『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。』
                            (ルカによる福音書2017 

 「ぶどう園と農夫」の譬えにおいて、「ぶどう園」とは神に選ばれたイスラエルの民のことであり、長い旅に出た「ぶどう園の主人」とは父なる神、「農夫たち」とはイスラエルの指導者(律法学者や祭司長)たち、「僕」とは神から遣わされた預言者たちのことで、最後に送られた「愛する息子」とは主イエス御自身のことである。この譬えは「民衆」(9)に語られたものであるが、律法学者や祭司長は自分たちに当てつけて話されたと気づいた。私たちも、ここで描かれた農夫たちこそ自分たちであると受け止めねばならない。
 神は私たちのために、豊かな世界を創造され、生活や仕事の場、地域社会や教会の交わりなどを備えられ、そこで生きるための命や健康や能力や財産など多くのものを与えて下さっているが、それらはすべて、神から預っているものである。それらをどう生かすかは自由に任されているが、神は私たちやこの世界のことを忘れておられるのではない。ぶどう園の収穫物は主人のものであり、主人から送られた僕を袋だたきにして追い返すのは間違いであるように、神が私たちのために備えられたものを私物化して、自分のために用い、様々な形で送られてくる御言葉に耳を傾けようとしないのは、神からの使者を追い返すに等しい。農夫たちが遂には主人の息子を外にほうり出して殺してしまったように、私たちも主イエスを私たちの生活の中からほうり出しているのではないか。
 
譬えでは、戻ってきた主人は農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるとされているが、これは、異邦人が新しい神の民(教会)とされることを示している。これを聞いた民衆は「そんなことがあってはなりません」と言う。だが、彼らも主イエスを「十字架につけよ」と叫ぶことになることが主イエスには見えている。しかし、主イエスは民衆をお叱りになるのでなく、最後に、詩編を引用して標記のように言われた。「家を建てる者の捨てた石」とは、イスラエルの人々が捨てたイエス・キリストのことである。だが、神は、そのキリストによって教会を築き、全ての者への救いの道を開かれたのだ。私たちは、新しいぶどう園の農夫として、預かった賜物を生かして、収穫のために喜んで働く者とされたい。

 米子伝道所主日礼拝説教<要 旨> 2011年3月27日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書20:9−19
 説教題:「神のぶどう園」
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