序.今年の「体」の歩みのために

明けましておめでとうございます。
 新しい年の歩みを始めるに当って、この伝道所の「本年の目標」として掲げました「恵みへの応答」ということについて、御言葉に導かれて考えてみたいと思います。
 本年の主題聖句としては、コリントの信徒への手紙一6章の20節を与えられました。そこには、こう述べられています。「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」――この言葉の中には三つのキーワードがあります。一つは「代価を払って買い取られた」ということ、二つ目は「自分の体で」ということ、そして三つ目は「神の栄光を現しなさい」という勧めであります。それぞれについて、後ほど詳しく触れて行きたいと思いますが、この中で「自分の体で」という言い方に大変特徴があります。なぜ、こういう言い方が出て来たかというと、この手紙の宛先であるコリントの教会の人たちの中で、娼婦と交わるというような淫らなことが平気で行われていたからで、それはそのようなことをする個人の体を汚すのみならず、キリストの体である教会を汚すことになるからであります。「体」というのは、生身の人間であります。生身の人間が何を考え、どういう行動をし、如何に生きるかということが問題であります。私たちが信仰を与えられ、キリスト者として生きるということは、精神(魂)の世界だけのことではありません。生身の人間がどう生きるかということです。毎日の実生活の中で神様との関係をどう生きるのか、ということであります。今年の主題聖句は、生身の人間である私たちが、自分自身の生活の中でどう生きるか、また、キリストの体である教会として、どう働くか、ということを教えています。「恵みへの応答」とは、そのような生身の自分やこの世にある教会の具体的なあり方を問うものであります。なぜ今年、そのような目標と聖句を掲げたのか、ということについては、定期総会に向けて発行される「総会資料」の中でも述べたいと思っていますが、この伝道所が多くの恵みを与えられている中で、この群れのひとり一人の信仰の成長にとっても、またこの伝道所が独立教会に向けて飛躍するためにも、抽象的ではなく、生きた体によって、実生活の中で、神様の恵みにお応えして行く必要があると思うからであります。今日は、そのことについて、聖書の語るところを聴き取りたいと思います。

1.すべてのことが許されている――しかし、体は主のために

さて、今日の聖書の箇所の初めの12節には、「わたしには、すべてのことが許されている」という言葉が二度繰り返されています。これは、<私は何をしてもいい、自由なのだ>という意味ですが、この言葉にはどちらも鍵括弧がついています。原文にはついていないのですが、この言葉は当時のコリントの教会の人々の間で語られていたスローガンのようなものを引用した言葉だと解釈をして、翻訳では鍵括弧がつけられたのです。コリントに福音が伝えられて、人々は罪の赦しを知り、律法からも解放されて自由になったことを、このように表現したものと思われます。キリスト者の自由ということはパウロ自身の主張でもあって、ガラテヤの信徒への手紙でも、「自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」(ガラテヤ5:1)と述べています。けれどもパウロは野放しの自由を主張しているわけではなくて、その後で、「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせず、愛によって互いに仕えなさい」(ガラテヤ5:13)と勧めています。ところが、コリントの教会の人たちは、その自由をはきちがえて、自分たちは自由にされたのだから、娼婦と交わるようなことも許される、と考えたようであります。これには、当時、教会の中に入り込んで来ていたグノーシス主義の影響があると考えられています。グノーシス主義というのは、人間を魂と肉体に分けて、魂を価値のあるものとする一方、肉体は魂を閉じ込めている牢獄のようなものだとする考え方です。そして、肉体という牢獄から魂が開放されて自由になることが救いだと考えるのです。そこでは救いということが魂の領域の事柄とされて、肉体的な事柄は救いに関係がないということで、欲望の赴くままでよい、ということになってしまったようであります。こうしたコリントの教会の人たちの誤った福音の理解に対して、パウロは12節で、しかし、すべてのことが益になるわけではない、また、しかし、わたしは何事にも支配されはしない、と言って、彼らの理解に修正を加えようとしているのであります。「すべてのことが益になるわけではない」というのは、自由を与えられたといっても、何をしても益があるわけではない、ということで、「何事にも支配されはしない」というのは、欲望に支配されて、欲望の奴隷になるようなことはしない、ということであります。福音によって与えられる自由とは、自分の欲望に任せて好き勝手にするという自由ではありません。罪から解放される自由であります。欲望からも解放される自由であります。

