序.よく知られた物語――今日、何を聴くか

今日与えられております「徴税人ザアカイ」の物語は、皆さん方もおそらく何度かお聞きになって、よく御存知の話です。私が米子伝道所に来てから、礼拝説教で取り上げるのは初めてですが、「ログ礼拝」で取り上げたことがありますし、「こどもかい」で劇をしたこともあります。しかし、聖書の物語は、よく知っている物語だから、もう聞かなくてもよいということにはなりません。聖書の言葉は、聞くたびに新しく私たちに語りかけて来るものであります。今日の箇所の最後の方の9節で主イエスは「今日、救いがこの家を訪れた」と言っておられます。その主イエスは「今日」また、私たちのところへ来て下さって、新しい出会いをここに起こして、「今日、救いがこの伝道所を訪れた」と言おうとされているのではないでしょうか。主イエスは今日、私たちに何を語りかけ、何を起そうとしておられるのか、目と耳を、そして心を御言葉に集中したいと思います。

1.失われた者――私たちの中のザアカイ 

ここに登場しますザアカイという人は、徴税人の頭で、金持ちであった2節)、と記されています。エリコの町の税務署長さんであります。と言っても、今の日本の税務署の人を思い浮かべてもらっては、大分違います。当時の徴税人というのは、支配者であるローマの手先として、ユダヤ人から税金を取り立てる仕事でありまして、ローマの支配を快く思っていないユダヤ人からは嫌われ者でありました。それに、ローマに払うべき以上の金額を徴収して自分の懐に入れるということも普通に行われていたようでありますから、金持ちで裕福でありました。ですから、経済的には恵まれた生活をすることが出来ましたが、ユダヤの社会の中では罪人扱いされて、仲間はずれの浮いた存在でありました。金を目当てに近付いて来る人はいたかもしれませんが、多くの人からは嫌われて、親しく心を交わすような人はおらず孤独であったことでしょう。金には困らなくても、満たされない人生を送っていたのではないでしょうか。逆に言うと、お金だけが頼りで、金を貯めることが唯一の楽しみであったということでしょう。しかし、誰からも尊敬されないし、認めてもらえず、疎外された人生で、失われた人生を歩んでいたと言えるのではないかと思います。ただし、ザアカイ自身が自分を失われた者と考えていたかどうかについては、聖書は何も語っていません。けれども、エリコの町に主イエスが来られたということを知って、どんな人か見ようとしたということの中には、自分の現状に対して何らかの不満を抱いていて、主イエスに対して漠然とした期待があったのではないかと思われるのであります。
 ところで、私たちはどうでしょうか。皆さんは、ザアカイのように嫌われ者ではなくて、周りには親しい仲間がたくさんいるのかもしれません。職場や学校や家庭でも、それなりの居場所があって、決して社会から疎外された存在、失われた存在だとは思っていらっしゃらないかもしれません。むしろ、一定の尊敬を受けて、誇りをもって生きておられるのかもしれません。世の中には、自分の弱さや欠点を抑えきれずに、隠しておくことが出来ず、そのために周囲から軽蔑されたり、まともに扱ってもらえない人がいます。ザアカイがどういう経緯で徴税人という仕事に嵌まり込んだのか分かりませんが、一定の能力があったからこそ、徴税人という仕事に就くことも出来たのでしょう。しかし、人々から嫌われるような仕事に就かざるを得なかったのには、お金に惑わされたのか、何か弱さがあったからでしょう。皆さんは、自分はザアカイのような失われた者ではないと思っておられるでしょう。彼のような弱い人を軽蔑したり、疎外してはいけないと思ってはおられても、そういう人とは距離を置いて関わろうとしておられるのではないでしょうか。けれども、私たちとザアカイのような人との間に、根本的な違いがあるのでしょうか。確かに、徴税人ザアカイは当時のユダヤという時代背景の中で生まれた特異な存在です。しかし、私たちも、それぞれが生まれ育った環境と、それぞれの能力の限界の中で、今の生活があって、それは自分にとっては必ずしも満足できるものではないけれども、そこから自由になって飛び出すことができないということは、私たちにもあることであります。「失われた人生」という言葉はぴったりしないかもしれませんが、それぞれに様々なものに囚われながら今の人生があるという点では、ザアカイと共通のものがあるのではないでしょうか。また、周囲の人々との関係で言えば、徴税人の豊かさが多くの人々の犠牲の上にあったように、私たちの生活も、世界の多くの貧しい人々の犠牲の上に成り立っていることを思わなくてはなりません。彼らからすれば、私たちは浮いた存在であります。経済的なことだけではありません。私たちは周りの人を傷つけたり、いやな思いをさせたり、様々な苦労をかけていながら、自分の我が侭を通したり、自分の面子を保ったりしているのではないでしょうか。このように、私たちの中にもザアカイがいるのであります。 
 先日の松江地区家庭集会では、「イエスに出会った人々」のシリーズで「ファリサイ派の人々」を取り上げました。ファリサイ派の人々と、今日の徴税人ザアカイとは全く逆の立場であります。徴税人はファリサイア派の人々から見れば、罪人の最たるものであります。一方、ファリサイ派の人々は掟を忠実に守って、自分たちこそ正しい者であり、神様に評価されるとうぬぼれているのであります。しかし、主イエスの目から見るならば、義とされたのは、神殿で胸を打ちながら「罪人を憐れんでください」と祈っていた徴税人の方であって、ファリサイ派の人ではありませんでした。ファリサイ派の人もまた、主イエスによって救われるべき「失われた者」であったのであります。
 
