序.私たちは健康だろうか

先週は、この地方では珍しい大量の積雪のため、新年礼拝に集まることが出来た方が少数でした。新年礼拝では、今年の「年間目標」である「恵みへの応答」という題で、主題聖句の「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」(Ⅰコリント620)という御言葉を中心に説教をいたしました。是非皆様にも聞いていただきたかったので、説教の原稿をコピーして、お配りいたしました。お帰りになってからゆっくりお読みください。主題聖句の中で、「自分の体で」というのがキーワードの一つなのですが、「体」というのは、<生身の人間>のことであるということを申し上げました。それは、文字通り「肉体」という意味もありますが、「実生活」という意味も含まれていますし、私たちの精神生活、つまり私たちの魂も含めた生身の人間全体という意味であります。そのような霊肉含めた私たちの<生身の体>の全体で、「神の栄光を現しなさい」と勧められているのが、この主題聖句であります。
 
ところが、<生身の体>というのは、時に傷ついたり、健康を損なったりするのであります。不健康な体では、神様の栄光を現すのに支障が出るでしょう。しかし、神様は、不健康な者は役に立たないと言って切り捨ててしまわれるわけではありません。神様は、不健康な者、病を患っている者をも目にとめて、必要な癒しを与えて用いられるのであります。――今日、与えられています聖書の箇所は、ルカによる福音書527節から32節でありますが、その終わりの31節以下に、このような主イエスの言葉があります。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」――主イエスは医者を要するような健康を損ねた病人を招いて、癒すために来たのだとおっしゃっています。何のために癒すのかと言えば、主題聖句とつなげて考えれば、神様の栄光を現すためであります。
 
ところで、私たちは健康な人なのでしょうか。それとも医者を必要とする病人なのでしょうか。――今日の箇所には2種類の人間が登場いたします。一つは、徴税人レビを代表とする人たちです。彼らは当時のユダヤにおいては罪人とされていました。病人扱いされていた人たちであります。もう一つは、ファリサイ派の人々や律法学者たちでありますが、彼らは、自分たちは正しい、健康だ、と自認している人たちであります。私たちはこの2種類の人間のどちらに属すのでしょうか。医者を必要とする病人なのでしょうか、それとも、健康で医者の世話になる必要がないと考えている人間なのでしょうか。――今日は、これらの2種類の人間を見ながら、私たち自身の真実の姿に気づかされたいと思いますし、更には、彼らに主イエスがどう向き合っておられるのかを見ることによって、主が私たちにどう向き合って下さろうとしているのかを知らされたいと思うのであります。

1.収税所に座っている

まず、徴税人レビについて見て行きたいと思います。レビという名前は、「親しむ」とか「結合する」という意味の動詞に由来すると考えられていまして、ユダヤ人の12部族のうちの一つの部族名でもありまして、レビ族だけから祭司を出すことが出来ました。祭司というのは、神殿に仕えることによって、神と人とを結ぶ役割を与えられているのであります。このレビは、そういう意味を持つ名前を与えられていながら、徴税人という仕事をしていました。この仕事は、当時ユダヤを支配していたローマ帝国の手先として、ユダヤ人から税金を取り立てる役目であります。ユダヤ人にとっては、真の神様を知らない異邦人に税金を納めることは屈辱的なことでありました。その上、徴税人はローマの権威を傘にして、定められた税金以上の額を取り立てて私腹を肥やしていたようでありますから、ユダヤ人からは嫌われ者でありました。おそらく、金銭的には恵まれた仕事であったでしょうが、ユダヤ人の間では罪人扱いされていたのであります。ですから、ユダヤ人とは親しい交わりを持つことが出来ず、孤独な毎日を送っていました。神様のことを忘れ、ただ、お金だけを頼りにし、お金を貯めることだけを喜びとするような生き方でありました。福音書の筆者であるルカは27節で、レビという徴税人が収税所に座っている、とレビを紹介していますが、ユダヤ人からは罪人扱いされるという屈辱的な立場にありながら、そこから立ち上がることが出来ず、収税所に座り続けているレビの姿を、ルカはこの一言で表現しようとしたのでしょう。これは病的な姿であります。
 
