序.安息日に何が起こっているのか

 新約聖書の福音書には「安息日論争」と言われる出来事があちこちに記されています。安息日の起源は、神様が万物を創造されたときに、六日間かかって創造の業をされ、七日目に完成して仕事を離れて安息されたということから、七日目ごとに安息日を設けて仕事を休み、神様の恵みを思い起こして礼拝する日とされたことにあるのですが、律法では細かい規程が設けられていて、荷物を運ぶこと、商売をすること、火をたくこと、一定の距離以上の移動をすることなどが禁じられていて、それを破ることは死に値するとされていました。このような安息日の規程を主イエスや弟子たちが破ったということで非難されたのに対して、主イエスが反論され、安息日の本当の意味を明らかにされたということがあちこちに書かれているのであります。今日の聖書の箇所のすぐ前の6章1~5節の部分もそうでありまして、そこには、主イエスの弟子たちが安息日に麦の穂を摘み、手でもんで食べたということで、ファリサイ派のある人々が、安息日に禁じられている労働をしたとして非難したのに対して、主イエスが旧約聖書に書かれている故事をもって反論されたことが書かれています。また、このルカによる福音書の中では、1310節以下に、主イエスが安息日に会堂で、腰の曲がった婦人の腰をまっすぐにされたのに腹を立てた会堂長が、<労働日である6日間の間に治せばよいのに、安息日に治すのはいけない>と言ったことに対して、主イエスは、<あなたたちは安息日でも牛やろばに水を飲ませるではないか>、と言って反論されたことが書かれていますし、141節以下では、安息日に水腫を患っている人がいて、この時は主イエスの方から居合わせた律法学者やファリサイ派の人々に対して、「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか」と問われ、黙っているので、病人を癒されて、「あなたたちの中に、自分の息子や牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、引き上げない者がいるか」と言われたことが書かれています。
 
このような安息日論争は、律法が重視されていた当時の人々には、関心の深い問題であったかもしれないけれども、今の私たちにはどれだけの意味があるのだろうか、と思う人がおられるかもしれません。しかし、「安息日をおぼえて、これを聖とせよ」という十戒の規程は今も生きていますし、主イエスが論争の中で、「人の子は安息日の主である」(ルカ65)と宣言された言葉は、今も鳴り響いています。旧約聖書の時代の安息日は土曜日でしたが、キリスト以後は、主イエスの復活日である日曜日に移されましたが、安息日の重みはより深まりこそすれ、決して軽くなってはおりませんし、「安息日に何をなすべきか」ということは、私たちの生き方の基本的な課題であります。安息日というのは、ただ労働から解放されて休む日ではなくて、神様の恵みの御業を覚えて私たちが礼拝すべき日であります。そのことの大切さは昔も今も変わっていません。
 
しかし、大事なことは、私たちが安息日に何をするか、何をすべきか、何をすべきでないか、ということの前に、主が何をされたか、ということであります。主イエスが「人の子は安息日の主である」とおっしゃったように、安息日の主役は私たちではなくて、主イエス・キリストであります。主が何をなさったかということが重要であり、更には、主が過去になさったことだけでなく、今も生きて働き給う主が、この安息日に何をしていて下さるかが覚えられなければなりません。
 
今日の聖書の箇所には、主イエスが2000年前の安息日に、会堂にいた手の萎えた人を巡って、律法学者たちやファリサイ派の人々と対決された様子が書かれているのでありますが、その行為や、この時主イエスが語られた言葉にどのような意味があるのか、それが私たちとどう関わるのか、私たちの安息日のあり方をどう変えて下さるのか、ということを、注意深く聴き取る必要があると思います。

1.訴える口実を見つけようと

安息日に主イエスがいつものように会堂に入って教えておられましたが、そこに右手が萎えた一人の人がいました。右手というのは普通、利き手であります。その右手が萎えていては仕事が出来ません。皆が仕事をしている間も、辛い思いをして過ごしていたに違いありません。けれども、安息日が来れば、会堂へ行って、皆と一緒に聖書の教えを聴くことが出来ます。主イエスとお会いし、主イエスの権威ある教えを聴くことが出来るかもしれません。それを楽しみにして、この日も会堂にやって来たのではないでしょうか。
 ところがその会堂には、あまり楽しそうでない人たちも来ていました。律法学者たちやファリサイ派の人々です。この人たちは、主イエスの言動に疑問を抱き、反感を持ち始めていました。7節によると、訴える口実を見つけようとして、イエスが安息日に病気をいやされるかどうか、注目していた、とあります。律法学者やファリサイ派の人々と主イエスとの関係を、ルカ福音書を遡って見てみますと、517節以下のところで、友人によって運ばれて来た中風の人に主イエスが「あなたの罪は赦された」と言われたことに対して、律法学者たちが<神を冒瀆している。神のほかにだれが罪を赦すことができるか>と言ったことが記されています。また続く527節以下(先週の箇所)では、主イエスが徴税人や罪人と一緒に食事をしていることに対して、ファリサイ派の人たちがつぶやいたことが書かれていました。そして6章の初めには弟子たちが安息日に麦の穂を摘んだことに対する問答が記されているのであります。このように、律法学者たちやファリサイ派の人々は、主イエスの言動に対する反感をつのらせながら、今度こそ律法違反の現場を押さえて、訴える口実にしようとして、主イエスがどうされるか、注目していたのであります。病気を癒すという行為も労働の一種と考えられていて、安息日には、生命に危険が及ぶ場合以外は、医療行為であっても禁じられていました。

