序.何をすれば

日曜学校のカリキュラムによる今日の聖書の箇所は、ルカ福音書の18節から23節までですが、大人の説教では延長して30節までといたしました。子供の説教では、あまりあれこれ話すことは適切ではないので、なるべく短くしますが、ここは通常は一体として扱われることが多い箇所ですし、23節までだと、金持ちの議員が「非常に悲しんだ」ということで終わっていて、救いがないような誤解を受けかねないからであります。
 
ところで、先週はすぐ前の、15節から17節の箇所で、<子供のように神の国を受け入れる>ということを学びましたが、その際に、今日の箇所についても触れまして、この金持ちの議員は、大人であることに固執して、子供のようになれなかった、ということを申しました。確かに、福音書の記者は、前の段落に続いて金持ちの議員の記事を書くことによって、神の国に入るということについて更に深く語ろうとしているのであります。
 
18節で、この議員が「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねていますが、これは言い換えれば、「神の国に入るにはどうすればよいか」という質問であります。テーマは続いているわけです。彼は自分で何かをすることによって、神の国(天国)に入り、永遠の命を自らの手で獲得しようとしています。これは、立派な人間になろうとする、大人の道であります。「子供のように」というのとは逆の道を登ろうとしているのであります。
 
今日の説教の題は、22節からとって「天に富を積む」といたしました。結論的には、「天に富を積む」ということと、「神の国に入る」ということと同じことであり、「永遠の命を受け継ぐ」ということとも同じことだと言えます。主イエスはこの議員の「何をすれば」という質問に対して、何とお答えになるのか、<どうすれば「天に富を積む」ことが出来る>とお答えになるのでしょうか。

1.神おひとりのほかに、善い者はだれもいない

本題に入る前に、質問者が「ある議員」と書かれていることに目を止めたいと思います。この「議員」という言葉は、元々「支配者」とか「指導者」という意味で、時にはユダヤ教の会堂の管理人を意味し、この訳のようにユダヤ議会の議員を意味しました。ユダヤ議会というのは、70名からなる最も権威のある最高法院(議会)であります。国会と最高裁判所を一緒にしたようなところで、イスラエルの社会生活全般を監督する立場にあります。後には主イエスを死刑にしようといたしました。そのような最高議会に属する人が主イエスのところに教えを乞うために来たということは驚きでありますが、この人にとって、切実な問題であったということが伺えるのであります。マタイ福音書の併行箇所では、「金持ちの青年」と書かれていて、そういう呼び方の方が有名ですが、若くして最高の地位に上り詰めながら、まだ満たされないものを感じて、もっと高い目標を目指したいと思っていたのでありましょう。それが、「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」という質問になったのであります。大変真面目な人物だと言って間違いないでしょう。
 
ところが、主イエスは、その質問に対して、「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」と言っておられます。これは、この議員の質問に真正面からお答えになっていないように思えるかもしれませんが、実はとても大切な点を突いておられるのであります。彼は、後でも分かるように、律法を熱心に守ることによって、一生懸命に「善いこと(善)」を行って来たのですが、それでもなお満たされないものを感じて、もっと上の「善」を目指したいと思って、より上の「善」を持っていると思えた主イエスを尋ねたのであります。しかし、そこに「善」ということについての大きな思い違いがありました。主イエスは、「神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」と仰っています。本当の「善」というのは神様にしかない、ということです。彼が考えていたのは、そのような絶対的な「善」ではなくて、人間が善いことを積み重ねると段々と上に行けるような相対的な「善」のことでありました。主イエスに対しても「善い先生」と尊敬をもって呼びかけてはいますが、自分よりは「善い」お方だとは思っていても、絶対的な「善」を持っておられる神様の子という認識はなかったのであります。そこに大きな思い違いがあります。より上のもの、より善いものを目指して努力を重ねても、神様に出会うことは出来ないのであります。
 
私たちが教会に来て、より善い生き方、より上の人生のために、何をすれば善いかをつかみ、それを実行するために努力を積んだとしても、永遠の命を得られるわけではないし、神の国に入ることが出来るわけではない、ということであります。教会は善い行いを積み重ねて、天国に入れる合格点をもらうところではない、ということです。

2.あなたに欠けているもの――わたしに従いなさい

そこで主イエスは、この議員の思い違いに気づかせるために、こう言われました(30)「『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」――ここに引用されている掟は、モーセを通して与えられた十戒の後半部分です。これはユダヤ人なら皆よく知っていましたし、それを守るように努めていました。だから、この議員はこう答えます。「そういうことはみな、子供の時から守ってきました。」――この言い方には、<なぜそんな初歩的なことを持ち出すのか。そんなことは、守っていて当たり前だ。自分が尋ねたいのはもっと上のことだ>という気持ちが込められています。この人は律法を守ることについては自信があります。しかしながら、それでは満足出来なかったのであります。
 