しかし、このレビの姿は私たちも陥りがちな姿でもあります。レビは神との関係、人との関係を捨てて、お金だけを頼りにする生き方をしておりました。私たちはお金だけを頼りにしている訳ではないし、人との関係も大事にしている、神様との関係もそれなりに保っている、と思っているかもしれません。しかし、私たちの生き方の根っ子には地上の幸せを確保したいという思いがあるのではないでしょうか。贅沢な暮らしは望まないにしても、お金で困るような生活はしたくない、人並みの楽しみは得たい、文化的な営みにも参加したい、一定の名誉や地位も確保したい、子や孫も惨めな思いをさせたくない、そういう思いが根底にあって、そこに座ったままで、神様を信頼して思い切って立ち上がることが出来ないでいるということはないでしょうか。
 
このレビの姿の中にはまた、ある大きな重荷を背負って、立ち上がれなくなっている人の姿を見ることも出来るのではないでしょうか。病気という重荷、人間関係で巧く行かないという重荷、入学や就職の失敗や仕事の上での挫折といった重荷を負っている状況の中で、そこから立ち直る見通しが持てないまま、座り込んでいるのと同様の日々を送っているという状況も、昨今しばしば見られるところであります。レビはそのような、立ち上がれないでいる者たちの代表でもあります。

2.つぶやいて

次に、もう一方の、ファリサイ派や律法学者の姿を見てみましょう。「ファリサイ」という言い方は、彼ら自身がつけた呼び名であります。それは、「分離された者たち」という意味を持っています。彼らは律法を正しく守ることを誇りとし、罪を犯すことから自らを「分離」して、自らを清く保っていたのであります。そのような彼らの目には、徴税人や罪人とされている人たちと一緒に食卓を囲むなどということは許されない行為に見えました。主イエスはこの時だけでなく、しばしば徴税人や罪人と食事を共にされたようで、聖書の中にはそのような主イエスの態度を批判する場面がしばしば描かれています。
 
30節にも、こう書かれています。ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちはつぶやいて、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」
 
ここに、「つぶやいて」と書かれています。これはマタイとマルコの併行箇所には記されていない言葉ですが、ルカはファリサイ派の人たちの批判の中につぶやきを聴き取ったのでしょう。つぶやきというのは、神様への不信仰や反抗の中から出て来るものです。イスラエルの民が荒れ野を旅している間、繰り返し、<なぜ自分たちはこんな辛い旅を続けなければならないのか>とつぶやきました。つぶやきは神様を信頼せず、疑っているところから出て来ます。神様を疑い、神様の愛が分からないから、人を批判し、差別して、自分の正しさを主張しなければならなくなります。
 
私たちもしばしばつぶやきます。現状の不満を誰かのせいにして批判します。つぶやいている時は、自分の問題点には目をつぶって、自分を正しい者としています。つぶやきには愛や赦しがありません。その果てには、神様が何も手を下して下さらないと文句を言います。つぶやきは罪のあらわれであり、不信仰という病気にかかっているしるしであります。

3.罪人を招く主

このような、収税所に座っているレビやつぶやいているファリサイ派の人々に、主イエスはどのように向き合われたのでしょうか。また、その人たちと同様の私たちに、主はどのように向き合って下さるのでしょうか。
 