先週の礼拝説教では、金持ちの議員と主イエスとの出会いの場面から御言葉を聞きました。金持ちの議員は十戒の掟を子供の時から守って来ました。しかし、それだけでは満たされない思いをもって、「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と主イエスに尋ねたのであります。彼もまた、最高法院の議員という表舞台に立ちながら、救いを必要とする「失われた者」でありました。
 
私たちは、徴税人のように周囲の人々から疎外されるような存在ではなく、ファリサイ派の人々のようにうぬぼれてもいないと思っているかもしれませんが、主イエスの目から見るならば、「失われた者」であり、救いを必要とする者たちなのであります。

2.木に登った

さて、先程も触れましたように、主イエスがエリコの町に来られたことを知ったザアカイは、イエスがどんな人か見ようとしました。なぜ見たいと思ったのか、聖書には理由が書いてありませんが、主イエスが徴税人だったレビを弟子になさったり、徴税人と食事を共にしていることを聞いて、興味をそそられたのかもしれません。
 
ところが、ザアカイは背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかったのです。ザアカイだと知ったら、誰も親切に前に出してくれなかったのでしょう。それで、走って先回りして、いちじく桑の木に登りました。いつもは威張っている税務署長さんが木に登る姿は少々滑稽でありますが、いちじく桑の木というのは、低いところから枝が出ているので、登り易いそうです。それに葉が茂っていて、登ると下からは見えにくいそうです。文字通り高見の見物であります。ザアカイは主イエスに話しかけようとか、何かをお願いしようというつもりはなかったでしょう。ただイエスという人物を上から観察しようとしただけです。ザアカイは主イエスに興味を持ちました。何らかの期待もあったかもしれません。しかし、主イエスと人格的な交わりをするつもりはなかったでしょう。自分の方が、文字通り上から観察して、イエスという男が自分にとって役に立つ人間かどうかを判断しようとしただけであります。日曜学校の教案を書いた先生は、この木の上にいるザアカイの姿を象徴的に捉えて、<群衆からも主イエスからも、いわば浮いた存在になっている>と述べておられます。私たちもまた、礼拝に来て、こういう姿で、傍観者として主イエスを眺めようとしているだけなのではないか、ということを思わされます。イエス・キリストに興味を抱きつつも、一定の距離を置きつつ、自分に役に立つところだけ吸収できればよいという態度であります。しかし、それでは、人々からは浮いた存在のままなのであります。

3.あなたの家に泊まりたい

ところが、主イエスがその場所に来られると、上を見上げて「ザアカイ、急いで降りて来なさい」と名前を呼んで命じられたのであります。主イエスはザアカイの名前を知っておられました。主イエスの方がザアカイを捜しておられたかのようであります。ザアカイは傍観者でいるつもりでした。それなのに今、突然、高見の見物から引き降ろされて、主役にされるのであります。主イエスと向き合う関係に立たされるのであります。
 
