序.なぜ、不幸なことが――

東北・関東大震災が起こって、多くの命が失われ、多くの住まいや財産が奪われ、食べたり飲んだりするにも不足する状態が続いています。更に、原子力発電所の破損による危険も広がって、避難を余儀なくされております。電気の供給量が減って、計画停電というようなことを行わなければならなくなって、地震の直接の被害を受けていない地域の人まで、不便や危険が広がっています。経済活動も大きな影響を受けざるを得ません。
 
なぜ、このような不幸な出来事が起こるのか、と誰も考えざるを得ません。人間の過失による事故や、リビアなどで起こっているような紛争は、誰かに責任を押し付けることも出来ますが、自然災害に起因するものは、対策の不備を批判することは出来ても、自然に対して文句を言うわけには行きません。そこで、そうした災害には人間を越えた大きな意思が働いたのではないか、と考えたりするわけであります。今回の災害について、石原東京都知事は「天罰だ」などという、被害を受けた人の悲しみや苦しみを踏みにじるような暴言を吐きましたが、真意は被害を受けた人が悪いということではなくて、日本全体が我欲に縛られている状態を津波のように一気に押し流す必要があるという自論を言いたかっただけで、彼は神様の御意思のことを考えているわけではありません。しかし、神の存在を信じている私たちは、今回のことを単なる自然の災害と捉えることは出来ません。どうして神様はこのようなことを起こされるのか、何か人間が間違いを犯しているのではないかと考えたり、逆に、果たして神は、天地を支配しておられるのだろうか、人間の営みを守っていて下さるのだろうか、という疑問に行き着いてしまったりするのであります。
 しかし、こうした災害は今に始まったことではなくて、大昔から繰り返されて来たのでありまして、聖書の世界においても様々な形で書き残されているのであります。
 
皆様がよくご存知なのは、ノアの箱舟の物語であります。創世記6章には、「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのをご覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」(656)とあって、ノアの家族たちだけを残して、他の人や家畜を地上から拭い去る決心をなさるのであります。また、ヨブ記は、「なぜ、正しい者が不幸に遭遇しなければならないのか」という問題を扱っていることはご承知の通りであります。そこには、災いを巡ってヨブと神様との激しい葛藤が描かれています。これらの物語で扱われているのは、つまるところ人間の罪ということであります。
 
しかし、間違ってはいけないのは、ヨブを説得しようとした友人たちがどうしても脱け出せなかったように、因果応報という考えに陥ってはならない、ということであります。私たちはどうしても、不幸が起こるのは、その人に何か問題があったからだ、と考えて納得しようとするのであります。しかし、主イエスは、生まれつきの盲人のことで、弟子たちが「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか」と尋ねたときに、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(ヨハネ93)と言われて、その人の目を開いて、弟子たちを因果応報的な理解から解放されたのでありました。
 
今日の箇所は、エルサレムの都が滅ぼされるということを主イエスが予言され、その後で所謂「宮清め」と呼ばれる、エルサレム神殿から商人たちを追い出された出来事が書かれております。ここには、エルサレムの滅亡という不幸を主イエスがどう考えておられ、どう向き合おうとしておられるかが示されています。神様はちょうど震災が起こったこの時のために、この箇所を用意して下さったようです。今日はこの箇所から、私たちの身に降りかかってくる不幸、今回のような災害について、どう考えたらよいのか、主イエスはそうしたことにどう向き合って下さっているのかを、聴きとって参りたいと思います。

1.悔い改めなければ

今日の箇所に入る前に、もう一箇所、災害の理解について、主イエスが語っておられる箇所を見ておきたいと思います。ルカによる福音書131節から9(134)であります。

ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」(ルカ1315
 ここには二つの事件のことが述べられています。一つは、弟子たちと同じガリラヤ出身の人たちが、エリサレムの神殿でいけにえを献げて礼拝していたときに、ローマ総督ピラトの軍隊によって殺害された、という事件であります。彼らはローマに対して抵抗運動をしていた連中かもしれませんが、こともあろうに礼拝中を襲われたというニュースが届いたようであります。今一つは、シロアムという水源地にある塔が倒れて18人の犠牲者が出たという事件であります。地震が起こったのか、建設工事に問題があったのか分かりませんが、一種の災害であります。
 
主イエスはこれら二つの事件について、「彼らが災難に遭ったのは、ほかのどの人々よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない」と明言しておられるのであります。因果応報と考えてはならない、ということでしょう。では、どう考えたらよいのか。主イエスは続けて、「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と言っておられます。私たちは災害の報道を見聞きしたときに、気の毒だと同情したり、自分は巻き込まれなくてよかったと、ほっとしたりするのですが、主イエスはあなたがた自身の罪のことを考えなさい、あなたがた自身は大丈夫なのか、とおっしゃっているのであります。

