序.今年の目標に向かって

この伝道所の「年間目標」として、今年は「恵みへの応答」ということを掲げました。このことについては、12日の新年礼拝で、主題聖句の基づいてお話し、当日雪のために出席出来なかった方々にも説教の原稿をプリントしてお渡し致しました。この「年間目標」の主旨は、私たちは神様から「救い」という大きな恵みを与えられているのだけれども、その恵みを受けるだけではなくて、その恵みに応えて、主から与えられる使命に生きよう、ということであります。主題聖句ではそのことが「自分の体で神の栄光を現しなさい」と言われています。各自の生身の体(実際の生活の中)で、神様の御栄光を現す働きをするということであります。
 今日は午後に定期総会が行われますが、それはこの「神の栄光を現す」ということのために、今年は具体的にどのようなことをするのか、ということを協議し決める場であります。そして、今日から新しい歩みに向けて私たちはそれぞれの持ち場に遣わされるのであります。
 
今日、この礼拝に与えられている聖書の箇所は、主イエスの十二人の弟子たちが派遣された場面であります。ここには特別に選らばれた十二使徒のことが書かれているのでありますが、ここに命じられ、教えられていることは、主イエスに従う全ての人に語られていることとして、代々の教会が受け止めて来たことであります。私たちもまた、新しい一年の歩みを始めるに当って、ここで命じられ、教えられていることは、自分たちに語られていることとして聴きたいと思うのであります。皆さんはここを一読されて、当時の弟子たちにしても大変な使命を授けられたものだと思われたかもしれませんし、まして私たちのこととはとても受け取れないという印象を持たれたかもしれませんが、神様はこの箇所を通して、今日、私たちに与えられている恵みと使命の大きさに気づかせようとなさっているのではないかと思います。

1.十二人を呼び集め

まず、1節を見ますと、イエスは十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった、とあります。
 
ルカ福音書によりますと、十二人のことが最初に書かれているのは612節以下で、そこには主イエスが弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられたことが書かれています。「使徒」というのは、「遣わされた者」という意味です。主イエスはこの時既に、遣わすことを目的に十二人を選ばれたのであります。その後、十二人は主イエスと行動を共にしたと思われます。そのことは81節に、はっきりと書かれています。「すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった」とあります。そしてそのあとには、主イエスが人々に教えられたことや奇跡の業をなさったことが書かれています。十二人はそれらをつぶさに見聞きしたわけであります。それは、彼らがやがて派遣されるための準備期間だったと言ってよいでしょう。そして今日の箇所で、主イエスは改めて彼らを「呼び集め」られるのであります。何のためかと言えば、「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになる」ためであります。ここまでは、主イエス御自身で悪霊に取り付かれた人から悪霊を追い出したり、病気の人を癒したりなさって来ました。そういうことは主イエスにしか出来ないことかと思われました。しかし、ここに来て、十二人にそのようなことをする力と権能をお授けになったのです。これは彼らにとって、信じられないような驚くべきことであったに違いありませんが、6節を見ますと、十二人は出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした、と記されています。驚くべきことですが、彼らは実際に、主イエスから与えられた力と権能を行使したのであります。
 
どうしてこのようなことが可能となったのでしょうか。主イエスとしばらく行動を共にしていると、見よう見まねで出来るようになるということでしょうか。そんな簡単なことではありません。十二人はもともと特別な能力を持っていて、それを見込まれて選ばれたということでしょうか。彼らはそんな人たちではなく、普通の漁師や徴税人などでありました。では主イエスのもとで特別に信仰を養われて、そのような能力を身につけることが出来たということでしょうか。彼らのその後の歩みを見ますと、決して信仰深いというようなことはなく、結局は主イエスを裏切るようなことになってしまいます。――彼らは決して、特別な能力を備えていたわけでもなく、篤い信仰をもっていたのでもなく、ただ、主イエスに選ばれて呼び集められて、主イエスの持っておられる力と権能を預かったから出来たのであります。
 
悪霊というのは、聖書の中では、心や体の病など様々の災いをもたらすものとして登場しますが、悪霊は病や災いの原因となるだけでなく、私たちを神様から引き離そうとするものとして描かれています。主イエスはその悪霊に打ち勝って、神の国(神に支配)を実現されるのですが、その権能を使徒たちにもお授けになったということです。
 
弟子たちが特別に信仰深い人間でもなかったのに、悪霊に打ち勝つ力を持つことが出来たのであれば、もし私たちも、主イエスによって呼び集められて、主の持っておられる力と権能を授けられるならば、私たちにも悪霊に打ち勝ったり、病気を癒すことが出来るということでしょうか。私はこの問いを頭から否定してはならないと思います。主イエスが権能をお授けになるなら、私たちに不可能と思えることも可能とされることがあり得ると信じたいと思います。しかし、今は私たちに、心や体の病気を自由自在に癒す力を与えられているわけではありません。なぜでしょうか。加藤常昭先生は、教会がその力を神様によって取り上げられたのだと思うと言っておられます。なぜなら、そのような力を与えられていると、教会が思い上がって大きな間違いを犯すからです。しかし私たちは、主イエスが悪霊を滅ぼし、神様の御支配を実現して下さったということを語ることは出来ますし、心や体を病んでいる人の癒しのために祈ることは出来ます。そうすることによって、神様のお力を得て、悪霊の呪縛の中にある人を解放して、神様の御支配の中に移し変えることは出来るのであります。そのことを決して疑ってはならないと思います。