ここで、十戒を初めとする律法が何のために与えられたのかということを確認しておきたいと思います。十戒はイスラエルの民がエジプトでの奴隷状態から解放されて、神の民としての自由を与えられた時に、その恵みに留まる生活を続けるための指針として示されたものでありました。ですから、十戒を初めとする律法は、それを守ったら救われるというような、救いのための条件を示すものではありません。神様の救いが先にあって、その救われた状態を保つための道しるべであります。ところが、この議員は、それを永遠の生命を得るための一里塚のように考えて、その先の高いハードルを求めていたのでありますが、それではこの議員にいつまで経っても喜びはありませんし、永遠の命を受け継ぐことは出来ないのであります。
 
それと、この議員には十戒に対するもう一つの誤りがあります。彼は自信をもって「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言っておりますが、十戒で命じられている言葉の表面的な意味では確かに守っていたのかもしれませんが、十戒に込められている本質的な意味で守っていたかどうかということであります。十戒の本質的な意味については主イエスが「山上の説教」の中で教えておられます。例えば、「殺すな」という掟について、こう言っておられます。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」(マタイ52122)。つまり、「殺すな」という掟は、人を殺さなかったら合格ということではなくて、人に対して腹を立てたり、憎らしく思うことの中に、人の存在を無視したり、否定して、ひいては人を殺してしまう罪の根があるということであります。そうなると、誰も胸を張って、この掟を守っていますなどと言えないのであります。むしろ、自分の恐ろしい罪に気づかなければならないのであります。そこから、神様が備えて下さる罪の赦しの恵みが見えてくるのであります。そのことを、この議員は忘れているのであります。
 
更に主イエスは別の機会に、十戒の後半の掟をまとめると、「隣人を自分のように愛しなさい」ということになると教えておられます(マタイ2239)。十戒は<何かをしてはならない>という禁止命令であるだけではなく、<隣人を愛しなさい>という積極的な行動を導き出す掟であります。この議員は掟に対して、そういう理解とは程遠いところにいました。
 
そこで主イエスは言われました(→22節)。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」――ここで誤解してはならないことは、「持っている者をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやる」ということが、永遠の生命を受け継ぐための条件だということではないし、主イエスの弟子になるための資格だ、ということでもないということです。主イエスはこの議員の注文に応じて、より高いハードルを与えたということではありません。主イエスがここで、このように言われたのは、先ほども申しましたように、自分が掟をみな守っているという誤まった自信を打ち砕いて、隣人のために自分の持ち物を捨てて愛することが出来ない自分の罪を認めさせると共に、自分が善い行いを積み上げることによって永遠の命を得られるという道ではなくて、弱い自分を主イエスの許に投げ出すことによって罪を赦され、救いに入れられるという新しい道をお示しになるためでありました。
 
けれども、23節を見ると、しかし、その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである、とあります。彼はなぜ、主イエスが仰ったように出来ず、悲しみながら主イエスの許を去らなければならなかったのでしょうか。「大変な金持ちだったからである」と書かれています。これまでに営々として蓄えてきた財産を捨てることが出来なかったということです。しかし、それは単に財産に執着があったということではないでしょう。主イエスの許に自分を投げ出すことが出来なかったということであります。何とかして自分で永遠の命をつかみ取りたい、自分の功績で神の国に入ろうという道を捨て切れなかったということであります。主イエスに信頼して、主と共に歩む道に切り替えることが出来なかったということであります。これは大きな分かれ目であります。
 
私たちもまた、自分の人生の幸せを自分で築きたい、自分で守りたいと思うのであります。その延長上で、聖書を学ぶことも、教会に来ることも、位置づけているのであります。しかし、主イエスを信頼し、自分を主イエスに明け渡すことがなければ、最高の幸せである永遠の命を受け継ぐことも、神の国に入ることも出来ないのであります。

3.だれが救われるのだろうか――神にはできる

さて、24節以下には、主イエスが、議員が非常に悲しむのを見て、「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言われたことが書かれています。「らくだが針の穴を通る」と言われている「針の穴」というのは、町の城門の横にある小さなくぐり戸のことで、らくだは背が高いので、足を折り曲げないと入れず、足を折り曲げたら通り抜けられないところから、このような慣用句が出来たのだという解説もありますが、そのまま、「らくだが針の穴を通る」と読んでよいのではないでしょうか。いずれにしろ、金持ちが財産に執着しながら神の国に入ることは不可能だということであります。しかし、執着していたら入れないのは財産だけではないでしょう。自分の地位や名誉や家族、仕事や趣味など、自分が大切だと思っているものは皆、神の国に入ることを妨げます。私たちは、そういうものに縛られていて、自由ではないのです。おそらく誰も、大見栄を切って「私は何物にも縛られていません」と言える人はいないと思います。主イエスはそのことをはっきりと指摘なさったのであります。
 