しかも、主イエスは、「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」とおっしゃるのであります。初めての出会いでありますのに、強引な要求であります。この言葉は前の口語訳では「泊まることにしている」と訳されていました。原語にはそのような必然を表わす表現が用いられているのであります。主イエスは初めから、ザアカイの家で泊まるつもりでエリコの町にやって来られたのであります。そして、ザアカイを失われた人生から救い出そうとしておられるのであります。
 
イエス・キリストと私たちの出会いも、このようにして起こるということであります。私たちは主イエスから何かを得たいという気持ちはあっても、自分の中に入り込まれては困る、という思いがどこかにあるかもしれません。しかし、主イエスは強引であります。主イエスは私たちの中にある寂しさや空虚さや、そして罪を見つけられるならば、それを憐れんで、主イエスの方から入り込まれるお方であります。私たちが主イエスに対して親しみを覚えたり、愛を感じたりする前に、主イエスの方が先に、私たちを愛して下さる、ということであります。それが、主イエスとの出会いなのであります。そしてそのことが、この礼拝でも起こるのであります。

4.人々のつぶやきの中で

「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」という主イエスのお言葉を聞いて、ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた、と書かれています。これまで、こんな風にザアカイに接してくれる人はいなかったでありましょう。そもそも罪人扱いされていた徴税人と食事をするなどということはもってのほかでありましたから、まして徴税人の家に泊まる客などなかったでありましょう。主イエスはそんな世間の評判には関係なく、ただ寂しいザアカイを憐れまれたのであります。ザアカイはすぐにそのことが分かって、喜んで主イエスを迎え入れたのであります。
 これを見ていた人々の中には驚きが広がります。彼らは皆つぶやいて、「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」と言いました。これは陰口のつもりで言われた言葉ですが、その通りです。主イエスは正に罪人をこそ救うために、罪人と同じところに来られるお方であります。罪人と同じ扱いをされることを恥とはなさいません。私たちは主イエスをお迎えする資格などありません。しかし、キリストは私たちのところに来ることを良しとされるのであります。罪あるわたしたちが負うべき負い目を一緒に負って下さるお方であります。
 
人々のつぶやきの言葉はその通りなのですが、彼らの間違いは、自分たちもその罪人の一人であって、このお方を喜んで迎え入れるのでなければ、自分たちも救われないのだということに気づいていません。私たちは今、主イエスの罪人を救いたいとの激しいまでの愛を覚えるものでありたいと思います。

5.立ち上がったザアカイ

ザアカイは、この主イエスの愛を受けて、その人生が180度変わることになります。人々のつぶやきに応えるように、立ち上がって言います。この「立ち上がって」という言葉には、ザアカイの強い決意が示されています。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かをだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」――当時の規定では、慈善のための寄付は財産の五分の一までと決められており、与えた損害の弁償も五分の一でよいとされていました。それに比べると遥かに大きい額であります。これは主イエスが命じられたことではありません。ザアカイが自分で決意して約束しているのであります。これまでのザアカイは、人々から出来るだけ多く取り立てることを考えて来ました。しかし、主イエスに出会うことによって、人々に多く与えることを考え始めました。また、自分が過去に犯した罪に気づいて、償えるものは償いたいと考え始めました。今までは、自分を満たそうとして、多くのお金を集めましたが、結局自分を満たすことが出来ませんでした。しかし今は、主イエスがザアカイを訪れて、自分を満たして下さったので、自分の財産を失うことによっても満たされる者となることが出来ました。もはや、孤独ではありません。お金を失っても、満たされるものがあります。主イエスの愛が彼の心を満たして下さったからであります。

6.今日、救いがこの家を

この様子を見て主イエスは「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なにだから」と言われました。この日ザアカイに起こったことが「救い」ということであります。救いとは、何物かに縛られて、神様との関係が見えなくなっている状態から解放されることであります。主イエスは、ザアカイの囚われた姿、失われた姿を見て、主イエスの方からザアカイを訪れて下さることによって、そこから解放されて、救われたのであります。私たちの救いも、このようにして起こります。
 
