ないのであります。しかし、この主イエスのお言葉は、単に弟子たちや私たちを詰問するために言われたのではありません。私たちを裁いて捨て去るために言われたのではありません。今、あなたは罪を犯そうとしている、裏切ろうとしている、しかし、今なら引き返すことが出来る、今、私はあなたの仕打ちにじっと耐えながら、思いなおしてくれるのを待っている、と言っていて下さるのではないでしょうか。主イエスは私たちが自分の本当の姿に気づくこと、そして主イエスの愛に触れて立ち帰るのを待っていて下さるのであります。

4.聖書に書いてあるとおり

このあと、主イエスの厳しいお言葉が続きます。23,24節にはこう書かれています。イエスはお答えになった。「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」
 
「一緒に手で鉢に食べ物を浸す」というのは、過越の食事の際に塩水に野菜を浸して食べたことと関係があるようですが、同じ鉢に浸すということは家族同様の親しい関係を表わしています。ユダも主イエスとそのような深い関係にありました。そのユダが裏切ると仰らざるを得ないのです。これは主イエスにとって、とても苦しいこと、出来れば避けたいことであったに違いありません。御自分が十字架の死を経験しなければならないこと以上に苦しいことであったのではないでしょうか。それは、自分の弟子をコントロール出来なかったという面子の問題なんかではありません。愛する弟子がサタンの虜になってしまっていることの苦しみであります。主イエスはこの事態を覆すこともお出来になったと思います。しかし、主イエスはそうはされません。なぜでしょうか。「人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く」と言っておられます。ここで「聖書に書いてある」と言っておられるのは、先ほど朗読していただいた詩編41編の10節が、その一つです。そこではこう言われていました。「わたしの信頼していた仲間/わたしのパンを食べる者が/威張ってわたしを足げにします。」このように、旧約聖書の中には、裏切りによる救い主の受難が預言されています。主イエスはそこに神様の御旨が示されていると受け取っておられるのです。だから、その神様の御旨を覆そうとはされず、それに従おうとされるのであります。ユダの裏切りがあり、自分が十字架に架かって死ぬことがあっても、救いの御業が頓挫するのではなく、救いの御業が成就することを信じておられるのであります。
 
ここで、「裏切る」と訳されている言葉について御説明しておくのが有益だと思います。この原語のギリシャ語は、元来「引き渡す」という意味の言葉であります。15節でユダは「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」と言っていますが、この「引き渡す」が「裏切る」と同じ言葉なのです。これらはいずれも、人間が主導となって犯す「引き渡し」であり「裏切り」であります。しかし、聖書の中には神様が主体となって行われる「引渡し」も語られています。ローマの信徒への手紙832(p285)をお開きください。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜わらないはずがありましょうか」と書かれています。この中の「死に渡された」という「渡された」は「引き渡された」という同じ言葉が使われています。この文章の主語は神様であります。神様が御子イエス・キリストを死に引き渡された、と言っているのであります。ユダの裏切りも、主イエスの十字架の死も神様が主体となって行われたことである、ということであります。あるいは、ユダの引渡し(裏切り)を、神様は人類を罪から救う業に変えられたと言ってもよいかもしれません。主イエスはそのことを知っておられて、ユダの引渡しに身を任されるのであります。

5.生まれなかった方が

ところで24節の後半で、主イエスは「だが、人の子(主イエス御自身のこと)を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」という恐ろしい審きの言葉を語っておられます。呪いの言葉と言ってもよいかもしれません。この言葉には弟子の裏切りを心底から厭われる主イエスのお心が表われていますが、同時に、その裏切りの結果である神様の呪いを、御自身が十字架の上で引き受けようとしておられることが読み取れるのであります。主イエスが仰っているように、ユダのしたような大きな罪を犯すようなことになるなら、生まれなかった方が、ユダのためによかったと言えます。しかし主は、そのユダの罪をも御自身の身に負おうとしておられるのであります。それですから、この晩餐の席からユダを排除されないのであります。しかし、この時ユダはまだそこまで思いが及んでいなかったようであります。25節を見ますと、イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、「先生、まさかわたしのことでは」と、他の弟子と同じように言っております。それに対して主イエスは「それはあなたの言ったことだ」と言われました。これは相手の言葉を肯定する際のユダヤの習慣的な言い方であります。口語訳聖書では端的に「いや、あなただ」と訳されていました。ユダの裏切りを明言されたのであります。しかし、主イエスを裏切るのは、ユダだけではありませんでした。31節では、他の弟子たちにもこう言われました。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』と書いてあるからだ。」これは旧約聖書のゼカリア書の言葉を用いて言っておられます。主に選ばれた十二人の弟子たちの皆が結局、主イエスを裏切るということです。ここでも聖書に書いてあるとおりのことが起こるのであります。そして私たちもまた、しばしば主イエスの御心を弁えずに、勝手なことをしたり、主イエスを信頼出来なくなったりして、裏切ってしまうのであります。「まさかわたしのことでは」と言って、自分を除外したいところでありますが、主イエスは私たちに向かっても、「それは、あなたがただ」とおっしゃるのではないでしょうか。しかしそれは、私たちを憎んでではありません。むしろ、そのような私たちを憐れんで、御自分の身を十字架へと引き渡して、私たちの罪の贖いをしようとされていることに気づかせようとなさっているのであります。

結.復活した後、先にガリラヤへ

最後に、32節の主イエスの言葉を聴きましょう。「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」―主イエスが十字架に架けられて、弟子たちは後悔いたします。主イエスとの3年間は何だったのかと、絶望のうちに故郷のガリラヤへ戻って行きます。しかし、そのとき、主イエスは復活して、弟子たちより先にガリラヤへ行って待っている、と言われたのであります。弟子たちのしたこと、そして私たちのすることは、滅びに向かうだけかもしれません。しかし、主イエスはそのような私たちに、十字架と復活の御業を通して、新しい命を、そして新しい人生の日々を備えて下さるのであります。
 
お祈りいたしましょう。

祈  り

憐れみ深い主イエス・キリストの父なる神様!
 
あなたはユダの恐ろしい裏切りの罪をも、救いの御業に変えて下さいました。この驚くべき愛の力を賛美いたします。
 
私たちもまた、罪深い者であり、あなたの愛を裏切ってしまう者であることを覚え、お赦しを願うほかございません。
 
どうか、主イエス・キリストの御言葉が私たち一人一人の魂に届き、救いの御業が、この所でも次々と起されますように、計らって下さい。
 
震災に遭って、これから先、どうしてよいか分からなくなっている人々にも、主にある望みと喜びの新しい人生がもたらされますように。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿> 2011年4月3日  山本 清牧師 

 聖  書:マタイによる福音書26:17-25
 説教題:「まさかわたしのことでは」
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