「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」             (ルカによる福音書948

 主イエスが御自分の死を予告されたにもかかわらず、そのことを受入れられなかった弟子たちは、「自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論」を始めた。主イエスは、彼らの中にある醜い競争心だけでなく、人から誉れを受けたがる思い、更にはこの世で蔑視されている人々への無理解を「見抜き」、一人の子供の手を取って、御自分のそばに立たせて、標記のように語られた。
 当時のユダヤ社会では、子供は価値のない者、受け入れるに価しない者と見做されていたが、主はそのような子供を敢えて御許に引き寄せることによって、主イエスこそ、無価値な者、罪人のために、御自分の命をも捨てられるお方であることをお示しになるとともに、弟子たちも、子供と同様に無価値とされる者、罪人とされる者を受け入れることによって、主イエスの愛と父なる神の愛へと招きいれようとされた。
 
ここで主イエスが、「わたしの名のために」と言われたことに注目しなければならない。主が子供を受け入れるように求めておられることは、一般的な道徳観や倫理観によるのではない。主イエスが、罪深く無価値な私たちのために十字架につき給うた、その愛に満ちた御人格と御業のゆえに、ということである。
 
私たちは、現代の能力主義・効率主義の中で、上昇志向に陥っており、教会の中でさえ、そのような傾向が見られ、力のない者、問題を持った者が疎んじられかねない。そのような私たちに向かって、主イエスは、子供がそうであるように、自分の小ささ、弱さ、罪深さを認めざるを得ない「小さい者」をこそ、「最も偉い者」と呼んで、神の愛の世界に招き入れようとして下さっているのである。

 米子伝道所主日礼拝説教<要 旨> 2011年2月20日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書9:46−48
 説教題:「小さい者こそ偉い」
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