序.子供のように、とは

今日は、ルカによる福音書の1815節~17節の御言葉が与えられていますが、ここには、先週に続いて「子供」が登場いたします。先週の箇所では、弟子たちの間で「だれがいちばん偉いか」という議論が起きていたことに対して、主イエスが子供を御自分のそばに立たせて、「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。私を受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方(即ち、父なる神様)を受け入れるのである」と仰って、最後に「あなたがたの中で最も小さい者こそ、最も偉い者である」と言明されたことを聴きました。主イエスや父なる神様の前では、力のない者、無価値な者、罪人とされる者こそが大切にされるということ、従って、弟子たる者も、偉さを競うのではなくて、弱い者、罪人とされる者を受け入れることが、主イエスや父なる神様との関係を与えられる道であることを教えられたのであります。ポイントは<子供に代表される弱い者、力のない者、問題ありとされる人をも受け入れるかどうか>ということでありました。
 今日の箇所も「子供」が登場いたします。ところが弟子たちは、子供(ここでは「乳飲み子」というもっと幼い子供)を連れて来た親たちを見て叱りました。前回の主イエスの教えを忘れたかのようであります。その様子を見て主イエスは、前回と同じように子供を自分の近くに呼び寄せられたのですが、そこで仰ったことは、前回と少し違っていました。結論的に仰ったことは、17節にある言葉で、「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」ということでした。前回は、子供そのものを受け入れるかどうかが鍵でありましたが、今回は子供のように、神の国を受け入れるかどうかが鍵であります。ポイントは自分が神の国を受け入れるかどうかで、その模範が子供である、ということであります。そこで問題になるのが、「子供のように」とはどういうことか、ということです。
 
私たちが信仰を持つということは、どういうことなのか。聖書のことをよく学んで、神学的な知識を得ることなのか、聖書の教えに従って清く正しい人間になることなのか、精神的な修練を積んで、如何なる困難にもめげない人間になることなのか、神の国に入れるというが、どうすれば入れるのか、永遠の命が与えられるというが、どうすれば得られるのか、といった疑問に対して、今日、主イエスによって与えられている答えが、「子供のように神の国を受け入れる」ということであります。今日はこの「子供のように」とはどういうことかを学びたいと思うのですが、そのことを理解するためには、この箇所の前後を見ることが大変参考になりますので、すぐ前の「ファリサイ派の人と徴税人のたとえ」と、すぐ後の「金持ちの議員」の記事も併せて見ながら、「子供のように」とはどういうことかを御一緒に考えて参りたいと思います。

1.子供に祝福を願う親と、叱る弟子たち

まず、今日の箇所の主イエスの言葉がどういう状況の中で語られたかを押さえておきましょう。15節の初めに、イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た、とあります。当時のユダヤでは、有名なラビ(先生)のところに生後1年くらいの幼児を連れて来て祝福してもらう習慣があったようです。主イエスもその教えや働きによって有名になっていましたから、親たちは、この先生に祝福してもらうと子供に幸せが来ると思ったのでしょう。「触れていただく」というのは、祝福していただくことを意味します。
 
ところが、これを見た弟子たちが親たちを叱ったのであります。なぜでしょうか。この時までに、主イエスは既に二度も御自分の死について予告されていました。弟子たちはそのことをまだよく理解出来ずに、受け入れられないでいましたが、大変な事態が迫っていることは感じていたと思います。主イエスに敵対する人たちの動きもある中で、緊迫した論争を見聞きしていた弟子たちが、<こんなことで主イエスを煩わせたくない>と思ったのも当然かもしれません。それに、先週もお話ししましたように、当時のユダヤでは、子供は価値のない者と見做されていました。それは、子供は律法を守ることが出来ないので、神様の救いには価しないと考えられていたからであります。そんな子供が、大人の真剣な話の場面にいるのは相応しくないと、弟子たちは判断したのでしょう。これは、当時としては常識的な判断であり、主イエスの立場を配慮したつもりでありました。
 
しかし、そこには弟子たちの思い込みと思い上がりがあったことを見なければなりません。弟子たちは、先週の箇所にもあったように、自分たちのうちでだれがいちばん偉いかと議論していました。ということは、当然、自分たちは他の一般の人たちより偉い者、主イエスに近い者、主イエスのことがよく分かっている、という思い上がりがありました。わが子の祝福だけを求めてやって来るような親たちよりも、自分たちは主イエスと行動を共にし、主に仕え、主イエスの話をよく聞いているだけ、神の国に近いと考えていたのでしょう。まして、乳飲み子たちは、神の国からは遥かに遠いところにある者と思い込んでいたのであります。
 
