序.福音書の分水嶺

今日与えられております聖書の箇所は、ルカによる福音書9章の21節から27節で、「主イエスの死と復活の予告」の箇所でありますが、カリキュラムでは先週に、すぐ前の18節から20節の「ペトロの信仰告白」の箇所を取り上げることになっていまして、これら二つの箇所は深く結びついているのですが、残念ながら先週は講壇交換がありましたので、抜けてしまいました。そこで今日は、「ペトロの信仰告白」のことにも触れながら、今日の箇所の言葉を聞いて行きたいと考えています。
 
この「ペトロの信仰告白」から「主イエスの死と復活の予告」に続く箇所は、福音書の中でも大変大切な箇所の一つでありまして、主イエスの宣教活動の分水嶺だと言われている箇所であります。というのは、主イエスに対する人々の期待がどんどん高まって来て頂点に達したところで、「ペトロの信仰告白」があり、そのあとはエルサレムでの御受難の深みへと降って行くのであります。そういう意味で、ここは福音書の分水嶺であり、主イエスの御生涯の峠でもあります。
 
しかし、私たちは福音書の評論をしているわけではありませんし、主イエスという方の偉人伝を読んでいるのではなくて、このお方が私にとってどういうお方なのか、私はこのお方をどのようなお方として生きて行くのか、このお方の言葉をどのように受け止め、それに聴き従っているのか、ということが重要であります。
 
今日の箇所では、23節で主イエスは「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と命じておられます。この御言葉を私たちはどう受け止めればよいのでしょうか。とても重い課題を背負わされるようで、尻込みをしてしまうのではないでしょうか。しかし、この言葉を避けていたのでは、主イエスの御言葉を聴いたということにはならないし、この御言葉に込められた大きな恵みを逃すことになってしまうのであります。
 
今日は、この御言葉をどう受け止めるのかということを軸に、分水嶺における主イエスと弟子たちとの遣り取りを通して、主の御心を聴いて行きたいと思います。

1.あなたがたはわたしを何者だと言うのか

さて、主イエスが町や村を巡りながら、教えを語ったり、奇跡の業を行ったりなさるうちに、主イエスに対する人々の評価と期待が高まって来ましたが、同時に人々は主イエスに対して、言いようのない畏れのようなものも感じ始めていたのではないかと思われます。一体、この方はどういうお方なのだろうか。この方に自分の身を任せてよいのであろうか。この国の将来を託してもよいのだろうか。そのような期待と不安が入り混じった思いは、弟子たちも同じであったのではないかと思われます。そして、そのような思いは、今の私たちも同様なのではないでしょうか。求道者の方は、聖書やキリストに対して惹かれるものを感じておられるのでありましょうが、そうかと言って、キリストに身を任せてしまってよいのであろうか、自分のこれからの生活を礼拝中心の生活に切り替えてしまって大丈夫なのだろうか、という不安を当然、持っておられると思います。求道者だけではありません。既に何年も教会生活を続けて来た方であっても、自分をキリストに委ね尽くすというところまではなかなか行かず、この世における自分の生活を確保しながら、キリストからも良いものを受け取りつつ、ほどほどにキリストに仕えて行く、というようなところが実態なのかもしれません。一体、私自身にとって、主イエス・キリストとはどのようなお方であるのか、私の生活の中で、私の人生の中で、どのようなお方として関わって行けばよいのか、――これは絶えず起こってくる問いであります。
 
主イエスに従った弟子たちも、おそらく同様の思いで主イエスと行動を共にしていたと思われますが、ある時、主イエスが弟子たちに、こうお尋ねになりました。18節ですが、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているのか」と。これは主イエスが群衆の評判を気にしてお尋ねになったのではありません。弟子たちが主イエスのことをどう受け止めているのか、ということに思い至らせるためであります。弟子たちは、当時の人々の評価を口々に答えました。「洗礼者ヨハネ」は既にヘロデによって殺されていたのでしょう。そのヨハネが生き返ったと捉える人がいたようであります。また、「エリヤだ」とか「昔の預言者が生き返った」と見る人もいたようであります。エリヤとかヨハネといった人たちは、困難な状況の中で、何が正しいかを堂々と語り行動した、尊敬すべき人たちであります。人々は主イエスにそのような預言者の一人であることを期待していたのでしょう。弟子たちも、また私たちも、主イエスにそうした期待を寄せるという一面があります。混迷する時代の中で、正しい生き方の指針を与えて下さる方、あるいは自分の身に起こる様々な不安や恐れの中で、慰めと希望を与えて下さるお方、――そういう期待をもって主イエスに向き合っているというところが私たちにはあります。
 