2.命を救うか滅ぼすか

律法学者やファリサイ派の人々は、会堂に右手が萎えた人がいるのを見て、主イエスがこの人に対して律法違反に当る行為をするかどうかという点を注目していたのでありますが、主イエスは全く別の観点からこの人をご覧になっていたのでありましょう。ここには書いてありませんが、おそらく主イエスは、体が不自由なために仕事につけず、辛い目をしているこの人のことを深く思い遣っておられたに違いありません。この人が<何とかこの手を癒してください>と心の中で神様に祈っているのを聞き取っておられたのかもしれません。9節で主イエスはファリサイ派の人々に対して、「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか」と問うておられます。ここで、主イエスは「命を救うことか、滅ぼすことか」と言っておられます。右手が萎えていることは、命には別状のないことかもしれません。しかし、右手が萎えていることで、この人の人生が危うくなっている、生きる望みを失いかけている、この人の命が滅びの危機に直面している、と主イエスは受け取っておられたのではないでしょうか。ファリサイ派の人たちが律法に囚われた見方をしているのに対して、主イエスは愛と憐れみの心をもって、この人の命が滅びないことを願っておられるのであります。律法の安息日規程の元々の主旨も、安息日における行動を細かく制限することにあるのではなくて、仕事を休んで神様を礼拝することによって、滅びそうになる命を救い出し、新たな命へと甦らせる、ということにあった筈であります。細かい規程を破ったことで悪を行ったとすることが目的ではなくて、神様を礼拝するという最高の善を行うことに導くのが律法の目的であった筈であります。主イエスは右手の萎えた人に対して、そのような最高の善を行いたい、そして命へと救い出したい、との思いでおられたに違いありません。

3.手を伸ばしなさい――主イエスの挑戦

しかし、主イエスの思いはそれだけではありません。8節を見ますと、イエスは彼らの考えを見抜いて、手の萎えた人に、「立って、真ん中に出なさい」と言われた、とあります。主イエスの思いは律法学者やファリサイ派の人々にも向けられていて、彼らが主イエスを訴える口実を見つけようとしているのを見抜いておられます。彼らの魂胆を見抜くのは、これまでの経緯から、主イエスにとって困難なことではなかったでしょう。しかし、自分を陥れようとしている者たちに対してどう向き合うかは、大変知恵の要ることであり、勇気の要ることであります。主イエスは彼らの魂胆を見抜いて、右手の萎えた人に関わるのを避けることも出来ました。あるいは、彼らの見ていないところで、癒しを行うことも出来たかもしれません。あるいは安息日が終わってから癒されてもよかったのです。しかし、主イエスは、手の萎えた人に、「立って、真ん中に立ちなさい」とおっしゃって、敵対者らの見ている前に引き出されました。主イエスは右手の萎えた人のことで、律法学者たちに挑戦しようとされているのであります。彼らの考えていることと、敢えて対決しようとされているのであります。
 
その右手が萎えた人が身を起こして立つと、主イエスは先ほど見たように、「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか」と問われます。安息日の律法の本来の主旨を問うておられます。答えは明らかであります。善を行うこと、命を救うことが許されているのは当然であります。しかし、彼らはその当然のことを忘れて、律法の規定に拘っているのであります。主イエスは彼らと対決しておられるのでありますが、彼らを敵視しておられるのではありません。彼らの陥っている誤りから救い出そうとしておられるのであります。そのために、律法の基本に立ち帰らせようとしておられるのであります。彼らは答えることが出来ません。それは答えが分からないのではなくて、「安息日に許されているのは、善を行うこと、命を救うことです」と答えたら、主イエスが「それなら、この右手の萎えた人を癒すのは善を行うこと、命を救うことになるのだから、許されるではないか」と言われるのが分かったからであります。彼らは何も言えないように、やりこめられたのであります。
 
しかし、これは単に主イエスが彼らの魂胆を見抜いて、彼らが反論できないようにされた、ということではありません。10節を見ますと、このあと、彼ら一同を見回して、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われます。手の萎えた人が、言われたようにすると、手は元どおりになりました。癒しの業が行われたのであります。安息日には命に別状のない場合は癒してはならないとされていた律法の規定を敢えて破って、癒しの業を行なわれたのであります。彼らと言葉の上で戦われただけでなく、実際に癒しの業を行なうことによって、律法学者たちに挑戦されたのであります。これは律法学者たちに訴える口実を与えることになるようなことですから、挑発的と言ってもよいようなことです。安息日の律法を破れば、死に価するとされていました。敢えて死も覚悟の上の行為であります。実に激しい行為であります。
 
