序.だれがいちばん偉いか

今日与えられています御言葉は、ルカによる福音書946節から48節の短い段落であります。ここは、主イエスが子供を真ん中に立たせて弟子たちに教えられた場面で、少し聖書に親しんだ方であれば、お馴染みの光景だと思います。しかし、同じように子供を題材にして話されたものでも、主イエスが言おうとされたことは、いつも同じではありません。ルカによる福音書では、1815節以下(p144)でも子供が取り上げられていますが、そこでは、「子供のように神の国を受け入れる」ということが教えられています。そこでは子供が信仰の模範とされています。ところが、今日の箇所では、子供は模範として引っ張り出されているのではありません。子供自体を受け入れるかどうかが主イエスを受け入れ、神様を受け入れることにつながっている、と教えておられます。子供が登場する点ではよく似ているのですが、主イエスが教えようとされている事柄は違うようであります。だから、この箇所を一読しただけで、<子供のように素直になれ>と教えておられるのだな、と早合点してしまっては、今日、主イエスが私たちに教えようとされていることを聞き違えてしまうことになります。
 
まず、今日の主イエスと弟子たちの会話がどのような状況のもとでなされたかということを押えておく必要があります。46節を見ますと、弟子たちの間で、自分たちのうちのだれがいちばん偉いかという議論が起きた、とあります。弟子らしくもない、子供じみたというか、世俗的な議論をしていたのだなと思われるかもしれません。 しかし、弟子たちにとっては真剣な問題であったようで、マルコによる福音書1035節以下(82)を見ますと、こんなことが書かれています。弟子のヤコブとヨハネが主イエスに、「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」とお願いするのです。主イエスが神の国の王になられるときに、自分たち兄弟を最高の地位に置いて下さいと申し入れたのです。この申し入れに主イエスがどうお答えになったかは、今日は触れませんが、このことを聞いた他の十人の弟子が、二人のことで腹を立てたということが書かれているのです。つまり、皆、我こそは一番の家来になりたいと思っていたのであります。馬鹿げたことのようですが、弟子たちにとっては大真面目な議論だったのであります。
 
しかし、このような議論を私たちも笑えないのであります。人間の集団であれば、学校にしろ会社にしろ、誰がいちばん偉いか、誰が一番成績が上か、誰の給料が多いか、誰の昇進が早いか、ということは大きな関心事であります。私たちも人と比べて、少しでも高い評価を受ければ得意になるし、少し扱いが悪いと落ち込んでしまうのです。そういうことは、この世の営みの中では当たり前だけれども、もし教会の中でそういう争いがあるとしたら、おかしいと誰でも思います。ところが、主イエスの弟子たちの間ではそういうことがあったことを聖書は正直に報告しているのです。なぜ、わざわざそういうことを聖書にあからさまに書いているのでしょうか。それは、福音書が書かれた時代の教会の中にも、同様のことがあったからでしょう。そして、今の私たちの教会の中でも、そういうことがあり得るということに気づく必要があるからであります。教会で「だれがいちばん偉いか」というようなことを、あからさまに議論することはないかもしれません。しかし、あの人は聖書のことがよく分かっているとかいないとか、だれそれは教会のためによく働いているとか、多く献げているとか、だれそれは働きが悪いとか、熱心でないとか、信仰が未熟であるとかいうことを、口に出さずとも評価しているのではないでしょうか。時には口に出して批判して、自分はそういう人より上にいるかのような態度をとることさえあります。そういう私たちの醜い姿を直視するために、弟子たちのありのままの姿をここに書きとめているのでありましょう。今日の御言葉を聞くためには、まずは、自分自身のそのような姿を認めるところから始めなければなりません。

1.心の内を見抜き

ところで、弟子たちがこのような低レベルの議論をしていたのは、直前の箇所を見ますと、主イエスが御自分の死を予告された直後であります。44節を見ますと、主イエスは「この言葉をよく耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に引き渡されようとしている」と言われており、45節には、弟子たちはその言葉が分からなかった、と書かれています。つまり、弟子たちの間で愚かな議論をした背景には、彼らが主イエスの御受難の予告を理解できなかったということがある、ということであります。そのことは、先週聴いた、ペトロの告白と主イエスの死と復活の予告の箇所にも現れていたことであります。弟子たちには分水嶺の向こう側が理解出来ていませんでした。弟子たちも、多くの人々も、主イエスに何を期待していたかと言えば、自分たちが高くされること、人々から尊敬される者になることでありました。それなのに、主イエスが「人々の手に引き渡される」というようなことは、あってはならないこと、理解できないことであったのであります。私たちが何のために教会に来ているかと言えば、単に幸せな生活を送れるようにとか、高い地位に昇れるようにということでないことは、分かっているつもりであります。しかし、教会に来ていない人よりも、道徳的、倫理的に高く評価される生き方をしたい、人々から軽蔑されるような生き方をしたくない、プライドを持てる生き方をしたいという思いが強いのではないでしょうか。ですから、人から誉められたり、丁寧な扱いを受けるのは嬉しいのですけど、人から批判されたり、無視されることには耐えられないのであります。
 
