序.「死」とどう向き合うか

私たちは普段、自分の死とか、近親の者の死ということについて、あまり真剣に考えません。考えたくないということかもしれません。しかし、死を避けることの出来る人はいません。誰も皆、遅かれ早かれ死ぬのであります。死の時期というのは、誰も予測が出来ません。若い人であっても、突然襲ってくるかもしれません。死とどう向き合うかということは、その時が来てから考えたのでは遅いのです。歳をとれば、自分の体の不安を覚えるようになって、自分の死のことを考える機会は多くなるかもしれません。けれども、私たちが死と向き合うのは、自分の死の時とは限りません。近親者や親しい友人・同僚の死に突如出遭って、戸惑わざるを得ない場合があります。死に向き合うということは、ある程度覚悟している場合でも、戸惑わざるを得ません。まして、愛する者の思わぬ死と向き合わなければならなくなった時は、平静でいることは出来ません。高齢で亡くなった場合は、「天寿を全うした」というような言い方で、慰められたりもするのですが、若くして亡くなった場合は、慰めようもなく、悲しみを分かち合うことしか出来ないのかもしれません。いずれにしろ、私たちは死という厳粛な現実が目の前に起こった時には、どうしようもなく、最終的には、諦めざるを得ないのであります。
 今日与えられた聖書の箇所には、あるやもめの一人息子が死んで、葬儀が行われている場面が記されています。人の死に、悲しみの大小をつけるわけには参りませんが、ここに描かれているケースでは、詳しい事情は分からなくても、一人息子を失った母親の悲しみがどれほど大きかったかは十分に想像ができます。この一人息子の死によって、母親だけでなく、町の大勢の人が、死と向き合うことになりました。しかし、誰も死を跳ね除けることは出来ません。そこには死の現実が支配しています。しかし、そこに主イエスが登場されることによって、その様相は一変しました。
 
私たちが死と向き合う場合にも、私たちには勝ち目がないのであります。医療の手段を最大限に用いても、死が現実となった時には、私たちは死の力の前に屈せざるを得ないのであります。しかし、そこに主イエスがおられるならば、状況は一変するのであります。何が起こるのでしょうか。私たちの死との向き合い方がどう変わるのでしょうか。今日は、そのことをこの箇所から聴き取りたいのであります。

1.悲しみの葬列

主イエスはカファルナウムで百人隊長の僕を癒されてから間もなく、ナインという町に行かれました。主イエスと一緒にいたのは、弟子たちだけでなく、大勢の群衆も一緒でした。恐らく彼らは、これ以前に書かれているような主イエスの教えに心引かれ、主がなさった癒しの業を見て驚いて、付いて来たのであろうと思われます。
 
主イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、町の中から出て行こうとしている葬式の列に出くわしました。それは、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところでした。その母親はやもめであった、と書かれています。何年か前に夫を失い、苦労して一人息子を女手で育てて来たのでしょうが、その大事な息子を失ったのであります。この母親の悲しみの心情を察して、町の人が大勢そばに付き添っていました。しかし、いくら大勢の人が同情しても、この母親の悲しみが減るわけではありません。当時の葬式では、泣き女を雇ったり、笛やシンバルを鳴らして賑やかにして、悲しみを紛らそうとしたようですが、一人息子の死という現実をどうすることも出来ません。そこには死の力が支配しています。それを覆すことは誰も出来ません。誰も母親の涙を止めることは出来ません。死という冷たい現実を受け入れて、町の外にある墓場へ向かうしかないのであります。その葬列の流れを止めたり、逆流させようなどということは誰も考えません。そこへ、主イエスたちの集団が逆方向に向かって近づいたのであります。
 
主イエスはその葬列に向き合われ、母親の様子をご覧になって、すぐに事情を察しられたようであります。その母親のことを前からご存知であったのか、誰かに尋ねられたのか、直感的に理解されたのか、そんなことは問題ではありません。ともかく、13節にあるように、主はこの母親を見て、憐れに思われたのであります。ここで「憐れに思う」と訳されている言葉の原語は「はらわたがちぎれるほどの痛み」という意味を持っています。つまり、単に悲しみを思いやるとか、同情するという心の中だけのことではなくて、身を切るような思い、自分のはらわたを抉り出すほどに痛みを共有するということであります。主イエスは不幸な人と向き合われたとき、ただ可哀想だと同情されるだけでなく、ご自身を痛められるほどに、その人と関わろうとされるのであります。ご自身の力を振り絞って、その人と向き合われるのであります。死という、取り消しがたいと思われる現実を前にしても、主イエスは、それを動かしがたいこととして受け止められるのではなくて、ご自身の力を振り絞って、場合によってはご自身の体を痛めたり、ご自身の命をかけてでも、死の力と向き合おうとされるのであります。――主イエスはそのように、私たちの不幸にも向き合って下さいます。私たちの命が損なわれないために、ご自身の身の安全を顧みずに、死の力と戦って下さるお方であります。

