あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。   (コリントの信徒への手紙一620 

 当伝道所の本年の目標を「恵みへの応答」とし、主題聖句としては標記を与えられた。この句が語られた背景には、コリント教会の人々の中に平気で娼婦と交わっている者たちがいた事実がある。彼らはグノーシス主義の影響を受けて、肉体と魂を分けて考え、魂は福音によって肉体から解放されたのだから、肉体は欲望の赴くままでよいとしたようである。それに対してパウロは、肉体と魂を分離せず、それを「体」(生身の人間)という語で表現し、それがキリストの十字架の代価を払って買い取られて、キリストの体の一部とされ、聖霊の神殿とされたのだから、みだらな行いのために用いてはならない、と警告する。
 パウロはコリントの教会の人たちのみだらな行為を問題としているが、それは人間の望みを満たすために生きること、この世の規準で人生を歩むことの問題性の指摘であり、そのような生き方は結局、自己満足や自己実現のレベルに終わってしまって、神の栄光を現す生き方とはならない、ということを私たちに教えている。
 では、神の栄光を現す生き方とは何か。高倉徳太郎はその説教の中で、神の栄光のために生きるとは、個人としては、@悔い改めに導かれること、A悔い改めの心をもって、他の人を赦すこと、B礼拝を中心として教会のために奉仕すること、とし、教会としては、@赦し合いの交わり、A執り成しの祈り、B神の栄光のための戦い、を挙げている。
 では、どのようにして、聖霊の宿る神殿に変えられた私たちの「体」で、神の栄光を現し続けることが出来るのか。それは今月の聖句に答えがある。主イエスは荒れ野でサタンの誘惑を受けられた時、「人はパンだけで生きるものではない」との御言葉を引用してお答えになった。私たちの「体」を生かすのは御言葉のパンである。主の日ごとに御言葉によって神の御心を聴き続けるなら、私たちの「体」(生身の人間、実際の生活)は命の栄光を現し続ける命を保つことが出来るのである。

 米子伝道所新年礼拝説教<要 旨> 2011年1月2日  山本 清牧師 

 聖  書:コリントの信徒への手紙一6:12−20
 説教題:「恵みへの応答」
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