まず、レビとの出会いについて見て行きましょう。27節にはこう記されています。その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、「わたしに従いなさい」と言われた。このとき主イエスがなさったことはこれだけであります。このあと、28節には、レビが何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った、ということが書かれているのですが、あまりにも簡単な記述であるため、<おそらくこの裏には、何らかの準備段階があったのではないか>という想像をしたくなります。以前から主イエスの話を聞いていたり、ここまでに記されているような奇跡的な癒しの出来事を見ていて、心が大分主イエスの方へ傾いていて、決心の寸前まで来ていた所へ主イエスが来られたのではないか、と考えたくなるのであります。そのような想像は、あるいは当っているかもしれません。そのような準備段階があったことを否定する必要はないと思います。しかし、筆者のルカはそのような経緯には全く無関心であるかのように、一切記さないのであります。ルカが記すのは、主イエスが収税所に座っているレビを「見て」、ということと、「わたしに従いなさい」と言われたことだけであります。「座っている」ということを書いたのは、先ほど述べましたように、レビが徴税人という仕事から離れられなかった状態を表そうとしたためだと思われますし、すぐ後で「何もかも捨てて立ち上がった」ということと対比するためでありましょう。大切なのは、次の「見て」という言葉であります。これは普通の「見る」ではなくて、「じっと見つめる」「熟視する」という意味の特別な言葉が使われています。収税所に座って離れられないレビの囚われた状況を、主イエスが深く理解された、ということであります。それと同時に主イエスはレビには主イエスに見込まれるだけの見所を持っていたのではないか、弟子として相応しい能力や信仰があったのを見込まれたのではないか、と想像したくなるのでありますが、ルカはそのようなレビが選ばれるための優れた条件や資格についても、何も記さないのです。そういうことも、主イエスは見抜かれたかもしれません。しかし、ここで重要なことはレビが収税所から立ち上がれない状態であることを見つめられて、そこから解放しようとされた、ということであります。
 
主イエスは、私たちをもそのように見られる、ということであります。主は私たちの能力や資格を評価して、弟子に採用するかどうか、洗礼を授けるに価するかどうかを決められるのではありません。むしろ私たちの弱さや破れや罪をご覧になって、そこから自分では立ち上がれない状態を憐れまれて、「わたしに従いなさい」と言って、招き出して、立ち上がらせて下さるのであります。
 「わたしに従いなさい」という主のお言葉を、レビがどう受け止めたか、どういう展望を持って、どういう判断で立ち上がったのか、ということについても、何の説明もありません。28節を見ると、彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った、のであります。おそらくレビはこれまでの徴税人としての生活に嫌気が差していたのかもしれません。人々から罪人扱いされることに、やり切れない思いを持っていたのかもしれません。これまでと別の生き方を求めていたのかもしれません。しかし、主イエスが華々しい生活を与えてくれるという保証は何もありません。これまでとは違って人々から評価されるような真っ当な仕事が出来るのかどうかもわかりません。しかし、彼はこれまでに自分が得たものを何もかも捨てることが出来ました。それは、自分のすべてを見通しておられる主イエスの眼差しによって、主イエスを信頼して従って行くように促されたとしか言いようがありません。主に従うとは、こういうことであります。

4.一緒に席に着く

主イエスに従ったレビは、さっそく自分の家でイエスのために盛大な宴会を催しました。そこには徴税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席に着いていた、と29節に書かれています。ここにレビの喜びと感謝が表されています。そこには徴税人も来ています。これまでの徴税人としての生活に決別するために、昔の仲間とは今後付き合わないというのではなくて、彼らと主イエスを結びつけようとしているようであります。レビという名は「結びつける」という意味があると申しました。レビは今、自分の名前に相応しい本来の姿に帰ることが出来たのであります。「ほかの人々」も大勢いたと記されています。どういう人たちであったか。30節を見ると、ファリサイ派の人々は「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」と言っておりますから、罪人とされていた人たちもそこに呼ばれたのでありましょう。当時の世間から爪弾きされていたような人が招かれていたようであります。主イエスのもとで、罪赦された者たちの喜びの交わりがあったということであります。これは教会の交わりを指し示しているように思います。教会は主イエスを中心とする罪赦された者の集まりであります。そこには、罪という病から解放された喜びが満ちています。教会の交わりというのは、人間的に気の合った者同士の親しい者の交わりではありません。共に主によって罪を赦されたことを喜び合う交わりであります。そこには色々な経歴の持ち主がいます。社会における立場もまちまちであります。性格的には合わない者、センスが違うと思われるような人もいるかもしれません。礼儀を弁えないような人も混じっているかもしれません。しかし、主に赦されたという点で共通なのであります。教会の中で何かトラブルや不一致があって、その他のこと(例えば、趣味や楽しみ)で交わりを回復しようとしてもうまく行かないでしょう。教会の交わりを成立させているのは、共に赦されているという一点であります。