このような思い込みは私たちの中にもあるのではないでしょうか。教会には色々な人が訪れます。私たちはそういう人たちを、いつの間にかランクづけしています。主イエスに近く、神の国に近い人、良いところまで行っている人、まだまだ遠い人、全然分かっていないで遥か遠くにいる人、というように自分なりの判断規準で人を評価しています。そして、自分はそれほど遠くないところにいるつもりになっているのであります。しかし、主イエスの判断規準は弟子たちとは違いましたし、私たちとも違います。では、主イエスはどのような人が神の国に相応しいと考えておられるのでしょうか。

2.子供を呼び寄せるイエス

16節には、しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた、とあります。主イエスは弟子たちが近寄ることを拒否した乳飲み子たちを呼び寄せられたのであります。併行記事のマルコ福音書1014節を見ますと、「イエスはこれを見て憤り。弟子たちに言われた」とあります。主イエスは弟子たちが叱ったことに憤られたのであります。弟子たちは主イエスのためを思って叱ったのでありますが、それは思い違いであるだけでなく、主イエスの思いとは全く逆のことをしてしまっていたということです。主イエスは言われます。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。」主イエスは弟子たちとは逆に、乳飲み子たちを御許に呼び寄せられたのであります。それは乳飲み子が可愛いからではありません。子供にも人権があって、差別してはいけないからとか、大人も子供も平等に扱わなければならないからではありません。子供たちこそ、主イエスのところに来るべきもの、主イエスの近くにいるのが相応しいからであります。だから、誰も子供たちを妨げてはならないのであります。子供だからという理由で、まだ律法を守ることが出来ないという理由で、主イエスの近くに来ることを拒否してはならないのであります。常識的な価値観やこの世的な評価基準で人を見てはいけないということであります。もしかすると、教会的な判断規準さえ間違っているかもしれません。主イエスが招こうとされている人と、私たちの見方が違っていて、主イエスの許に来るべき人を私たちが妨げているかもしれないということを考えてみるべきなのであります。

3.神の国は子供のような者たちのもの

続けて主イエスは仰いました。「神の国はこのような者たちのものである。」――神の国は子供のような者たちこそ入ることが出来る、と言われるのです。では「子供のような者」とはどういうことなのか。私たちは子供というと、無垢だ、罪がないとか、素直だ、純真だということを考えてしまいます。確かに大人と比べればそういうことが言えるでしょう。しかし、子供に罪がないわけではありません。子供もウソをついたり、意地悪もします。ですから、子供のように無垢であればよいとか、素直であれば神の国に入れるということではないでしょう。では、主イエスは「子供のような者」ということで、どんな人のことを言っておられるのでしょうか。
 
そのことを理解するために、先ほども申しましたように、この記事の前後を見ることが大変参考になります。
 
ルカ福音書を書いたルカは、既に存在していたマルコ福音書を参考にしながら書き直したと考えられていますが、ルカは、マルコと違って、すぐ前に「ファリサイ派の人と徴税人のたとえ」を入れています。そこには、自分を正しい人間だとうぬぼれているファリサイ派の人の祈りと、自分は罪人だと思って神様に憐れみを求めている徴税人が対照的に描かれていて、主イエスは、<義とされて家に帰ったのは、徴税人の方であって、ファリサイ派の人ではない>と述べられ、結論として、14節の最後にあるように、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と言われたのであります。徴税人は神殿で遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈りました。徴税人は自他共に認める罪人であります。ですから、この祈りは謙遜して言っているのではありません。罪を認めることにおいて子供のようであります。もっとも、子供も自分がした悪いことを認めないことがありますが、そういうことではなくて、子供は自分の弱さ、小ささを知っております。大人と張り合って良い格好をしようとはしません。この徴税人も、ファリサイ派の人と張り合おうとはしません。自分の弱さ・罪をありのまま認めているのであります。神の国はそのような者たちのものだと言われるのであります。
 
先ほど旧約聖書の朗読で詩編51編を読んでいただきました。これは祈りの詩編で、こう祈られていました。「神よ、わたしを憐れんでください/御慈しみをもって。深い御憐れみをもって/背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い/罪から清めてください。あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく/あなたの裁きに誤りはありません。・・・」(詩編5136)この詩人のような罪を悔い改める心が、正に子供の心であります。私たち大人はこういう心を失って、一生懸命言い訳を考えたり、人と比べて自分をましな者だと考えたり、悔い改めの言葉を述べる場合でも、それをひけらかすところがあります。
 
