主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。                   (ルカによる福音書7:13 

 主イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒にナインの町の門に近づかれると、ある母親の一人息子が死んで、その棺を町の外の墓へと運び出す葬列に出くわされた。夫に先立たれ、女手一つで苦労して育てた大事な息子を失った母親の心情を察して、町の人が大勢そばに付き添っていたが、誰も死という現実を変えることは出来ず、母親の涙を止めることは出来ない。
 主はこの母親を見て、憐れに思われた。この「憐れに思い」という語は「はらわたがちぎれるほどの痛み」を表わす。主は単に母親の心情を察して同情されただけでなく、ご自身の身を痛めるほどに力を振り絞って、死が支配する現実と向き合われたのである。そして、「もう泣かなくてもよい」と言われた。これは聞きようによっては、場違いで失礼な言葉であるが、主は死の支配を覆して、涙の根源を断つことがお出来になる。主が近づいて棺に触れられると、その迫力に圧倒されて、棺を担いでいた人たちは立ち止まる。主は、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と命じられる。すると、死んで横たわって墓に運ばれるしかなかった者が、起き上がって、ものを言い始めた。主の言葉によって、命が再創造されただけでなく、言葉による人と人、神と人との生きた関係も回復されたのである。そして主は、息子をその母親にお返しになった。それは、死によって裂かれた自然的な親子の関係が、主の恵みに基づく新しい命の関係に結び変えられたことを意味する。
 この出来事を見た人々は、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。それは、かつて、やもめの息子を甦らせたエリヤ(列王記上17章)の再来と、救い主がイスラエルの民の中に生まれるとの預言の成就を意味する。更に筆者のルカは、この後で、洗礼者ヨハネの「来るべき方は、あなたでしょうか」との問いに対して、主イエスが「…死者は生き返り…」(722)と答えられたことを記して、この主イエスこそ、イスラエルの民が待ち望んでいた預言者であり、救いの約束の実現だというメッセージを伝えようとしたのだ。そのメッセージは今も私たちに語られている。私たちは誰も、死を免れることは出来ないし、親しい者の死に遭遇して、泣かざるを得ない。だが、主は罪の故に死すべき私たちを「憐れに思い」、ご自身の命を捨てて、救い出して下さった。だから、礼拝において主に出会った者は、もはや死に支配されることのない者とされたのだ。

 米子伝道所主日礼拝説教<要 旨> 2011年1月23日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書7:11−17
 説教題:「もう泣かなくともよい」
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