ところが主イエスは、弟子たちに向かって、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問いかけられました。そこには、<群衆の思っていることでよいのか。あなたがたも同じような期待をしているのか>という問いかけがあるように思います。これは私たちへの問いかけでもあります。<あなたがたと私との関係は、群衆の考えているような関係と同じでよいのか>という問いかけであります。
 
この問いかけに促されるようにして、ペトロは「神からのメシアです」と答えます。「メシア」と訳されている言葉は「キリスト」という言葉であります。それは、普通の王や預言者ではありません。イスラエルの民に約束され、待ち望んでいた救い主という意味であります。これは当時のユダヤにおいては大胆な答えでありました。まかり間違えば、神様を冒瀆する発言でありました。
 
しかし、マタイによる福音書の併行記事では、この答えに対して、主イエスが「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(マタイ1617)と言って喜ばれたのであります。このペトロの答えには、単に<人間の願望を満たしてくれる偉大な人>という以上の意味が込められています。この答えには主イエスに対する絶対的な信頼が込められています。しかし同時に、このペトロの答えの中に、まだ誤解や危うさがあることを、主イエスは見抜いておられます。まだ、弟子たちに見えていないことがあります。峠(分水嶺)の向こう側に何があるのか、これから主イエスが何をなさろうとしているのか、それが弟子たちには見えていないのであります。

2.主イエスの死と復活の予告

そこで今日の箇所に入りますが、主イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じられます。なぜでしょうか。主イエスがメシア=キリストであるということは立派な答えなのですが、弟子たち自身もよく分かっていなかったように、人々に誤解を与えることになる、誤まった期待を抱かせることになるからであります。主イエスにはこれからなすべき大きな使命がありました。人々が誤解すると、その本来の使命が遂行出来なくなる恐れがあったのであります。その使命とは何か。それが22節に語られていることであります。
 
主イエスは次のように言われました。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」――人々の罪が贖われ、新しい命がもたらされるためには、十字架と復活の御業を欠かすことは出来ません。でも、弟子たちにはまだそのことが全然分かっていませんでした。マタイ福音書やマルコ福音書の併行箇所を見ますと、この主イエスの言葉を聞いたペトロが、主イエスをわきへお連れして、いさめ始めたということが書かれています。ペトロの中では、「メシア」ということと「苦しみを受けて殺される」ということが全然結びついていなかったのであります。無理もないことかもしれません。主イエスを「神からのメシア」と告白することは、このように人々から排斥され殺されるようなお方に従って行くということになります。弟子たちにはそのような覚悟は全然出来ていませんでした。ご承知のように、やがて主イエスが捕えられたときには、このペトロも<主イエスを知らない>と言って裏切ってしまうのであります。ペトロが思い描いていた「メシア」と全く違うお方であることが現実になったとき、ペトロはその主イエスに、ついて行けなくなるのであります。
 
私たちもまた、主イエスに対して群衆のような期待を抱いたり、主イエスをメシア(救い主)と告白していても、ペトロのようにメシアというお方の真実の姿・その使命を理解していないかもしれません。頭では、主イエスは十字架に架けられて殺され、三日目に復活された方だということを理解しております。しかし、私たちが信じて従おうとしているお方というのは、多くの人々から支持を得られず、むしろ排斥されたお方なのであります。また、私たちが主イエスを信じるというのは、死んだのに生き返るという、誰もが信じられないような出来事を信じるということなのです。ですから、主イエスを信じて従って行くということは、多くの人々から理解されなかったり、信じてもらえないということを覚悟しなければならないということになります。そのことがペトロは見えていなかったし、私たちも覚悟が出来ていなかったり、曖昧にしているところがあるのではないでしょうか。主イエスに従って行こうとする者は、分水嶺の手前で留まっていることは出来ません。分水嶺の向こう側にある厳しい現実、しかし、その厳しい現実の中にこそ秘められている本当の喜びの現実、本当の救いの現実を見なければならないのであります。そこで主イエスは、分水嶺の向こう側における生き方を弟子たちにお示しになりました。

