彼らに言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」                              (ルカによる福音書1946 

 大きな災害が起こると、私たちは「なぜ、このような不幸な出来事が起こるのか」と考えざるを得ない。主イエスはエルサレムで起こった2つの事件について、「彼らが災難に遭ったのは、ほかのどの人よりも罪深い者だからだと思うのか。決してそうではない」と、因果応報と考えてはならないことを明言され、「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と警告された。(ルカ1315)続けて、「実のならないいちじくの木」を切り倒せと命じるぶどう園の主人に対して、園丁が「今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません」と言って執り成すという譬えを話された。このいちじくの木とは私たちのことであり、園丁は主イエス自身である。私たちは滅ぼされるべき者であるが、主イエスの執り成しによって、生かされているのだ。
 
さて、主イエスがエルサレムに近づき、都が見えたとき、主は都のために泣かれた(41)。それは、エルサレムの人々が「平和への道をわきまえて」(42)おらず、「神の訪れてくださる時(主イエスの来臨)をわきまえなかった」(44)ので、エルサレムの崩壊が迫っていたからである。私たちもまた、神との間の関係を回復して、真の平和への道を開いて下さる主イエスが来て下さっていることをわきまえていないので、主は御自身を十字架に向けて差し出しながら、神様に執り成して下さっているのである。
 
都に入られた主イエスは神殿の境内において商売している人々を追い出して、標記のように言われた。これは、商人や大祭司たちが過大な利益を得ていることを批判されただけでなく、神殿において、形式的な献げ物はされていながら、真実の悔い改めの祈りが失われていることを嘆いておられるのである。主イエスが都を見て泣かれたのも、このためなのだ。そのエルサレムで、主は遂に人々の手によって十字架に架けられたが、主は十字架上で「父よ、彼らをお赦しください」と祈られた。私たちはこの執り成しの祈りに支えられて、滅びから救われているのである。大災害によって私たちが気付かなければならないのは、このことである。

 米子伝道所主日礼拝説教<要 旨> 2011年3月20日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書19:41−48
 説教題:「祈りの家」
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