47節の前半には、イエスは彼らの心の内を見抜き、と書かれています。弟子たちは主イエスの前で、あからさまに、だれがいちばん偉いかという議論をしたのではなかったでしょうが、主イエスは弟子たちの心の内にある思いを見抜かれていました。それは、彼らが単に地位争いをしていることを見抜かれた、というだけではなくて、その底にある、人から誉れを受けたい、批判は受けたくないという思い、更には、主イエスに対する無理解、即ち、主イエスが「人々の手に引き渡され」、死ななければならないということを理解できないでいることを見抜いておられた、ということですし、更には、人々から蔑まれている人たち、弱い立場にある人々の心を理解できないでいることを見抜いておられたということでありましょう。
 
そして、ルカがここで言おうとしていることは、自分たちもこの弟子たちと同じように、主イエスと隣人に対して無理解であって、そのことを主イエスが見抜いておられる、ということではないでしょうか。主イエスは、今日も、私たちの心の内にある同様のものを見抜いて、私たちの前に立っておられます。そして、<お前は、十字架に架けられる私と一緒に歩むことから逃げたいと思っているのではないか>、<お前は、人々から批判を受けたり、蔑まされているような人と交わることは避けたいと思っているのではないか>、<お前は自分が人から誉められることだけを喜んで、批判されることから逃げようとしているのではないか>と問いかけておられるのではないでしょうか。

2.子供を受け入れる者

弟子たちの心の内を見抜かれた主イエスは、一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせられました。子供をどう扱うかということで、人々から低いと見做されている人とどのように交わるかということを教えるためであります。今の私たちの社会では、子供というのは純真で無垢な、愛すべき存在、周囲の者が保護すべき存在でありますが、当時のユダヤの社会では少し違っておりました。子供というのは、価値のない者、役に立たず、軽んじられるべき者、受け入れるに足りない者と見做されておりました。ですから、人々が子供を連れて主イエスもとに来たときに、弟子たちはその人々を叱りました。主イエスの大切な話を聞く場に、子供は邪魔になるだけだと考えたのでしょう。そういうことは、現代の日本の社会の中でも見られることです。子育てに疲れて育児放棄したり、親の邪魔になると虐待するということが行なわれています。子供でなくても、現代は、役に立たない者、効率の悪い者、足手まといになる者は切捨てられる世の中になっています。
 
そんな能力主義や効率主義からすると子供は何の役にも立ちません。そんな子供を、主イエスは手を取って、御自分のそばに立たせられました。邪魔になる者としてではなくて、価値ある者、なくてならない存在として、御自分のそばに立たせられたのであります。
 
そして言われました。「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」――子供を受け入れるということは、無価値とされている者を受け入れること、人々から蔑まれたり、邪魔だと思われている者を、大切な者、自分にとって無くてならぬ者、価値ある者として受け入れるということであります。
 
先ほど、現代は効率主義になっているということを申しましたが、そういう風潮は教会の中にも入り込みかねません。能力のある人、人付き合いの良い人、問題を起こさない人だけが歓迎されて、そうでない人が嫌われたり、排斥されたりすることが教会の中で行われるとすれば、ここで主イエスが子供を御自分のそばに立たせておられることに反することになります。主イエスは徴税人や罪人と席を同じくされました。彼らを受け入れられたのです。律法学者やファリサイ派の人々は、そんな主イエスに反発しました。弟子たちも、だれがいちばん偉いかと議論していることの中に、律法学者たちと同じように、無価値な者、罪を犯した者、小さな者を受け入れようとしない問題性があることを見抜いておられるのであります。
 
そんな弟子たちに対して、ここでは、「わたしの名のために子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と言われます。子供を受け入れること、無価値だとされている者、罪人だと見られている者、教会には相応しくないのではないかと思われている者を受け入れることが、主イエスを受け入れることになる、と言われるのです。なぜなら、主イエスはそのような者を受け入れられるからであります。逆に言うと、子供を受け入れられない人、無価値な者や罪人と見られえる者、教会に相応しくないと思われる人を排斥することは、主イエスを排斥することになるということであります。
 
そして更に主イエスは、「わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」と仰っています。無価値な者、教会に相応しくないと思われる者を受け入れることは、主イエスを受け入れることになるだけでなく、天の父なる神様を受け入れることになるのです。天の神様も、そういう無価値な者をこそ喜んで神の国にお招きになるからであります。逆に言うと、そういう無価値な者を受け入れない者は、天の父なる神様にも受け入れられないということになるのではないでしょうか。恐ろしいことであります。私たちは上昇志向をしていて、優れた者、立派な人になることを目指し、そういう人を大事にして、無価値と思われる者、役に立たないとみられる人を見捨てている間に、自分が神の国に受け入れられなくなる、ということに陥りかねないということです。
 