3.自分の十字架を背負って

23節にはこう書かれています。それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」
 
ここに「皆に言われた」とあります。ペトロだけでなく、弟子たち皆に語られたということでしょうが、主イエスに従おうとする者であれば皆が聴くべきお言葉であります。
 
ここで主イエスは、まず第一に、「自分を捨てなさい」と言っておられます。これは厳しい命令であります。ここまでの宣教活動の中で、人々は主イエスから多くのものをいただいて来ました。病を癒されたり、パンを与えられたり、苦しみから解放されたりしました。ですから、主イエスについて行くことは、主イエスから何かをいただくことだと思って来ました。私たちも、教会に来ること、信仰に入ること、主イエスに従うということは、私たちが慰められたり、癒されたり、解放されたりする恵みを貰うことだと思っています。しかし、主イエスはここで、<私のために自分を捨てられるか>と問うておられるのであります。私たちはこれまでにも、主イエスのために幾ばくかの物を捨ててきたかもしれません。私の大切な時間を割いて来たかもしれません。私の財産の一部を献げて来たかもしれません。それらは素晴しいことであります。しかし、ここで主イエスが求めておられるのは、私が持っている何かではなくて、私そのものであります。「自分を捨てる」と訳されている元の言葉は、「自分を否定する」という言葉であります。自己否定が求められているのであります。単に、自分のしたいことを我慢することや、自分の欲望を押し殺すことではありません。単なる謙遜や禁欲することではありません。
 
先程も少し触れましたが、後にペトロは主イエスを知らないと言いました。これは主イエスを否定したということであります。ペトロは素晴しい告白をしましたが、やがて主イエスを否定することになることをご存知で、今、「自分を捨てなさい」「自分を否定しなさい」と言っておられるのです。主の弟子になるということは、自分が捕えられるかもしれない時にも、自分を否定して、自分は主のものであることを認めることだよ、とおっしゃるのであります。
 
第二に主イエスは、「自分の十字架を背負いなさい」と言われます。<十字架を背負う>というと、一般的には、何か人生の重荷を背負うこと、不幸な境遇だとか、病気や弱点を持っていることを表現しますが、聖書で十字架とは、重い罪のために死刑に処せられることであります。ですから、「自分の十字架を背負う」というのは、死に価する自分の重い罪のために死になさい、ということであります。私たちは自分の罪のために死すべき者であります。神様の恵みを裏切る大きな罪を犯した者であります。そのことを認めなければなりません。しかし、その罪のために私たちが背負うべき十字架は、主イエスの十字架につながっています。私たちは自分の罪を自分の死によっても償い切ることは出来ません。だから、主イエスが十字架にお架かりにならなければならなかったのです。ですから、「自分の十字架を背負う」ということは、「自分のためにキリストが背負って下さったキリストの十字架を背負う」という意味があります。私たちが背負ったところで、キリストの十字架が軽くなるものではありません。しかし、私たちが一生、キリストの十字架を一緒に背負う者として生き続けなさい、と命じておられるのであります。キリストの十字架は自分だけのものではありません。多くの人のための十字架でもあります。だから、私たちはキリストと共に、多くの人の十字架をも背負うということであります。
 
第三に、主イエスは「わたしに従いなさい」と命じられました。これは今言った、主イエスと共に十字架を背負うということであります。「従う」というのは、考えていることではありません。それは行動であります。体ごと、生活ごと主イエスについて行くということです。しかしそれは、勢い余って主イエスより前に出ることではありません。ペトロは十字架のことを予告された主イエスをいさめ始めました。それは主イエスより前に出ることです。「従う」とは、主イエスより先に行かないことです。自分の思いや考えを主張して、主イエスの言葉に耳を傾けなければ、それは主イエスに従っていることになりません。主イエスが備えて下さった道を主イエスの後ろから歩んで行くよう命じておられるのであります。
 
ところで、このような主イエスの命令を聞いて、私たちは尻込みしてしまうのではないでしょうか。そんなことはとても出来ない。自分にはそんな立派な信仰はないし、そんな立派な信仰者になれそうもない。ここで言われているのは、特別に熱心な人、模範的なキリスト者のことではないか、と思ってしまいます。しかし、ここで主イエスが求めておられることは、立派なキリスト者になることではありません。「自分を捨てること」――それは自分を否定することだと言いました。自分の栄誉を求めることと逆です。自分が立派になったり、人から立派に思われることとは逆です。また、「十字架を背負う」とは、重い課題を背負って格好良く歩むこととは違います。自分の罪を認めて、主イエスが背負って下さる十字架を共に背負うことであります。そして、「主に従って行く」のであります。人々をリードするとか模範となるというよりは、主イエスの後から従って行くだけであります。