2.神の国を宣べ伝え、病人を癒すために

2節を見ますと、そして、神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わす、と書かれています。神の国の福音を宣べ伝えることと、病人を癒すことがセットになっています。これはどういうことかと言うと、病気の癒しは神の国が到来したことの「しるし」だということです。そのことは先週の説教でも触れましたが、7章の18節から23節に書かれていることであります。獄中の洗礼者ヨハネが主イエスに「来るべき方は、あなたでしょうか」と自分の弟子たちを通じて問わせた時に、主イエスは「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」と答えておられます。イエスが地上に来られたことによって、神の国(神様の御支配)は地上で始まったのであります。そこでは悪霊はもはや力を振るうことは出来ません。だから、病いも神様の支配下にあります。心や体が癒されるのであります。死んだ体さえ甦るのであります。神の国の福音は私たちの魂の救いに関わるだけでなく、心や体の健康にも、私たちの命そのものにも関わるのであります。弟子たちが神の国を宣べ伝えるということは、病人を癒すということと一体であったように、私たちが御言葉を宣べ伝えるということと、心や体の病からの解放ということも、切り離せないということです。たとえ、心や体の病の症状が残っていたとしても、そのことを含めて神様の御支配の中にあるということであります。心や体の病は私たちにとって大きな試練であります。時には悪霊が働いて神様の御支配を信じられなくさせるときがあります。しかし、既に神の国は始まったのです。悪霊の支配は終わったのです。私たちは心や体の病の癒しの権能を持っておられるお方に祈ったらよいのです。そうすれば、必ず平安を得ることが出来るのです。――そのことを十二使徒と同じように、私たちも宣べ伝えることが出来ますし、宣べ伝えるように命じられているのであります。
 
神の国(神様の支配)の開始ということは、心や体の病気の領域だけのことではありません。悪霊はもっと広い範囲に勢力を伸ばして、世の中に不安を拡げようと致します。就職の不安が広がっています。人間関係の不安があります。子育てに自信が持てない人が増えています。老後の不安があります。災害の心配があります。国の将来も非常に不安定に思えます。力をつけた隣国や何が起きるかわからない半島の情勢によって平和が乱されるのではないかという恐れがあります。私たちの周りには悪霊が付け入る隙はいっぱいあります。しかし、神の国が遠退いているわけではありません。神の国は始まっているのであります。神様の御支配は揺るぎないのであります。そのことを信じ受け入れるときに、私たちは不安から解放されます。悪霊の入り込む余地がなくなります。そして、神様に委ねて建設的なことに取組むことが出来るようになります。そのような不安からの解放を告げるのが主によって呼び集められた者の使命であり、この世にある教会の努めであります。私たちは自分が癒され、不安から解放されるだけでなく、自分が解放された喜びを多くの人々と分つ責任があります。その使命に自分の体をもって応える、それぞれの実際の生活の中で実践する、そして神の栄光を現すことに仕えよう、というのが、今年のこの伝道所の目標です。私たちは十二人の使徒たちと同様に、主から与えられた福音の力と権能をもって、この世に遣わされているのであります。

3.何も持たずに

さて、3節から5節にかけては、十二人を派遣するに当って、主イエスが言われたことですが、まず3節で、「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない」と言っておられます。杖や袋やパンや下着と言えば、当時の旅の必需品であります。そういうものも、持って行くなと言われるのです。これらのものが今回の旅には不要だということではありません。マタイ福音書の併行箇所を見ますと、「働く者が食べ物を受けるのは当然である」(マタイ1010)と言われています。また、山上の説教の中で、「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って思い悩むな。・・・何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ63133)とも言っておられます。神様の福音のために働いたならば、必ず福音を信じる人が行き先ごとに生まれて、その人たちが福音を伝えた人々の生活を支えてくれる筈だから、心配するな、ということでしょう。福音を伝えるということは神様の御支配を信じて伝えるのですから、パンやお金のことを心配していたのではおかしい、ということです。
 
しかし、「何も持って行ってはならない」とおっしゃる主イエスの言葉は、<旅に必要なものは必ず与えられるから心配するな>というだけの意味ではないでしょう。<神の国を宣べ伝える旅に、自分であれこれ準備しようとすることは間違いだ>と言っておられるのではないでしょうか。神の国の福音を持って行くだけでは足りないかのように、福音以外のものをあれこれ準備しようとすることが間違っている、ということであります。福音を伝えるためには、自分の知識や能力を高めなければならないとか、自分の人格を磨かなければならないとか、人々の関心を呼び起すこととか、魅力的な仕掛けなども用意しなければ、福音を聞いてもらえないのではないか、といった心配をしてはならないし、必要もない、と言っておられるのではないでしょうか。
 