この主イエスの言葉を聞いた人々は、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言いました。誰も自分が縛られた存在であり、自由を奪われていることを認めざるを得ませんでした。私たちも、縛られた者であり、そこから離れて自由になって、救いに入ることは不可能であることを覚えざるを得ません。
 
ところが、人々のこの発言に対して、主イエスが言われたのは、27節にあるように、「人間にはできないことも、神にはできる」というお言葉でありました。私たちの業や、私たちの決断によっては誰も救われませんが、神様の憐れみを受けるならば、救われて神の国に入ることも可能だと言われるのであります。かつて、主イエスの母マリアが受胎告知を受けたとき、マリアは「どうして、そのようなことがありえましょうか」と言って、天使の言葉を信じることが出来ませんでしたが、天使は不妊の女と言われたエリサベトも妊娠して6ヶ月になっていることを挙げて、「神にできないことは何一つない」と言いました。処女マリアの受胎は、神様の救いの御業の一環として行われた奇跡の出来事でありました。それと同様に、私たちの救いは、人間の努力や決断の賜物ではなくて、神様の愛から出た御計画によって起こされる奇跡の業なのであります。私たちが様々なこの世の業から解放されて礼拝に出席するのも、また、生まれ育った家族環境や社会習慣から解放されて受洗に導かれるのも、教会のため・主のために自分の時間や楽しみを削ってでも仕えることが出来るのも、それをさせるのは、私たちの思い切りの良さや高い献身の志によるというよりは、神様の導きによる奇跡の業であります。

4.後の世で永遠の命を受ける

「人間にはできないことも、神にはできる」という言葉を聞いたペトロは、少し得意気に、しかし不安も抱きながら問いかけるように、28節で「このとおり、わたしたちは自分の物を捨ててあなたに従って参りました」と言いました。マタイ福音書の併行記事では、「では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」と問うております。確かに弟子たちは、財産も家族も捨てて主イエスに従いました。それは、弟子たちの功績とは言えません。主イエスの強い招きの力が働いて、全てを捨てて、主イエスに従うことが出来ました。これも奇跡であります。けれども主イエスは、このペトロの得意気で、自分の利益を求めているかのような言葉を、叱ったり、咎めたりすることはなさらずに、29節でこう言っておられます。「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける。」――これは、弟子たちが家族を捨てたから、その功績の報いとして永遠の命を受けるという意味ではありませんし、家族との関係を断たなければ神の国に入れないということを仰っているのでもありません。弟子たちが主の招きを受けて、様々なこの世の関係に束縛されずに弟子とされるという奇跡が起こったことによって、神の国においては、家族との間にも従来に勝る新しい関係が創り出されるということであります。神様を中心とした新しい家族関係、神の家族が生み出されるのであります。それが「永遠の命」を受けるということであります。

結.天に富を積む

今日の説教の題は「天に富を積む」であります。この言葉は22節に始めて出て来たのではなくて、実は12章の21節にも出ております。そこでは、主イエスに、<兄弟が相続した遺産を自分にも分けるように言ってください>と頼んだ人に対して、豊作で得た穀物や財産を新しく建てた倉に蓄えて安心している者に、神様が「今夜、お前の命は取り上げられる」と言われるという譬えをお話しになって、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」と言われたことが書かれています。この譬えから分かるように、「天に富を積む」ということは、自分の安心のために財産を蓄えるよりも、神様の関係において豊になることの方が永遠につながる富を積むことになる、ということであります。
 
また、1233節にも出て来て、そこでは、何を食べようか、何を着ようかと思い煩っている人に対して、「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる」と仰った後で、「自分の持ち物を売り払って施しなさい」と言われて、「富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ」と言われたことが書かれています。私たちは地上の富をいくら積んでも安心は出来ないし、反って、それが冒されないかと心配になるだけです。しかし、主に従うことによって、地上の家族との関係や地上の財産や地位や名誉や楽しみといった富が失われたり減少したように見えるとしても、神の国においては、家族との関係においても、豊かさとか喜びということにおいても、もっと大きな富を積むことになるのだ、ということであります。それは神様との生きた関係、即ち永遠の命に基づいて、家族とも、信仰に導かれたあらゆる人々とも生きることになるからであります。
 
祈りましょう。

祈  り

神の国を治め給う父なる神様!
 
主イエスによって、天に富を積み、永遠の命を受け継ぐことの出来る道を教えていただきまして、ありがとうございます。様々のこの世の富を捨てきれずに、思い煩いの多い者でありますが、どうか、すべてを委ねて主に従うことによって、天に富を積むことが出来ますように、上よりの強い導きの御手を伸べてください。どうか、この教会につながる全ての人とそのご家族をお救い下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿> 2011年3月6日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書18:18-30
 説教題:「天に富を積む」
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