序.再び、大災害の中で

先週は、ルカによる福音書1941節以下の箇所から、主イエスがエルサレムに近づいて、都が見えたとき、都のために泣かれた、ということを聞きました。それは、エルサレムの人々が、神の子が来られていることをわきまえず、神殿での礼拝が形式化して、本来の祈りの家となっていなかったために、やがて崩壊することを知っておられたからでありました。
 
このたびの大震災の惨状を知らされる中で、私たちは、神様はなぜこのようなことをなさるのだろうか、ということを考えさせられるのでありますが、その謎を解く鍵は、主イエスがエルサレムの都を見て泣かれたことにありました。このたびの大災害は、エルサレムの場合と同様に、私たちと神様との関係に問題があることに対する警告であると受け止めるべきなのであります。主イエスは私たちのためにも、泣いておられるに違いないのであります。
 
さて、今日のルカによる福音書209節以下は、「ぶどう園の農夫のたとえ」という小見出しがついていますが、その最後の方の18節には、こう書かれています。「その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」――ここでも悲惨な出来事が起こり得ることを主イエスは語っておられます。この話をされたのは、9節によれば民衆に対してでありましたが、19節を見ると、これを聞いていた律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいた、と書かれています。「当てつけて」という訳は主イエスが悪意を持っておられたようで、気に入りませんが、律法学者や祭司長など当時のユダヤの指導者たちが、この後、主イエスに対して行なうことになることを見事に予告なさっているような内容の譬えであります。しかし、この譬えで語られていることは、当時のユダヤの指導者たちにだけ当てはまるものではありません。私たちも「自分たちに当てつけて(向けて)このたとえを話された」と気づくべきなのであります。
 
では、主イエスは私たちに、このたとえによって何を語って下さるのでしょうか。初めから順に聞いて参りたいと思います。

1.ぶどう園を貸して

9節の後半からたとえが始まっていますが、そこには「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た」とあります。
 
「ぶどう園」というのは、神様に選ばれたイスラエルの民のことであります。「ある人」と言われているぶどう園の主人は、父なる神様のことです。マタイによる福音書の同じたとえでは、この主人がぶどう園の垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りやぐらを立てたということも述べられていて、父なる神様がイスラエルの民の働きのために全てを整えられたことが示されているのであります。こうして主人はぶどう園をすっかり整えて、農夫たちに貸して長い旅に出ます。「農夫たち」とは、先ほど見たように、律法学者たちや祭司長たち、イスラエルの指導者たちのことであります。彼らは神様からイスラエルの民を託されるのであります。「長い旅」という言葉には、主人が農夫たちを信頼して、ぶどう園の経営を農夫たちに全面的に委任して出かけたというニュアンスが伺えます。神様はイスラエルの指導者たちを信頼して、イスラエルの民を委ねたのであります。
 
しかし、この譬えを私たちに向けて語られているものとして聴くためには、この農夫こそ私たちのことであると受け止めなければならないでしょう。ぶどう園の主人がすっかり整えられたぶどう園を農夫に貸し与えたように、神様は私たちのために、豊かな世界を創造され、それを貸し与えて下さいました。私たちは豊かな生活の場・仕事の場・そして宣教の場を神様から預かっているのであります。私たちはそれらのものを、自分で獲得したもの、自分で選び取ったもの、自分で築き上げたものと錯覚することがありますが、すべて神様が貸し与えて下さっているものであります。私たちの家族も住まいも、隣人も地域社会も、友人も仲間の交わりも、仕事も職場も、教会の兄弟姉妹も礼拝場所も、すべて神様からの預かりものであります。更に言うならば、私たちの命や健康も、私たちの財産も、私たちの能力や性格も、私たちが生きている時代や地球環境も、すべて神様からの預かり物であります。そのことを忘れると、この譬で語られているような、誤ったことが行われてしまうのであります。
 
ところで、ぶどう園の主人は長い旅に出ます。旅の間、ぶどう園での作業や管理について、主人は一々指図するのでなく、農夫たちに任せるのであります。神様も私たちの生き方や生活の仕方、仕事の仕方、役割について、一々細かく命令を出されるわけではなくて、自由に任せておられます。神様は私たちを信頼して豊かなものを託されているのであります。しかし、私たちはそのことを勘違いしてしまうのです。私たちは神様のお姿を見ることが出来ません。それは、長い旅に出た主人と同様です。しかし、主人がぶどう園のことを忘れているわけではないように、神様も私たちや世界のことを忘れておられるのではなくて、遠くから気にかけておられるのであります。

