「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」   (ルカによる福音書9:23

 群衆が主イエスのことを洗礼者ヨハネの再来だとか、預言者の生き返りだと考えるほど、主イエスに対する人々の評価と期待が高まる中で、主イエスは弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われると、ペトロは「神からのメシア(キリスト=救い主)です」と、適確と思える答えをした(20)。だが、主イエスはペトロの中に、誤解や危うさがあることを見抜いておられた。主イエスの宣教活動において、この時がいわば分水嶺(峠)であり、この後は御受難の谷へと降って行こうとされているのだが、ペトロや弟子たちはまだ、そのことが分かっていない。
 そこで主イエスは、「人の子は必ず多くの苦しみを受け…殺され」(22)と予告され、標記のように述べて、分水嶺の向こう側における弟子たちの生き方をお示しになった。それは、「自分を捨てる(否定する)」こと、「自分の十字架を背負う」こと、そして「わたし(イエス)に従う」ことである。「自分の十字架を背負う」とは、単に自分が苦難を受けるということではなく、キリストが私たちの罪のために架かって下さった十字架を自分なりに背負うという意味であるから、そこには罪から解放される恵みを背負って生きるという喜びが伴うのである。
 
続いて主は、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救う」(24)と言われた。生まれながらの自分の命(生きがい)を自分の力で生かそうとしても、罪の問題の解決なくしては成功しない。だが、自分の命(生きがい)を捨てて主のために仕える生き方をするとき、私たちの命は罪から解放されて、本来の命(永遠の命)に生き返ることが出来るのである。
 
この主イエスの言葉を恥じる(信頼して聴き従わない)者は、主の再臨の日に主の前に立つことは許されない(26)。だが、今、主の言葉に聴き従う者は、既に神の国に入ることを約束され、永遠の命(主と固く結びついた生き方)を生き始めているのである(27)。分水嶺の向こう側には、実は復活の命が用意されていたのだ。

 米子伝道所主日礼拝説教<要 旨> 2011年2月13日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書9:21−27
 説教題:「自分の十字架を背負う」
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