「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」
                            (ルカによる福音書19910 

 エリコの町の徴税人の頭ザアカイは、金持ちではあったが、ローマの手先としてユダヤ人からは嫌われ、罪人扱いされて、孤独で満たされない人生を送っており、そこから抜け出すことが出来ないでいた。私たちは、ザアカイとは時代も立場も異なるが、各自が生まれ育った環境と能力の限界の中で、満たされない思いを持ったまま、そこから抜け出せないでいるのではないか。私たちの中にもザアカイがいる。
 さて、ザアカイはエリコの町に主イエスが来られたと聞いて、興味を抱き、どんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることが出来なかった。そこで、主イエスに先回りして、いちじく桑の木に登って、葉の間から高見の見物をしようとした。ザアカイは、主イエスに興味を持っていたが、人格的な交わりを持つつもりはなかったのだ。
 ところが、主イエスがその場所に来られると、上を見上げて、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と言われた。ザアカイは傍観者のつもりであったが、突然、高見の見物から引き降ろされて、主イエスと向き合う関係に立たされ、家にまで入り込まれるのだ。私たちと主イエスとの出会いも、このようにして起こる。私たちは主イエスから何かを得たいという気持ちはあっても、自分の中に入り込まれては困るという思いがどこかにある。だが、主イエスは、私たちの中にある寂しさや空虚さや罪を見つけられるなら、それを憐れんで、主イエスの方から入り込んで来られるのである。
 ザアカイはそんな主イエスを喜んで迎えた。それを見た人たちはつぶやいたが、ザアカイは立ち上がって、「財産の半分を貧しい人々に施し…だまし取っていたら、それを四倍にして返す」と言い切った。今や、主イエスが自分を満たして下さったので、財産を失うことによっても満たされた者となることが出来た。こうして、主は標記のように言われた。ザアカイはアブラハムの子(神の約束の民)として、家族とともに救われたのだ。主イエスは今も、失われた者を捜し出して、神の民に加えようとして、私たちを訪れて下さるのである。

 米子伝道所主日礼拝説教<要 旨> 2011年3月13日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書19:1−10
 説教題:「失われたものを捜す」
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