2. 執り成す園丁

しかし、主イエスはそのように問いかけて、私たちに悔い改めを迫られるだけではありません。続いて、ルカによる福音書136節以下で、「実のならないいちじくの木」の譬えを話されます。

そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。 そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」
 ぶどう園の中に、どういうわけかいちじくの木が植えられているのであります。ぶどう園とは神様に選ばれた民を表しています。そこには多くのぶどうが植えられていて、実をつけています。ところが、いちじくは植えて三年も経つのに実をつけません。いちじくの木は私たちのことであります。ぶどう園の主人は、園丁に、「切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか」と言います。すると、園丁は、「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません」と言って、執り成します。この園丁とは、主イエス・キリストであります。罪深い私たちのために、主イエスが「もう少し待ってやって下さい」と神様に執り成して下さっているのであります。――私たちが、不幸な災害の知らせを聞いたときに思い出さなければならないことは、本当は私たちが切り倒されなければならないいちじくの木なのに、主イエスが執り成して下さって生かされているということであります。

3.見えない平和への道/神の訪れてくださる時をわきまえない

さて、このことを覚えつつ、今日の聖書の箇所を読みますと、大きな災害によって神様が私たちに示されていることは何なのか、そして主イエスはそうした事態にどう向き合って下さっているのか、ということがよく分かるのであります。
 
今日の箇所の初めの部分は、主イエスのエルサレム入城の場面であります。すぐ前の部分には、主イエスが子ろばに乗ってエルサレムに入ろうと、オリーブ山の下り坂にさしかかった時のことが書かれていて、人々は歓呼して主イエスを迎えるのであります。ところが、今日の箇所(41節以下)を見ますと、エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。やがて時が来て、敵が周りに保塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」と書かれています。
 
主イエスはエルサレムの都を見て、泣かれたのであります。主イエスが泣かれたことは、ヨハネによる福音書でラザロが死んだ時に、「涙を流された」と書かれてある以外は、福音書ではここだけで、ここで使われている言語は<大声を上げて泣き叫ぶ>という意味を持った言葉です。なぜ主イエスはそんなに激しく泣かれたのか。それは、エルサレムがやがて滅ぶことを見据えておられたからであります。実際、エルサレムは主イエスが十字架に架かられてから三十数年後の紀元70年にローマの軍隊によって壊滅させられるのであります。しかし、主イエスが泣かれたのは、単にユダヤの首都であるエルサレムが滅ぼされることを悲しまれたということではありません。42節では、「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない」と言っておられ、44節の最後では、「神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである」と仰っています。「平和への道をわきまえていない」とは、ローマとの関係がうまく行く道を知らないということではありません。神様と人々との間の平和が実現する道をわきまえていない、ということであります。人々が神様のことを忘れて罪に陥っている現状から脱出して、神様とのよい関係が回復する道が主イエスによって開かれるということに気づいていない、ということであります。主イエスが誕生されたとき、天使たちは「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」(ルカ214)と歌って賛美いたしました。しかし、今、主イエスは十字架が待っているエルサレムに入られなければならないのであります。この時人々は主イエスを歓迎しているようでありますが、やがて「十字架につけろ」と叫ぶようになるのであります。「神の訪れてくださる時」とは、主イエスが来て下さったことでありましょう。人々は主がこの世に来て下さった意味も、今、エルサレムを訪れて下さった目的も、わきまえていないのであります。主イエスはそのことを悲しんでおられるのであります。
 
先ほど、実のならないいちじくの木のために執り成す園丁の譬えを聞きましたが、正に主イエスが人々のために執り成して下さって、神様との間に平和を回復されようとしているのに、そのことを人々はわきまえていないし、私たちもそのことを忘れているのであります。私たちも神様との関係が希薄になり、罪に陥り、神様のために実をつけない者になっています。主イエスは今、そのような私たちのためにも泣いておられるのではないでしょうか。主イエスの涙は、御自分のことを理解してくれない悔し涙なんかではありません。心から私たちのことを思って、御自分の身を神様の前に差し出しながら泣いておられる執り成しの涙であります。被災地の人々の悲しみは、私たちの推し量ることが出来ないほどのものであろうと思いますが、主イエスは当然、その人たちのためにも共に悲しんでおられるでしょう。しかし、それ以上に、主イエスはそのような災害の背後に潜んでいる私たちの罪のために泣いておられて、その解決のために、自ら十字架への道を歩まれるのであります。

