「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」
                            (ルカによる福音書6:9) 

 安息日は神を礼拝するために仕事を休む日であるが、ユダヤでは安息日にしてはならないことが細かく定められていて、病を癒すことも、命に別状がなければ禁止されていた。ある安息日に主イエスが会堂で教えておられたとき、そこに右手が萎えた人がいた。体が不自由なため仕事につけず、辛い思いをしているその人を、主は深く憐れまれたに違いない。だが、かねてより主イエスの言動に疑問を抱き、反感を持っていた律法学者やファリサイ派の人々は、主が律法を破って、その人を癒されたなら訴えようとして注目していた。そのことを見抜かれた主イエスは、手の萎えた人に、「立って、真ん中に出なさい」と言われて、敢えて敵対者たちの前に立たせて、彼らに標記のように問われた。これは安息日の本来の主旨を問うものであり、手が不自由なために生きる喜びを失いかけている人を救うことは、安息日の主旨に適っている。だが、律法学者たちは、何も答えようとしない。そこで主イエスは、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。この人を癒すことは、翌日でもよかったし、敵対者たちが見ていないところで癒すことも出来たであろう。だが主は敢えて彼らの目の前で、律法の規定を破って癒しの業を行われた。それは死に価するとされていたが、主は死をも覚悟の上でそうされたのだ。なぜ、主はこのような激しいことをなさったのか。それは、手の萎えた人を憐れに思われたからであるが、同時に、律法学者たちの中に問題()を感じられて、それと戦おうとされたからである。彼らは、自分の正しさを誇り、人を愛することが出来なかったのである。この主イエスの行動に、律法学者たちは怒り狂い、その果ては十字架に架けるところまで行き着く。だが、その十字架こそ、彼らを罪から解放することになるのだ。私たちも、主の日に何をすべきかということで人を裁いたり、自分の正しさを誇っていないか。大切なことは、安息日に何をすべきか、何をしてはならないかではなくて、主イエスがこの日に何をなさったかである。主イエスは罪深い私たちを罪から贖い出すために、敢然と十字架への道を歩み出されたのである。主は、今も御自分の命を私たちに差し出しながら、「手を伸ばしなさい」と言って下さっている。

 米子伝道所主日礼拝説教<要 旨> 2011年1月16日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書6:6−11
 説教題:「安息日の癒し」
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