2.僕を袋だたきに

次に10節を見ると、収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した、と述べられています。主人のぶどう園で実ったぶどうは主人のものであります。農夫はそこで働いた労働に対して報酬を得ることは出来ますので、収穫の一部を報酬としていただくということはあったとしても、収穫物は本来、主人のものでありますから、それを主人に納めるべきであります。主人から送られた僕とは、旧約の各時代に遣わされた預言者たちのことが譬えられていると考えられます。預言者たちはイスラエルの民に神様の御心を伝えて、様々な警告をいたしましたが、イスラエルの民やその指導者たちは、預言者たちの言うことに耳を貸さず、かえって預言者を迫害して、神様の御心に従わないことがしばしばでありました。農夫たちが僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した、とはそのことを表しています。
 
神様は私たちが神様から与えられた豊かなものを用いて、自由に生きることを許しておられるのですが、神様の御心から離れないために、御言葉を伝える者を遣わされるのであります。イエス・キリストによって教会が建てられて以来、様々な機会と手段を通して御心が伝えられて来ました。聖書が記され、伝道者が立てられ、礼拝が行われて、御言葉が伝えられましたが、私たちは御言葉を蔑ろにしたり、耳を傾けようとはせず、追い返すのと同然の扱いをしていないでしょうか。その結果、御言葉による豊かな実りの収穫を納めることをしないでいるのではないでしょうか。
 
11節、12節には、主人が農夫たちのひどい対応にもかかわらず、二度、三度と僕を送ったことが述べられています。そこには神様の忍耐と憐れみが表されています。神様は忍耐をもって、私たちの悔い改めを待っておられます。しかし、三人目の僕には傷を負わせてほうり出した、と述べられています。この三人目の僕を、あのヘロデ王に殺害された洗礼者ヨハネと理解することもできますが、そのように対応させることはあまり意味がなくて、むしろ私たち自身が、神様の恵み深い計らいによって与えられた賜物を御心に適って用いることをせず、神様の御心を傷つけ、御言葉を私たちの生活の中からほうり出して来たということに、思い至るべきではないでしょうか。

3.愛する息子を

けれども、神様はそこで諦めたり、お怒りになられませんでした。13節にあるように、ぶどう園の主人は、『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう』と考えるのであります。主人は<息子が危険な目に遭うかもしれない>とは考えないで、わが子ならば敬ってくれるだろうと期待して送り出すのであります。お分かりのように、この「愛する息子」とは、主イエス・キリストのことであります。ここに神様の大きな愛が示されています。神様は、反抗するイスラエルを愛し抜かれます。御言葉に耳を傾けようとしない私たちに、愛する御子をお送りになるのです。
 
しかし、14節から15節にかけて語られているように、「農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった」のであります。息子を殺しても、親が生きておれば、相続財産を自分のものにすることは出来ませんが、農夫たちはそこまで自己中心的になっているということです。イスラエルの指導者たちも、主イエスを受け入れようとせず、むしろ敵意をもって排除しようとして、ついに十字架に架けて殺してしまったのであります。イスラエルの指導者たちは、自分たちこそイスラエルの正しい指導者だと自負して、神様の深い愛を理解することが出来ずに、決定的な罪を犯してしまうのであります。
 
私たちも同様であります。神様は私たちのところに、御言葉をもって主イエスを送って下さっております。しかし、私たちは主イエスを喜んでお迎えしようとはしないばかりか、主イエスを私たちの生活の外にほうり出してしまっているのではないでしょうか。それは、主イエスを殺してしまうことであります。そして、神様から預っている様々な賜物を自分の自由に出来ると勘違いしているのであります。

4.ぶどう園をほかの人に

15節の後半から16節にかけては、息子を殺してしまった農夫がどのような目に遭わなければならないかが語られています。「さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」――これは、イスラエルの民が神様の選びの民として託されていた役割を取り上げられて、その役割が異邦人に与えられるようになるということを意味しています。主イエスの十字架までは、イスラエルの民だけが神様の民として特別な恵みと使命を与えられていましたが、主イエスの十字架の犠牲を境にして、主イエスを信じる者たち、即ち教会の群れが神様の民とされて、世界をお救いになろうとする神様のご計画を担って行くことになったのであります。
 