次に、今日の箇所の後を見てみましょう。ある金持ちの議員が主イエスのところにやって来て、「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」(18)と尋ねました。立派な質問です。大人の質問です。この質問は言い換えると、「神の国に入るにはどうすればよいか」というのと同じです。彼は自分で何かをすることによって、神の国に入り、永遠の命を自らの手で獲得しようとしています。子供には出来ないことです。主イエスが律法の掟のことを持ち出されると、その議員は「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」(21)と胸を張って答えています。彼は子供の時から積み重ねて来た大人になる道、立派な人間になる道を、更に上り詰めようとしています。これに対して主イエスは、「持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい」と仰いました。これは、より高い課題を克服することを命じられたというよりも、自分の力では神の国に入ることも、永遠の命を得ることも出来ないことを示されたのであります。自分の力で目標に達しようとする大人であり続けるのでなくて、何も出来ない子供であることを認めさせようとなさったのです。しかし、彼は結局、悲しみながら去って行くことになりました。自ら子供であること、罪人であることを否定したのであります。そうして神の国に入る扉を、自ら閉ざしてしまいました。
 
17節で主イエスは、「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と言っておられます。先ほどの金持ちの議員は「子供のように神の国を受け入れる」ことが出来ませんでした。

結.神の国を受け入れる――恵みへの応答

では、「子供のように神の国を受け入れる」とはどういうことなのでしょうか。ここで私たちは、「子供のように」とは、どういう人になることなのか、どういう人になることを目指せばよいのか、と考えてしまいます。そして、子供のように素直にならなければならないとか、子供のように理屈抜きで信じなければならないとか、子供のように清らかにならなければならない、と考えてしまうのです。しかし、主イエスは「子供のようになりなさい」とは言っておられないのです。「子供のように神の国を受け入れる人でなければ」、と言っておられるのです。では「子供のように」とはどういうことでしょうか。子供は自分では何も出来ません。世間で評価されるような立派な事は何も出来ません。自分で生きて行くことすら出来ません。親や大人に依存するしかない存在で、そのことを自分でもよく知っています。この場合も、乳飲み子が主イエスの前に来たのは、親に連れられて来たのであります。自分の力で主イエスの前に出ることさえ出来ないのが子供であります。「子供のように」とは、そのように何も出来ない、ありのままの自分を認めるということであります。「神の国を受け入れる」というのは、私たちの精進努力で神の国に入る資格を得ることとは全く違います。「神の国を受け入れる」とは、目の前に備えられた祝福を、ただ喜んで受けるということであります。ありのままの自分でよいのです。
 
しかし、私たちは、大人であります。子供のままでよいと言われても、不安になります。ファリサイ派の人のように、自分がしたことを数え上げたくなります。金持ちの議員のように、もっと何かをしなければ神の国には入れないのではないかと、考えます。神の国とはそんなに安っぽいところでよいのだろうか、と疑問を持ち始めます。自分が実は子供であること、力のない、罪深い者であることを認めたくないのであります。徴税人のように「罪人のわたしを憐れんでください」とは祈れないのです。金持ちの議員と同じように、自分の持っているものを捨て切ることが出来ないのです。罪人になりきれないのです。何とか自分の力で罪人から脱出して、誉れを得たいと思うのです。しかし、私たちの罪の問題を解決出来るのは、十字架の主イエス・キリストしかありません。罪の問題の解決は、この主イエスに頼るほかないのであります。自分の弱さも罪も、ありのままを主イエスに明け渡すときに、神の国に入ることが出来る、と言って下さっているのです。
 
今年、私たちは「恵みへの応答」ということを年間の目標に掲げました。神様の恵みに対して、私たちの側からの応答をしよう、ということであります。しかし、間違ってはいけないのは、私たちの側できっちりとお返しをしなければ、キリスト者として失格だとか、教会の歩みとして不十分だということではありません。神様からの恵みはあまりにも大きくて、お返しなど出来る筈もありません。いくばくかでもお返しをしなければならないとか出来ると考えるのは、ファリサイ派の人や金持ちの議員と同じであります。神様が私たち一人一人を最も相応しく用いて下さるし、この教会を御計画に従って用いて下さる筈であります。私たちは、ただ命じられるままに、子供のように喜んで従えばよいだけであります。神様の恵みを子供のように受け入れているならば、私たちの小さな日々の歩みの中に神の国が始まるのであります。  お祈りいたしましょう。

祈  り

恵み深い父なる神様!
 自分の弱さ、罪深さに気づかないまま、神の国への階段を自分で昇ろうとする愚かを繰り返している者であります。そのような私たちに、今日は、<子供でよい>との御言葉を聴かせて下さいまして、有難うございました。どうか、主イエス・キリストのゆえに、あなたの子供として受け入れて下さいますように、お願いいたします。
 
どうか、心や体の弱さを持っているがゆえに、引け目を感じたり、あなたの恵みを覚えることが出来ないでいる人たちを顧みて下さり、そのままであなたに受け入れていただけ、御心に沿えることを覚えさせて下さい。どうかまた、自らの手で幸いを満たし得ると思って、あなたの恵みを求めていない人にも、自らが欠け多い子供であることに気付かせてください。そしてどうか、全ての者が、あなたの子供として御国に招き入れられることができますように、お導き下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿> 2011年2月27日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書18:15-17
 説教題:「神の国に入れる人」
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