結.悔い改めさせるため

さて、既に先ほど見ましたように、レビたちの宴会の様子を見て、つぶやく人たちがいました。彼らは「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」と言って、弟子たちや主イエスを批判しています。彼らは徴税人や罪人たちを差別するだけでなく、主イエスや弟子たちを批判するのであります。そうすることによって自分たちを正当化しようとするのです。そして自分たちの問題に気付いていません。彼らは神様に赦しを求めるのでなくて、自分で正しい者になれると思っています。そこに彼らの病があります。
 
このような彼らに対して主イエスはこう言われました。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」――ここに、主イエスがレビを招かれた理由がはっきりと述べられています。レビが弟子としてふさわしいからではありませんでした。ただ、レビが医者を必要とする病人だったからであります。主イエスはレビをご覧になって、この人には医者としての自分が必要だとお思いになったから、彼を召されたのであります。主イエスの弟子になるというのは、私たちが弟子として相応しいからではありません。私たちが召されるのは、主イエスを必要とする病人だからであります。私たちはそのことに気づかなければなりません。
 
ここで主イエスがこのように述べられたのは、一つにはファリサイ派の人々のつぶやきに答えるためでありますが、それだけではなかったでしょう。これは、ファリサイ派の人たちも自分の病気に気づくためであったのではないでしょうか。彼らこそ、罪人であり、医者を必要としていたのであります。そのような彼らを、主イエスは愛をもって招き入れようとしておられるのであります。彼らこそを悔い改めさせようとしておられるのであります。いや、他人事ではありません。私たちはどうなのでしょうか。私たちは収税所に座ったまま自力では立ち上がれない収税人に似ているところがあるということを見ましたが、それ以上に、他人の様を見て批判しつぶやくことにおいて、ファリサイ派の人々により似ていると言えるのかもしれません。医者など要らないと思っているところがないでしょうか。体の健康には不安があっても、魂の健康には案外自信があるのではないでしょうか。そこに私たちの問題があります。主イエスはそのような私たちを、鋭い、しかし憐れみに満ちた目で私たちを見ておられます。私たちが医者を必要としていることを見ておられます。そして言われます。「わたしが今日、あなたがたのところに、こうして御言葉をもって来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」そして言われます。「わたしに従いなさい。」――この招きに応えて、私たちが頑なに手元に置いておきたいと思っているものを何もかも捨てて、すべてを主に委ねて、立ち上がる者は幸いであります。そこには、主と一緒に席に着くことの出来る盛大な喜びの宴会が待っています。
 
お祈りいたします。

祈  り

憐れみ深い父なる神様!
 主イエスが収税所に座っているレビを見出して、弟子とされたように、今日御言葉において、主が私たちにも出会って下さり、お招き下さっていることを覚えて感謝いたします。
 
自らの罪に気付かず、気づいても自分の力では立ち上がる勇気のない者でありましたが、どうか、あなたのお招きに素直に応える者とならせて下さい。どうかまた、弱い立場の人々、差別的な扱いを受けている人々、体や心に傷を負っている方々と共に、あなたの恵みを喜び合うことの出来る者とならせて下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿> 2011年1月9日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書5:27-32
 説教題:「罪人を招く主」
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