4.失う命と救う命

それにしても、そんな生き方は面白くない暗い人生に見えるでしょうか。もっと自分で困難を乗り越え、他の人のためにも尽くし、世の中をリードして行ける生き方の方が素晴しいと思えるのではないでしょうか。
 
主イエスは続いて24節で、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」と語っておられます。
 
誰でも自分の命を救いたいのであります。自分の生き甲斐を見出し、自分の一生を生き生きと過ごしたいのであります。しかし、生まれながらの自分の命を自分の力で生かそうとしても、罪の問題の解決がなくては、成功しない、と主イエスは言っておられるのであります。それとは逆に、主イエスのために自分の命を失う、つまり主イエスの弟子として、主のお喜びになることのために仕える生き方、自分のための生き甲斐を棄てて、主イエスが備えて下さる道を生きるとき、私たちの命、私たちの生涯が罪から解放されて、本当の意味で世のため人のために生かされることになる、と断言しておられるのであります。
 
主イエスは更に25節で、「人は、全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか」と言っておられます。私たちは、あらゆるものを自分のコントロールのもとに置きたい。自分の思いのままに動かしたい、と思います。自分の人生も自分の思い通りに築きたいと思います。しかし、いかに能力があっても、強い意思があったとしても、神様との関係が破れていて、罪の問題が解決されていなかったならば、滅びるしかありません。命は失われるしかありません。それでは、せっかくの命を無駄にしてしまいます。何の得にもなりません。大事なことは、神様との関係であり、神様がお遣わしになった主イエス・キリストの御言葉をどう受け止めて生きるか、であります。26節で、こう言われています。「わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる」と。これは終わりの日のことを言っておられます。「わたしとわたしの言葉を恥じる」というのは、主イエスを信頼してその言葉に聴き従うことを、恥ずべきことと思う、喜びとしない、誇らしいこととしない、ということでありましょう。私たちはそんな風には思っていないつもりです。しかし、私たちの生き方、人との接し方の中で、キリストを前に立てるよりは、自分を大きく見せたり、自分が満足することを求めてしまっているのではないでしょうか。けれども、終わりの日に栄光の主イエスから棄てられたのでは、何もなりません。神の国からは締め出されてしまいます。神様との関係が永遠に断たれて、永遠の命を失うことになります。
 

結.神の国を見る

最後に主イエスは、27節で、「確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる」という不思議なことをおっしゃいました。この言葉の意味は、今、この地上で、主イエスを信じて、主イエスとしっかりと結びついて歩んでいる者は、既に神の国に生きている、永遠の命に生きている、ということであります。
 
主イエスの宣教活動の分水嶺において、主イエスのなさろうとしておられることを明かされた弟子たちは、このとき、何のことだかよく理解出来ずに、結局は裏切ってしまうことになるのですけれど、主イエスはそれを見越した上で、十字架への道を歩まれ、復活の後に、裏切ったペトロをももう一度弟子として再スタートさせられました。私たちも、今日の主イエスの御言葉を聞いても、まだ主の御心を心とすることが出来ず、これからも道から逸れそうになる弱さを持っています。しかし、主は、「ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる」と言って下さっています。主イエスが強い御意思をもって、私たちを永遠の命に生かそう、そして神の国へ入れようと、招いておられるのであります。この主に信頼して、自分の命を献げるものでありたいと思います。
 
お祈りいたします。
 

祈  り

命の主イエス・キリストの父なる神様!
 
今日も主イエスの御言葉によって私たちに向き合って下さり、私たちを永遠の命に生かそうとしていて下さいます恵みを感謝いたします。
 
私たちの信仰の視野は狭く、分水嶺の向こう側がよく見えず、十字架と復活の御業を十分に受け取れないまま、主にすべてを委ねきれないでいる罪人であることを覚えさせられております。
 
どうか、主イエスと御一緒に、十字架を背負う者とならせて下さい。どうか、主の救いに与らせて下さい。どうか、多くの人々が永遠の命を与えられて、神の国に導き入れられるように計らって下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿> 2011年2月13日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書9:21-27
 説教題:「自分の十字架を背負う」
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