2.「もう泣かなくともよい」

母親を憐れに思われた主は、すぐに「もう泣かなくともよい」と言われました。これは聞きようによっては場違いな言葉であります。母親は泣かざるを得ない状況にあります。そんな母親に「泣かなくともよい」などと失礼なことは誰も言えません。一緒に泣いてあげることがせめてもの慰めであります。しかし、主イエスは涙の根源を断つことがお出来になります。死の支配を覆すことがお出来になります。主が向き合って下さるなら、「もう泣かなくてもよい」のであります。
 
そして主イエスは母親に声をかけられるだけでなく、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まりました。当時の棺というのは、木製の蓋をしたものではなくて、上が開いた行李のようなものだったようです。ユダヤの感覚では、死人が納められた棺に触れるということは、その人自身が汚れた者になるということでした。しかし、主イエスは躊躇することなく棺に手を触れられました。先ほど、「憐れに思う」というのは、自身の身を切るほどに相手のことを思うことだと申しましたが、主イエスが棺に手を触れられるということは、正に、ご自身が汚れることも厭わず、死と対決しようとされたということでしょう。それは、墓へと向かう棺を押し止めるような行為です。主が死の支配を止められます。もう町の外へ運び出す必要がないようにされます。棺を担いでいた人たちは立ち止まりました。主イエスの迫力に圧倒されたのでしょう。

3.「起きなさい」

そして主イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われました。死んで、墓に埋められるために運ばれている人に向かって、主イエスは「起きなさい」と命じられるお方であります。父なる神様が天地創造の初めに、「光あれ」と言われて光を創られ、「我々に似せて人を造ろう」と言われて人間を創られたように、今、主イエスは死んだ若者に言葉をおかけになることによって、命を再創造しようとなさるのであります。――すると、死人は起き上がってものを言い始めました。死んで横たわるしかなく、墓に運ばれるしかなかった者が、命を甦らされ、もう一度起き上がることが出来ました。同時に、ものを言い始めることも出来ました。死人にも言葉が戻ったのであります。人は死ぬことによって、言葉を交わすことが出来なくなります。人と人との間の会話が出来なくなりますし、神様に語りかけること(祈ること)も出来なくなります。しかし今、この若者は、人と人との間の、また神様と人との間の、言葉による生きた命の関係も回復されたのであります。生きるということは、単に心臓が動いているということではありません。単に、立ち上がって動くことが出来るということではありません。神と語り合い、人と話し合うことが出来ることが、本当の意味で生きているということであります。この若者は、そのような命の関係を取り戻すことが出来たのであります。
 
このことから考えさせられることは、私たちは本当に生きているのだろうか、ということであります。私たちの体はピンピンしていても、言葉による生きた関係が、人と人との間で保たれているのだろうか、とりわけ神様と私たちとの間で保たれているのでしょうか。生ける屍(しかばね)のようなことになってはいないでしょうか。しかし、主イエスは、そのような私たちを憐れに思い、御言葉をかけてくださって、生きた言葉を回復させて下さるお方であります。

4.息子をその母親に

ところで、15節後半を見ると、イエスは息子をその母親にお返しになった、とあります。この一人息子は、この母親の大事な宝物であったことでしょう。その宝物が死をもって奪われてしまいました。母親の手の届かない死の世界に行ってしまうところでした。しかし、今、主イエスはその息子を母親にお返しになった、と言うのです。イーヴァントという牧師は、このことについて次のように言っております。「それまでは、母と息子との間の絆を作ってくれていたのは自然であった。そのために、死が、これを裂くこともできたし、裂かずにおれなかった。しかし今、イエスが母に息子を与えられる。それが意味するのは、ふたりとも、もはや、いわゆる創造の秩序に結ばれてはおらず、死を知らない恵みの国において結ばれているということになる」と。つまり、自然的な親と子の関係というのは、そこに病気や事故によって死が入り込んで来ると、簡単に引き裂かれてしまう。どんな愛情をもってしても、裂かれた関係は修復できない。しかし、そこに主イエスが御言葉をもって関わられことによって、裂かれた関係が結び直されて、親子の交わりが回復したのであります。それはもはや、以前の自然的な関係ではなくて、主イエスによって取り戻された新しい命の関係、主イエスの恵みに基ずく関係であります。それは神の国における関係と言ってよいでしょう。この新しい関係は、もはや死によっても裂かれることはないのであります。