伝道が思い通りに進展しないときに、私たちが陥りがちな過ちは、もっと礼拝を魅力的にしなくてはならないのではないか、若い人にも受け入れられ易い新しい伝達手段も取り入れた方がよいのではないか、画像や音楽も取り入れて感覚的に訴えた方がよいのではないか、といった誘惑であります。そこにあるのは、福音自体が持っている力と権能に対する不信であります。礼拝が魅力的でなくてもよいとか、画像や新しい音楽は一切ダメということを言っているのではありません。色々な手段を用いる工夫も必要でしょうが、そういうことの方に一生懸命になって、肝心の福音の核心を伝えることを疎かにして、ムードだけを高めても、伝道は決して進展しないということであります。<福音以外に何も要りません、福音によってこそ救いが与えられています、解放されています、喜びがあります>と証しすることが、最も説得力のあることなのではないでしょうか。
 

4.とどまって

続いて4節では、主イエスはこう命じておられます。「どこかの家に入ったら、そこにとどまって、その家から旅立ちなさい」。弟子たちが神の国を宣べ伝え、病人を癒すと、彼らを招いて泊めてくれる人が出てきます。しかし、その家が居心地がよいとは限らない。そこで伝道がうまく行くとは限らない。そういう時に、もっと条件が良さそうに見える場所に渡り歩くようなことはせずに、そこにとどまって、じっくりと腰を据えて、神の国を宣べ伝え続けなさい、と教えておられるのです。伝道がうまく行かないのをその場所の条件や環境のせいにして、責任逃れをしがちであります。しかし、神様が備えられた場所で、そこに神様の御支配があることを信じて、福音を語り続けるときに、必ず神様が用意なさった実りを与えられる、ということをおっしゃっているのでしょう。

5.埃を払い落とす

最後に5節では、「だれもあなたがたを迎え入れないなら、その町を出て行くとき、彼らへの証しとして足についた埃を払い落としなさい」と言われました。神の国の福音を宣べ伝えても、誰も受け入れる人がいないという厳しい現実があるかもしれない。あるいは伝道の相手によっては、福音を全く受け付けようとしない人がいます。そのような時には、「足についた埃を払い落としなさい」と言われます。この行為は元来、ユダヤ人が異邦人の地を去る時に行なったもので、自分たちは異邦人とは違うということを示す行為だったようで、<あなたがたには神の審きがあります>と宣言することを意味しました。これは伝道がうまく行かないことに対する腹いせや仕返しではありません。神の国を受け入れないのであれば、救いはありませんよ、ということをはっきりと示すということであります。私たちは永遠の審きを下す権能まで与えられているわけではありません。ですから、福音が簡単に受け入れないからといって、いたずらに審きの言葉を語ることは適切ではありませんが、福音以外に本当の救いはないことをはっきりと伝えて、審きの厳しさを知らせて、最終的な審きが行われる前に悔い改めに導くのが、私たちの使命ではないでしょうか。
 

結.主の輝きを現す

終わりに、先ほど朗読いたしました旧約聖書のイザヤ書49章をご覧ください。これは「主の僕の歌」と呼ばれているものの一つですが、「主の僕」とは誰かということについて、色々な説があります。イスラエルのことだとか、これを記したイザヤ(第二イザヤ)自身のことだとか、キリストを指し示しているとするものなどがありますが、いずれにしても神様の選びを受けて、特別な使命を与えられた個人または集団であります。これを<神の国の福音を与えられて、宣教の使命を与えられている教会または私たちキリスト者>と受け止めてもよいのではないかと思います。そういう視点でこの箇所を読みますと、たいへん身の引き締まる思いが致すのですが、3節にはこう言われています。わたしに言われた/あなたはわたしの僕、イスラエル/あなたによってわたしの輝きは現れる、と。――私たちによって神様の輝きが現れる、と言われているのであります。同様の主旨のことは、6節の最後の2行にも言われています。わたしはあなたを国々の光とし/わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。――私たちは、神の国の福音を語り伝えることによって、神の救いを地の果てまでもたらす者とされるのであります。そして、そのことを通して、神様の輝きが現れる、すなわち神様の御栄光を現すことが出来る、ということであります。今年の主題聖句にもありますように、私たちは「自分の体で神の栄光を現す」者として、神の国の福音を宣べ伝えるようにと、今、主によって呼び集められ、遣わされようとしているのであります。
 
祈りましょう。

祈  り

救い主イエス・キリストの父なる神様!
 
今日、私たちをこのように呼び集めて下さって、神の国の福音を宣べ伝える者として遣わそうとしておられることを覚えて、恐れつつ、感謝いたします。どうか、この教会を、そして私たち一人ひとりを、その大きな使命を担い得る者として、清め用いて下さい。どうかあなたの救いの御業がこの地で、私たちの周囲で起こされ、あなたの御栄光が現されますように。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿> 2011年1月30日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書9:1-6
 説教題:「神の国を宣べ伝える」
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