なぜ主イエスは敢えてこのような激しいことをなさったのでしょうか。もちろん、この右手が萎えた人を憐れに思う気持ちから、その不幸な状態から何とか早く解放してやりたい、とお考えになったでしょう。しかし、何もこの場で癒さなくても、次の日に回してもよかったし、律法学者たちの見ていないところで密かに癒すことも出来たのに、敢えて、律法学者の見ている前で、癒されました。それは、律法学者たちの中に問題を感じて、その問題と戦おうとされたからです。律法学者たちは、律法の規程に囚われていました。律法の規程を守ることによって、自分たちを正しいとして誇っていました。主イエスはここに彼らの罪を見ておられたのであります。そして、その罪と戦うために、敢えて自らの命を差し出そうとされるのであります。

4.怒り狂って――十字架へ

11節を見ますと、ところが、彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った、とあります。彼らは主イエスの挑発的な行為を目の当たりにして、怒り狂いました。マルコ福音書の併行記事(34)によれば、「どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた」と書かれています。「何とかしよう」というのは、「何とかしてイエスの命を断たねばならない」という殺意を固めたということであります。
 
主イエスはそうなることを見越した上で、死をも覚悟して、右手の萎えた人を癒されたのであります。それは、右手が不自由だった人の幸せのためでもありますが、それ以上に、律法に囚われている律法学者たちを、その罪から解放するためであります。この先は、律法学者を初めとする敵対者たちによって、十字架への道を進まれることになります。しかし、その十字架でこそ、彼らの罪の問題が解決されるのですし、人類全体の罪の問題の根本的な解決があるのであります。そして、そこでこそ、真の命が回復されて、本当の意味での安息がもたらされることになるのです。そのために、主イエスはこの日、敢然と十字架への道を歩き始められたのであります。

結.主は今も戦っておられる

律法学者やファリサイ派の人たちは、安息日に何をすべきか、何をしてはならないか、ということに拘って、そこで、自分たちの正しさを主張していました。私たちもひょっとすると、主の日に何をすべきか、何をしてはならないか、ということに拘ってしまっていないかを振り返る必要があるのではないでしょうか。主の日には礼拝を厳守しなければならない。礼拝以外のこと、自分の楽しみのことやこの世の慣わしに巻き込まれて、礼拝を疎かにしてはいけない。生活を整え、礼拝第一の生活を形成しなければならない。――そうした思いは間違ったことではありません。正しいことであります。
 
しかし、私たちはそのことで人を裁いたり、自分は正しいと思い上がってはいないか、ということを考えてみる必要があります。この伝道所にも、礼拝から遠ざかっている人や、礼拝に来ることに余り熱心だと思えない人がいます。礼拝第一というよりも、他の用事で時間が空いた時にだけ来る人もいるかもしれません。そういう人を裁いて、自分はそういう人より信仰が上のように思ってしまっていないか、ということであります。自分たちは礼拝によく来ているものの、喜んで礼拝に来ているだろうか。義務的に来ているだけではないのか、礼拝に出席していることで、信仰的に立派な人間と認められようとしているだけではないのか。心から安息日を聖としているだろうか。もしかすると、あの律法学者やファリサイ派の人々と同じようなことになってしまっているのではないか。――そういう自分の姿を見つめ直してみる必要があるのではないでしょうか。
 
しかし、今日私たちが聖書から聞いたことは、私たちが主の日に何をすべきか、何をしてはならないか、ではなくて、主イエスが手の萎えた人に何をなさったか、律法学者やファリサイ派の人たちのために何をなさったか、ということであり、ひいては私たちのために、主イエスが何をして下さったのか、ということであります。主イエスは、人の罪をあげつらって、裁いている律法学者やファリサイ派の人々の中にある罪をこそ赦すために、十字架への道を歩まれたのであります。この主は、今日も私たちの萎えた手と、自分では気づかない恐ろしい罪のために、命を投げ出して戦っていて下さるお方であります。私たちはそのお方のことを理解せずに、十字架へ追いやるようなことをしているかもしれません。しかし、主イエスは、この安息日の礼拝において、御自分の命を差し出しながら、敢然と、「手を伸ばしてみなさい」と言われるのであります。私たちは主のお言葉に従って、手を伸ばす者でありたいと思います。主は私たちの手を御心に従って用いて下さるに違いありません。
 
祈りましょう。

祈  り

救い主イエス・キリストの父なる神様!
 私たちは自分の正当性を主張することに熱心で、人の罪を赦すこと、主の大きな赦しに心を向けることに怠りがちな者でありますが、今日、御言葉を通して、主の愛と赦しの御業を私たちのためになして下さり、今もなしていて下さることを覚えることを許されて感謝いたします。
 
どうか、私たちの萎えがちな手をあなたに向けて伸ばし、閉じがちな心をあなたに向かって開く者とならせて下さい。
 
どうか、体や心が萎えている人たちに、あなたの御言葉が届き、まことの安息へと招き入れられますように。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿> 2011年1月16日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書6:6-11
 説教題:「安息日の癒し」
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