子供を受け入れる、無価値な者を受け入れるということは、自分も子供と同様に無価値な者であるということを認めるということであります。上昇志向である間は、自分が無価値であることを認めていません。しかし、無価値な者を受け入れる時、自分が無価値であることに気付き、そのような自分を受け入れて下さる主に気づくことが出来ます。今日、主イエスはこれまでの私たちのあり方の誤りを気づかせて下さったのですから、すぐさま悔い改めて、無価値な者、これまで排斥して来た者を受け入れると共に、自分こそが無価値であることを受け入れるならば、主イエスを受け入れることになり、父なる神様にも受け入れられることになるということです。

3.わたしの名のために

ここで、主イエスが仰っていることで、見落としてはならないことは、「わたしの名のために」という言葉であります。主イエスが子供を受け入れる、と言われる場合に、一般論として「子供を受け入れる者は」と言われたのではないのです。「主イエスの名のために」受け入れるのです。ということは、一般的な道徳観・倫理観で受け入れるということではないのです。子供は大切にすべきだとか、弱い人・価値のないと見られる人も尊重しなければならない、という人権思想が教えられているのではない、ということです。「わたしの名のために」ということは、<主イエスの御人格の故に>ということです。主イエスがどのようなお方であるか、ということから出てくることであります。44節にあるように、主イエスは「人々の手に引き渡される」お方であります。価値無き者として捨てられるお方であります。罪人の一人として十字架に架けられるお方であります。その十字架は何のためかと言えば、罪多く、無価値で、捨てられるべき私たちが神様に受け入れられるためであります。私たちの罪が許されて神の国に入れていただけるためであります。そのような主イエスの愛に満ちた御人格と御業のゆえに、私たちもまた無価値な者、教会に相応しくないと思われるような者をも受け入れることが出来るのであります。
 
逆に言うと、もし私たちに受け入れることが出来ない人があるとすれば、それは主イエスの名を受け入れていない、主イエスの愛を見ていないということになります。そして、弟子たちと同様に、だれがいちばん偉いかと議論している段階、自分の誉れを求めている段階に留まってしまっていて、主イエスの十字架の御業とそこに示された愛の御人格を受け入れていないということであります。そんな愛の業は主イエスだから出来ることで、自分には出来ないというのは、自分のような価値無き者のために死んで下さった主イエスの愛をまだ受け入れていないということになります。

結.小さい者こそ偉い

最後に主イエスは48節の後半で、こう言っておられます。「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」弟子たちは、「自分たちのうちのだれがいちばん偉いか」ということを議論していました。弟子たちとて、能力とか実績とかいった、この世的な基準でだれの価値が高いかということを論じていたわけではないでしょう。主イエスの弟子として誰が偉いかということですから、弟子としての働きの大きさとか、主イエスに対する忠実さとか行いの正しさといったことが念頭にあったのでしょう。しかし、主イエスはそのような基準で劣っている者、小さい評価しか出来ない者が、最も偉い者である、と仰ったのであります。「偉い」ということに対する逆転があります。
 
では、弟子としての働きが小さい方が偉い、忠実でない方が良いよい、行いが正しくない方が善い、ということでしょうか。そういうことではないでしょう。自分の小ささ、弱さ、自分の不信仰、自分の罪深さを認めるということであります。子供は自分の力が小さいこと、自分には価値が無いことを知っています。そのように、自分の低さを、愚かさを認めて、ただ主イエスの赦しのもとにある恵みを受け入れること、それが「最も小さい」ということであり、それが主イエスを受け入れることであり、父なる神様を受け入れることになるのであります。そういう者をこそ、主イエスは「最も偉い者」と呼んで下さるのであります。教会は上昇志向の価値観が支配するところではありません。神の国は、信仰心の高い者が入れるところではありません。罪人を救われる主イエスの大きい愛が自分にも向けられていることを知った者が、受け入れられるところであります。主イエスは今日の御言葉によって、小さな者である私たちを受け入れようと招いておられるのであります。
 
お祈りいたします。

祈  り

憐れみ深い父なる神様!
 
主イエスが小さな力のない子供を取り上げて下さったように、罪深く、無価値な私たちをも、主イエスの名のゆえに顧みて、用いて下さる恵みを覚えて、感謝いたします。
 
どうか、私たちのような者をも、あなたのみ栄えにつながる働きをすることが出来るように、お導き下さい。また、どうか、弱い人々、人々から低く見られている人たちを受け入れる者とならせて下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿> 2011年2月20日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書9:46-48
 説教題:「小さい者こそ偉い」
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