ここで主イエスは「救いがこのを訪れた」とはおっしゃらずに、「このを訪れた」と言われました。救いはザアカイ個人に起こるだけでなく、ザアカイの家族にも、子孫にも及ぶのであります。使徒言行録には、パウロたちが捕えられて投獄されていた夜に、地震が起こって囚人たちの鎖がはずれてしまったとき、自殺しようとした看守を止めたパウロは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」と言ったことが書かれています。一家のうちで一人が救われることは、家族全体に及ぶのであります。私たちの目にはそのことがなかなか分かりづらい場合があります。家族がなかなか信仰に入ってくれない、礼拝につながってくれないというもどかしさがあります。しかし主イエスは約束されます。主イエスが心にかけ、訪れて下さった家は、救いから漏れることはないのであります。
 
主イエスは更に、ザアカイの家に救いがもたらされた理由として、「この人もアブラハムの子なのだから」と言っておられます。「アブラハムの子」というのは、直接にはユダヤ人の子孫という意味ですが、ここではユダヤ人だけではなく、神様の約束を受けた神の民という意味で受け取ってよいでしょう。人々はザアカイについて、これまではそのように見ず、捨てられるべき罪人と見ていたでしょう。しかし、主イエスはザアカイをも、神の選びの民の一員として見ておられるのであります。人々が何と評価しようと、また本人が自分は「失われた者」だと諦めていても、主イエスはザアカイを救われるべき者と見ておられたということであります。
 
ザアカイがこの後、実際に余分に徴収した税金を返却して歩いたのか、自分の財産を貧しい人々に施したのか、そのことは聖書には書かれていません。しかし、聖書にこのようにザアカイのことが書き残されているということは、おそらくザアカイがキリスト者になって、教会の中で、自分が救われた喜びを何度も語ったし、彼が約束したことを実行したことが知られて、初代の教会において長く語り伝えられていたからだと想像されます。

結.失われたものを捜して救うために

最後に10節を見ますと、主イエスはこう言っておられます。「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」ザアカイはこれまで、自分が「失われた者」だとは気づいていなかったかも知れません。しかし、主イエスのお言葉によって、今での自分が失われた者であったことをはっきりと知らされるとともに、自分がそこから救われたことを、喜びをもって受け取ることが出来たでありましょう。
 
主イエスは今も、「失われた者」を捜し求めておられます。まだ自分は失われた者だと気づいていない人も多くいます。自ら空しさや満たされない思いを持ちつつも、主イエスがそのような自分を、根底から救うお方であることは思い至らないまま過ごしているかもしれません。しかし、主イエスはそのような者をも、救いに入れるために、今日も捜し求めておられるのではないでしょうか。
 
また私たちは、一旦洗礼を受けて教会員になったとしても、主イエスとの関わりから迷い出てしまうことがあります。だからこそ、私たちも主の日ごとに、教会に来て、主イエス・キリストの御言葉を聴いて、主イエスとの新たな出会いを経験し、救われた恵みを覚えなおさなければなりません。否、私たちが主イエスをお訪ねするのではありません。私たちは、葉陰からそっと覗いているようなことなのかもしれません。しかし、主イエスの方から、今日も私たちに声をかけて下さっています。「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」「今日、救いがこの家を訪れた」と言っておられるのではないでしょうか。
 
祈りましょう。

祈  り

憐れみ深い主イエス・キリストの父なる神様!
 
あなたから身を隠して、気侭な生き方をしながら、自分が失われた存在であることに気づかないでいることの多い、私たちであります。そのような私たちを捜し求めて、訪ねて下さいましたことを感謝いたします。あなたが、御自分の恥や痛みも厭わず、私たちを捜し求め、救い出そうとしていて下さっていることを覚えます。
 
どうか、あなたの深い恵みに応える者とならせて下さい。
 
どうか、まだあなたを知らず、孤独や空しさの中にある人を訪ねて下さいますように。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿> 2011年3月13日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書19:1-10
 説教題:「失われたものを捜す」
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