4.祈りの家でなければならない

4546節は、所謂「宮清め」の記事であります。主イエスはエルサレムに入られると、真っ先に神殿の境内に入られました。この時に主イエスがなさったことをルカは極めて簡潔に、そこで商売をしていた人々を追い出し始めて、としか記しておりませんが、マルコ福音書を見ますと、「イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった」と書かれています。主イエスが商売をしている人々を追い出されたのは、神聖な場所で商売をするのは相応しくない、ということではありません。両替人というのは、神殿ではユダヤの貨幣で献金することになっていましたが、日常の生活ではローマの貨幣が使われていたので、両替する必要があったからであります。また、鳩を売る者というのは、犠牲の献げ物として牛、羊、山羊、鳩と決められていて、貧しい人は鳩を献げたのですが、献げられる動物は傷のないものでないといけないとされていましたので、家から持って来たり、遠くから動物を連れて来たのでは検査にひっかかるので、検査済みの動物が境内で売られていたのであります。そういうわけですから、これらのお店は神殿に礼拝にやって来る者にとっては便利なものであり、必要なものでありました。しかし、礼拝に来る人がどうしても使わなければなりませんから、商売人は高い手数料や代金をとることが出来ましたし、そこに店を出すために、神殿を管理している大祭司一族は大きな権利金をとって私腹を肥やしていました。そうしたことを主イエスは46節で「強盗の巣にしている」と言って批判されたのでありましょう。
 
しかし、問題はそれだけではありません。そういうことの背景に、本当の礼拝が行われていない、ということがあったのであります。先週の説教の中でも触れましたが、189節以下の箇所には、神殿でファリサイ派の人と徴税人が祈っている様子を主イエスが譬えで話されたことが記されています。ファリサイ派の人は、「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者ではなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します」などと祈りました。ところが、徴税人は、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈りました。そして主イエスが仰ったことは、「義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない」ということでありました。つまり、神殿では、このファリサイ派の人のような祈りや礼拝が献げられることが多くて、真実の悔い改めの祈りや礼拝が少なくなっていたということに主は問題を感じておられたということであります。
 
主イエスは、46節で「わたしの家は、祈りの家なければならない」という、今日旧約聖書の朗読で読んでいただいたイザヤ書の言葉を引用して、本当の祈りが行われるべきことを申されました。主イエスがエルサレムを見て泣かれたのも、このことのためであります。そして私たちが今日、聴かなければならないことも、このことであります。私たちは礼拝において、真実の祈り、特に徴税人がしたような、悔い改めの祈りがなされているだろうか、ということを思い返す必要があります。主イエスはこの礼拝の私たちの様子を見て、泣いておられないか、ということを思うべきであります。主はこの場所が本当の祈りの家になることを望んでおられます。そうでなければ、エルサレムが滅ぼされて、神殿も破壊されたように、私たちの礼拝場所も滅ぼされてしまうのであります。そのことが、今回の災害においても、思い知られるべきことであります。

結. 主イエスの執り成しの祈り

47節以下には、このような主イエスに対して、祭司長、律法学者、民に指導者たちは、イエスを殺そうと謀った、ということが書かれていて、この時には、民衆が皆、夢中なってイエスの話に聞き入っていた、とありますが、やがて民衆も、主イエスが自分たちの期待するような王ではないことが分かると、一転して「十字架につけろ」と叫ぶようになって、ついに、この一週間後には主イエスは十字架に架けられたのでありました。
 そして、主イエスは十字架の上で、こう祈られたことが、2334節に記されています。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」エルサレムのために泣かれた主イエスの思いは、ここにまで至るのであります。エルサレムの都はその後に滅びました。しかし、神様の救いの歴史は教会に引き継がれて、今も救いの御業は行われています。主イエスのこの執り成しの祈りが、私たちを今も滅びから救っているのであります。
 
大きな災害が起こると、私たちは不安に襲われます。しかし、神様はこのような災害によって、私たちに警告をお与えになっていることを覚えるとともに、主イエスが罪深い私たちと、祈りの家になっていない礼拝を悲しみながら、私たちを執り成して、「父よ、彼らをお赦しください」と祈っておられることを覚えたいのであります。
 
お祈りいたします。

祈  り

憐れみ深いイエス・キリストの父なる神様!
 
大きな災害によって、多くの悲しみや嘆きや不安が満ちている中で、こうして御言葉の恵みに与ることが出来、感謝と喜びと希望に満たされることが出来ましてありがとうございます。
 
どうか、今回直接被災した方々に、必要としている物が与えられると共に、主にある望みが与えられますように、お願いいたします。どうか、被災地の中にある教会が、この時にあっても、いや、このような時にこそ、力強く御言葉を宣べ伝えることが出来ますように。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿> 2011年3月20日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書19:41-48
 説教題:「祈りの家」
          説教リストに戻る