2.体は主のために

そこでパウロは13節以下で、今日のキーワードの一つである「体」について語り始めます。まず、食物は腹のため、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされます、と言っております。これもグノーシス主義の影響を受けたコリントの教会の人々が言っていることの引用だと思われます。食物は腹を満たすために役立ち、腹は食物をこなして体に養分を供給する役割を果たすのですが、それらはいずれも永続的なものではなく、肉体の死において、その使命を終えて滅びるという意味であります。この言葉には、肉体は魂と違って永続性のないものだから、どうでもよいことだ、という考え方が反映されています。ところが、それに対してパウロは、異なる考え方を述べます。体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです、と言っております。ここで「体」と言っているのは、欲望に支配された肉体ではなくて、イエス・キリストの十字架によって贖われて、罪から解放された新しい体のことであります。その体は、もはや欲望に任せた淫らな行いのためにあるのではなくて、主のためにある、即ち、主イエス・キリストとの関係において生きるためにある、主に仕えるためにあるものです。なぜなら、主イエスは、私たちの体を罪から解放して、主イエスとの新しい愛の関係に招き入れてくださったからであります。
 ここでパウロは「体は主のためにある」ということを言った後で、「主は体のためにおられるのです」と言っております。主イエスが私たちの体のためにおられるというのはどういうことでしょうか。不思議な言葉です。その意味は、次の14節で語られていることだと思われます。神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます、と言っています。父なる神様は十字架に架かられた主イエス・キリストを復活させられました。その力によって私たちをも復活させてくださる、――そのことが、主が私たちの体のためにおられるということの意味です。主イエスは、その十字架の死によって私たちの罪を贖われただけでなく、罪のゆえに死ななければならない私たちの体を、終わりの日にはもう一度、新しい体に復活させてくださる、ということです。そこでは、「体」は決して卑しいもの、滅びるべきものではなくて、神様との関係において永続性をもったものなのです。ですから、「体」はどうでもよいもの、欲望の赴くままに任せてよいものではなくて、主のためにこそ用いるべきものなのです。ですから、淫らな行いのために用いてはならないのであります。

3.体はキリストの体の一部

ここまででパウロは、私たちの「体」は主イエス・キリストが御自分の命をかけて贖って下さって、復活まで約束されたものなのだから、淫らな行いのために用いるのではなく、主のために用いるべきだ、ということを述べて来たのでありますが、15節以下では、更に私たちの「体」について突っ込んだ言い方をいたします。あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか、と言っております。ここまででは、私たちの「体」は私たちのものであって、それをどう用い、どう生かすかが重要なことだ、というように捉えていたのですが、パウロはここへ来て、私たちの「体」は自分たちのものではなくて、キリストの体の一部なのだと言うのです。キリストの十字架によって贖い取られた私たちの「体」は、もはや自分の支配下において、勝手に用いられるものではなくて、キリストのものとなってしまったのであります。「体」というのは、最初にも述べましたように、生身の人間のことであり、私たちの実生活・実人生のことだと言ってもよいのであります。生身の人間、私たちの実人生が、キリストのものとされる、キリストの一部とされている、ということであります。
 これは、通常の倫理・道徳の教えとは根本的に違います。通常の倫理・道徳の教えは、自分の体をどう生かすべきか、自分の人生をどのように世のため・人のために用いるか、ということを教えますが、聖書が教えることは、そういうこととは全く違って、<あなたの体、あなたの人生、あなたの命は、主人であるキリストのものだ>ということなのであります。
 そうなると、15節後半で述べられているように、キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない、ということになります。16節にあるように、娼婦と交わる者はその女と一つの体となる、ということであり、そのことを「二人は一体となる」という、創世記2章でアダムの体からエバが創られたときに言われていた言葉を引用しながら説明しつつ、18節で、みだらな行いを避けなさい、という勧めを語るのであります。
 しかし、ここでパウロが言いたいのは、ただ、<娼婦と交わることをやめなさい>ということだけではないでしょう。ここでパウロが伝えたいことの中心は、17節で述べている、主に結び付く者は主と一つの霊となる、ということではないでしょうか。「霊となる」とはどういうことでしょうか。19節を見ると、知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです、と言っております。「霊となる」とは、私たちの体に聖霊が宿るということです。聖霊が私たちの体の主役になる、ということです。聖霊が私たちのうちに働いて、私たちの体が主と一体とされ、私たちの体の働きが、主のために働くようになる、ということであります。私たちの体が「神殿」である、という表現も用いられています。「神殿」とは礼拝と祈りがなされる場所であります。私たちの「体」、私たちの生身の体、実生活が礼拝と祈りの場となるというのであります。
 ここまでパウロは、コリントの教会の人たちの中で娼婦と交わるということが行われていることを問題にして来ました。そのことであれば、私たちにとっては、あまり関係がないことのように思えます。なぜそんな話を年の初めから聞かなければならないのか、ということになってしまいます。しかし、娼婦と交わるということで表されていることは、肉体の欲望のままに生きるということであり、更には、人間の望みや満足のために生きるということであり、この世の規準で人生を歩むということであります。それは、必ずしも不道徳なことではないかもしれません。むしろ、世のため人のために尽くすということも含まれているかもしれません。しかし、それでは、根本的には娼婦と交わることと変わらないのであります。この世と一体となってしまうことなのです。結局は自分の誉れのためであったり、自己満足のためであったり、自己実現ということで終わってしまうのであります。そこは聖霊が働く場ではありません。主のために「体」を生かすということとはずれて、自分自身のためになってしまうのであります。