私たち異邦人は、そのようにして神様の新しい御計画に参画する「ほかの農夫」として、新しいぶどう園、即ち神の国において働く者とされたのでありますが、それは神様が遣わして下さったキリストに従って働く僕という立場になります。それは光栄ある立場であります。しかし、そのような立場は、あくまでも神様から預った立場であり、私たちが勝ち取ったものではありませんし、その立場で備えられている様々な賜物も神様からの預り物であることを忘れてはならないでしょう。ですから、それを自分のためだけに用いるのではなくて、多くの人のために用いなければなりません。もし、神様からの預り物を私物化して、自分勝手に用いたり、自分を誇ったりしたのでは、息子を殺した農夫たちと同じように、神の国の外にほうり出されて、永遠の滅びに至ることになります。反対に、どんなに力が弱く、貧しく、実りが少ない者であっても、主イエスを信じて、与えられた賜物を主の御心に従って用いる者を、良い農夫として喜んで下さるに違いありません。

5.捨てた石が隅の親石に

さて、ここまでの主イエスの譬えを聞いていた人々(9節によれば民衆)は、こう言っております。「そんなことがあってはなりません」。それは、<この譬えで語られた農夫のしたようなことがあってはならない>、ということでしょうか。あるいは、<この農夫に託されていた仕事が他の人たちに与えられるということがあってはならない>、ということでしょうか。いずれにしろ、ぶどう園の主人とそこで働いていた農夫の良い関係が破られるというようなことがあってはならない、ということであります。恐らく民衆も、この譬えで農夫と言われているのはイスラエルの指導者たちのことであり、主人から遣わされた僕とは預言者たちのことだと分かり、更に主人の息子とは主イエスのことを指しているということが分かって、「そんなことがあってはなりません」と言ったのでしょう。主イエスの弟子たちも、主イエスが御自分の死のことを予告されたときに、「そんなことがあってはなりません」と言いました。このように、弟子たちも、民衆も、悪い方へ向かう流れをせき止めようとするのであります。しかし、主イエスには、このあと弟子たちがどうなるのか、民衆がどうなるのかが見えています。弟子たちは主イエスが捕えられたとき、裏切ってしまいます。民衆は祭司長たちに扇動されて、「十字架につけろ」と叫ぶようになるのであります。けれども、主イエスはそんな民衆をお叱りになるのでなくて、17節を見ると、そのような彼らを見つめてこう言われました。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。』」――昔、神殿を建てるときに、専門家の家つくりが役に立たないと思って捨てていた石が、一番大事な隅の親石になったという故事があって、そのことが詩編の118編に歌われていますが、それを主イエスはここで引用なさっています。「家を建てる者の捨てた石」とは、主イエス御自身のことであります。イスラエルの指導者たちは、自分たちこそ専門家だと誇って、<イエスは間違っている>として十字架に架けて殺そうとします。民衆も自分たちの期待を裏切った主イエスに失望して、「十字架につけろ」と叫びます。こうして人々は役に立たない石を捨てるのであります。
 
しかし、そんな彼らを主イエスは憐れみをもって見つめておられるのであります。そして、主イエスはその先に神様がなさることを見つめておられます。彼らの無理解や殺意の向うに光を見ておられるのであります。それは、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石になる」という神様の御業であります。人々が十字架の死へと追いやった主イエスが救いの岩となり、教会の土台また頭となられるのであります。

結.ぶどう園の農夫として

私たちは、譬で描かれた農夫たちのように、神様から預った数々の賜物を私物化して、自分の喜びや楽しみのために用いようといたします。そして、神様から今も遣わされている主イエスを蔑ろにして、私たちの生活の外にほうり出してしまっています。しかも、弟子たちや民衆と同じように、自分が間違った方へ行こうとしていることに気づいていません。しかし、主イエスには私たちの本当の姿が見えています。そして、「家を建てる者の捨てた石が、隅の親石となる」ことを見ておられます。そして更に、私たちを新しいぶどう園の農夫として、あるいはぶどうの木である主イエスにつながる枝として、あるいは主イエス・キリストを頭とする教会という体の一部として用いることを考えておられるのであります。
 
私たちはこの恵みに応えて、預った賜物を生かして、主のために、そしてぶどう園の収穫のために喜んで働く者とされたいと思うのであります。
 
お祈りいたしましょう。

祈  り

主イエス・キリストの父なる神様!
 私たちのような者をも、あなたのぶどう園で働く者として召してくださり、多くのものを備えて下さっていることを覚えて感謝いたします。どうか、この恵みを自分のことだけに使うのではなく、ぶどう園の収穫のために、また多くの人々と共に分かち合えることの出来るようにさせて下さい。
 
どうか、この地に建てられたぶどう園であるこの伝道所が、多くの実を結ぶことが出来ますように、私たちの働きを導いて下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿> 2011年3月27日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書20:9-19
 説教題:「神のぶどう園」
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