5.「神はその民を心にかけてくださった」

さて、このような出来事が起されたことを、主イエスに従って来た大勢の群衆も見ましたし、棺に付き添って来た大勢の町の人も見ましたが、彼らの反応が16節に記されています。人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民に心をかけてくださった」と言った。ここで人々が「大預言者が現れた」と言ったのはどういう意味でしょうか。先ほど聖書朗読で列王記上17章を読んでいただきました。そこには、預言者エリヤがサレプタのやもめの息子を甦らせて、母に返した物語が書かれていました。今日の話しに似ています。人々はこの列王記の物語をよく知っていましたから、あの大預言者エリヤのことを思い出したに違いありません。しかも旧約聖書のマラキ書には、こういう預言が語られています。「見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす」(マラキ323)。この預言から、人々は預言者エリヤが再来すると信じていました。ですから、人々はこの日の出来事を見て、「大預言者が我々の間に現れた」と思ったのであります。また、人々は「神はその民に心をかけてくださった」と言いました。これは、このルカ福音書の1章に書かれている「ザカリアの賛歌」と関係があります。洗礼者ヨハネの父ザカリアはヨハネの誕生を喜んで、こう歌っております(→ルカ16879)。「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。(以下略)」ザカリアはヨハネの誕生を喜んで歌っているのですが、その中で、救い主がイスラエルの民の中にお生まれになることを述べていて、人々はこのザカリアの預言も、この主イエスによって実現したと思った、ということです。なぜこの福音書の筆者であるルカが、このような人々の反応のことをここに詳しく記しているかと言うと、ある意図があるからです。それは、次の18節以下に記されている記事につながっているのです。そこには、ヘロデによって捕えられていた洗礼者ヨハネが、自分の弟子たちからナインの町での出来事の報告を聞いて、弟子たちを主イエスのところへ遣わして、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と問うたことが記されていて、その問いに対して、主イエスは22節でこうお答えになっています。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」――ルカはここまで、主イエスのなさった数々の奇跡の業を記して来て、この直前にナインの町でのやもめの息子の甦りのことを書いた上で、主イエスのこの言葉を記しているのであります。そして、このことを通してルカが伝えようとしたことは、<この主イエスこそ、イスラエルが待ち望んでいた預言者であり、旧約時代以来約束されていた救いの約束の実現だ>というメッセージであります。

結. 私たちの甦り

ところで、ルカが伝えようとしたこのようなメッセージは、現代の私たちにも当てはまるのでしょうか。あの葬列に加わっていたナインの町の人々は、死の力に打ち負かされて、ただ母親を何とか慰めようと、そばに付き添いながら、しかし、町の外の墓に向かうしかなかったのですが、私たちも、襲ってくる死の力を押し止めることは出来なくて、自分や周囲の者が死に敗北しても、諦めざるを得ないのであります。あの時は、ちょうど主イエスが出会って下さって、その憐れみを受けて、一人息子は生き返りました。しかし、この息子も、永遠に死ななくなったわけではなくて、やがて再び死んだに違いありません。相変わらず、人は誰でも死を免れることはできません。親しい者の死に遭遇すれば、泣かざるを得ません。ここに記されていることは、2000年前に主イエスが地上におられた時に起こった特殊な出来事に過ぎないのでしょうか。もはや、主が憐れみをもって死者に近づいて、手を触れて下さるということはないのでしょうか。
 
確かに、目に見える形で肉体をとった主イエスが私たちのところに来て下さるわけではありません。しかし、礼拝において、復活の主イエスが聖霊において、御言葉をもって近づいて下さるということは、現に起こっているのであります。そして、私たちが死の力に屈して、ただ泣くしかないのをご覧になって、憐れに思って下さり、「もう泣かなくともよい」と言って、死が私たちに対して力を振るえないようにして下さるのではないでしょうか。私たちは死ななくなるわけではありません。罪を犯したので死の時は必ず訪れます。しかし、主イエスと出会った者は死に支配されることはありません。なぜなら主イエスが私たちを憐れに思って、ご自身の命を惜しまずに十字架にお架かりになることによって、私たちの罪は赦されたからであります。私たちの罪によって引き裂かれた神様との関係は、主イエスによって修復されました。もはや、死の力は私たちに対しても力を振るえないようにされてしまいました。私たちは「起きなさい」との主イエスの言葉によって、死の力に抗して立ち上がり、新しい生き方へと甦らされるのであります。たとえ体は死んだとしても、神様との関係は永遠に切れることがないようにされました。そして、終わりの日には体も甦ることが約束されています。
 
こうして、かつてナインの町の人や、主イエスについて来た群衆が、「神はその民を心にかけてくださった」と言って神様を賛美したように、私たちも主を賛美する者とされるのであります。そして、終わりの日が来れば、主が私たちの体をも復活させて下さることを、喜んで、安心して待つことが出来るのであります。もはや、私たちは「泣かなくともよい」者とされたのであります。それでも、死という現実に直面することは、悲しいことではあります。泣いてはいけないということではありません。しかし、根本的には、死はもはや私たちに何の力も持たなくされました。だから、「泣かなくともよい」と言って下さるのであります。
 祈りましょう。

祈  り

命の主なるイエス・キリストの父なる神様!
 
私たち自身は死の力の前に敗北するしかない者であります。しかし、主イエスが私たちの罪の結果である死を担って下さり、復活して下さったことによって、死に勝利して下さいました。感謝いたします。
 
私たちは、なお死に怯えたり、近しい者を失って悲しんだり致しますが、どうか、「もう泣かなくともよい」との、主の御言葉を聴き続けることによって、立ち上がる者とならせて下さい。そして命の主を賛美する者とならせて下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿> 2011年1月23日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書7:11-17
 説教題:「もう泣かなくともよい」
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