4.自分の体で神の栄光を現す

では、私たちの体がキリストの体の一部とされた生き方とは、どのような生き方なのでしょうか。主のために生きるあり方とは、どのようなあり方なのでしょうか。それが、パウロが20節で述べている、本年の主題聖句になります。そこでは、あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい、と勧められています。「代価を払って買い取られた」というのは、主イエスの十字架の犠牲によって、罪の奴隷から贖い取られて、私たちの「体」は、もはや主のものとされた、という意味です。ですから、自分の「体」で神の栄光を現す以外に、体を生かす道はないようにされた、ということです。
 では、「神の栄光を現す」とはどういうことでしょうか。大変高いハードルを課せられるように受け取られるかもしれませんが、これは聖人のような生活をするということではありませんし、皆が牧師や聖職者にならなければならないということではありません。戦前のキリスト教界でよい働きをした、高倉徳太郎という信濃町教会の牧師の晩年の説教に、「神の栄光のために」と題して、二回続けて語ったものがあります。そこで高倉牧師が「神の栄光のために生きる」ということをどのように語っているかを紹介したいと思います。まず、第一回の説教では、個人として、神の栄光を現すことについて述べていますが、その第一は、現実の自分の中に、何ら神の栄光を現すものがないことを知って、悔い改めに導かれることだと言います。栄光はただ神にのみ属するものだということを知り、信じることであります。第二は、その悔い改めの心をもって、他の人と交わることによって、他の人を受け入れて、その人を赦すことが出来るようになって、神の栄光を現すことができる、と言います。そこにはキリストの十字架が現されるからであります。第三は、自分自身を神様がお喜びになる供え物として献げること、自分の生活を神様の祭壇に献げるということ、具体的には、礼拝を中心として教会のために奉仕する生活ということになるでしょうか。次に、第二回目の説教では、教会を通して神の栄光を現すことについて述べられていて、その第一は、教会におけるキリストを中心とした赦し合いの交わりが神の栄光を現すことになると言っています。逆に教会において他を審くことは、神の栄光をぶちこわすことになると警告しています。第二は、教会は祈ることによって神の栄光を現す、と言っております。キリストは十字架を前にして、「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです」(ヨハネ17:24)と祈られました。この主イエスの祈りに導かれて、教会も執り成しの祈りをするとき、神の栄光を現すことが出来るというのです。そして第三は、教会がこの世の中で神の栄光のために戦うとき、栄光を現すことが出来ると言っております。試練と苦難の中で信仰の戦いを戦うことによって神の栄光に仕えることが出来るのであります。
 以上が、高倉牧師の説教の要点ですが、これらのことが出来るようになる根拠は、私たち自身の中にあるのではありません。あくまでも、「あなたがたは、代価を払って買い取られた」ことによって、私たちが聖霊の宿る神殿に変えられえることによってであります。

結.体は御言葉を食べて生きる

では、どのようにして、私たちは聖霊の宿る神殿に変えられるのでしょうか。神の栄光を現す体を保ち続けることが出来るのでしょうか。
 日曜学校のカリキュラムによれば、今日は主イエスの「荒野の誘惑」の箇所を取り上げることになっています。実は、今月の聖句はその中から取りました。それは、ルカによる福音書44節であります。
 イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。――これは悪魔が、「神の子なら、この石をパンになるように命じたらどうだ」と言ったことに対してお答えになったものですが、主イエスは申命記の御言葉をもって、悪魔の誘惑を拒否されました。パンとは私たちの肉体の「体」を生かすものであります。しかし、神のために私たちの「体」を生かすのは、主イエス自らがこの時になさったように、御言葉のパンによってであります。私たちが主の日ごとに御言葉をもって神の御心を聴き続けているなら、私たちは、神様の栄光を現し続ける「体」を保つことが出来るのであります。
 旧約聖書サムエル記上3章1-10を朗読しました。少年サムエルが祭司エリのもとに預けられていましたが、ある日、サムエルは「サムエルよ」と呼びかけられる声を聞くのであります。エリに呼ばれたと思ってエリのもとに行くのですが、エリは「わたしは呼んでいない」と言います。そんなことが三度続いたあと、エリは、「もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい」と教えます。その次、「サムエルよ」と呼ばれた時に、教えられたように、「どうぞお話しください。僕は聞いております」と言うと、主は、御心をお告げになったのであります。私たちもまた、主の呼びかけに、「どうぞお話しください。僕は聞いております」と答える一年を過ごしたいと思います。そうすることで、私たちのような者も、神様の御心を知らされ、「自分の体で神の栄光を現す」ことが出来る者とされるのではないでしょうか。
 お祈りいたします。

祈  り

教会の頭、主イエス・キリストの父なる神様!
 一年の初めの主の日の礼拝において、あなたに呼び出されて、御言葉を賜わることが出来まして、ありがとうございます。私たちは、御子イエス・キリストの代価を払って買い取られた者であることを覚え感謝いたします。どうか、この汚れた体をも、あなたの栄光を現すことが出来る体に変えて下さい。どうか、この群れに連なるすべての者が、この一年、それぞれの体において、また、キリストの体なる教会において、あなたの栄光を現すことが出来ますように。
 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

米子伝道所新年礼拝説教<全原稿> 2011年1月2日  山本 清牧師 

 聖  書:コリントの信徒への手紙6:12-20
 説教題:「恵みへの応答」
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